***** 9 *****

 女中のマリナが主人を見て目ざとく言った。

 「奥様、お顔の色がすぐれませんね」

 「絵のモデルになるなんて初めてだから、緊張しているの」

 アネイシアは内心の動揺をおし隠して答えた。

 「奥様の姿を描いていただけるなんて、いままでなかったことですものね。でも奥様はそのままでじゅうぶんなのですから、いつも通りになさいませ。それより、おひとりでお出かけになられるのが心配です。やっぱりペイトンさんにお願いして、同行くださる方をお願いしてはいかがでしょう」

 「マリナったら、そればかり気にするのね。ロッシ夫人は女性だから大丈夫。これから何度も通わなければならないから、アトリエと屋敷の往復のためだけに侍女を雇うのも、相手に気の毒だわ」

 アネイシアがなんでもないことのように言うと、女中はしぶしぶ口をとじたものの、視線にはなおも心配からくる険しさがにじんでいた。

 マリナの態度はまっとうなもので、アネイシアは心中で申しわけなさばかりがつのる。

 女主人に対して過度の心配性を発揮する女中の疑いは、それがまったく的外れではないからだった。

 アネイシアはくじけそうな覚悟をかためなおして、馬車に乗りこんだ。

 見送る執事たちと屋敷が遠ざかってみえなくなると、馬車の壁をたたいて馭者に行き先の変更を告げる。

 「挨拶したい知り合いがいるの」

 「しかし、おひとりでは……」

 馭者の男は困惑したが、アネイシアはすまして言った。

 「前にもうかがったお屋敷だから問題ありません。でも家の者たちには、心配させるといけないから内緒にしていてください」

 主人にそこまで言われては、男も黙って従うしかない。

 指示された行き先は芸術家たちのサロンがもうけられていた子爵の屋敷で、たしかに以前主人を送りとどけた覚えがある。

 少し時間がかかるかもしれないと馭者に言い残して、アネイシアは馬車をおりた。

 手にはサロンの主であるルマーシ子爵の名がサインされた招待状がある。

 あの男が子爵に頼んで出させたのだろう。

 なぜそこまでして自分に執着するのかアネイシアにはわからない。

 子爵へ挨拶すると、灰色の髭をたくわえた壮年の紳士は意味ありげに彼女をみて、レイモンの居場所を教えた。

 言われるままにホールを出ると、それほど広いと思わなかった住居の奥へ廊下が続いており、二つめのホールが現れる。

 子爵の街屋敷はアパルトマン構造になっている。

 建物の広さから考えると、この廊下で二戸の住宅をつないでいるらしかった。

 こちらのホールは窓をすべてふさいであり、照明も小さくしぼられている。

 なかへ進むのを躊躇していると、急に腕をつかまれ中へひきこまれた。

 アネイシアは「あっ」と声を漏らしたが、つかむ力はゆるまない。

 ささやかな灯火のそばへ連れていかれたところで、ようやく相手の顔が見えた。

 「レイモン……」

 「おっと、ここでは誰も名をあかさない決まりになっているんですよ」

 「ここは、いったいなんなのですか」

 つかまれたままの腕と近すぎる男の距離に、全身に鳥肌をたたせながらアネイシアが警戒もあらわに尋ねると、男は意味ありげな笑みをうかべて答えた。

 「ここの子爵はいろいろな芸術を支援する篤志家だが、自らも真の芸術家でいらっしゃる。絵画や詩と同じように、エロスと快楽もまた大いなる芸術だとご存知だからこそ、こうして秘密サロンを主宰して同好の士をつどっていらっしゃるのさ」

 紳士然とした子爵の裏の顔を知って、アネイシアは血の気がひいた。

 目が慣れてくると、広いホールのあちこちに人がいるのがわかる。

 顔や衣の模様までは判別できないが、二人もしくはそれ以上の人々がひとつのかたまりになって蠢いており、ひそやかな笑い声と衣擦れの音が漏れ聞こえていた。

 「薬と快楽がこのたびの主テーマといったところかな。あなたもどうです」

 レイモンが小さく折りこんだ紙片を懐からとりだして、灯火にかざしてみせた。

 なかに細かな白い結晶が包まれているのだろうとは、アネイシアにも容易に想像できる。

 青ざめたままかすかに首をふると、男は「それは残念」と言って肩をすくめた。

 「あっという間に緊張がほぐれてリラックスできるのですがね。まあいいでしょう、楽しみはあとにとっておくものだ」

 男がしびれるほど冷たくなったアネイシアの手をとって口づけた。

 そのまま手をひくと、少しひらいたままになっている続きの部屋のドアに手をかけ、彼女をなかへうながす。

 寝台がおいてあるのは明白だった。

 あやしげな甘い香のにおいがただよってきて酔いそうになりながら、それでもアネイシアは自分の足で室へ入った。

 老侯爵にただなぶられるだけだった昔とは違う。

 なにがあっても守りたいものがあり、自分の身ひとつでそれが叶う。

 だから、できることをすればいい。

 アネイシアは恥も外聞もなく叫びだしそうな自分を鞭打って、ドアをゆっくりと閉じた。



 「どうぞ、お座りになってください」

 出迎えたヴァネッサ・ロッシはわずかに驚いた顔をみせ、しかしすぐにおだやかに笑んでアネイシアへソファをすすめた。

 「遅いので心配していましたの。ここは中心街からちょっと離れていてわかりにくいでしょう。迷っていらっしゃるのではないかと思って」

 「申しわけありません。寄り道をしたのですが、時間がかかってしまったのです」

 ヴァネッサが女中の用意したお茶をすすめ、アネイシアは礼を言ってカップに口をつけた。

 温かさとうるおいが身体に染みて、この日初めて彼女は緊張の糸をゆるめた。

 体力的に、というより精神が疲弊しきっている。

 これから絵の構図などを打ち合わせることになっていたが、すでに頭の芯はにぶい痛みにおおわれていて、ぼんやりと霞がかっているようだった。

 「先ほど拝見したときから思っていましたが、とてもすてきな首飾ですね」

 ヴァネッサがアネイシアの首もとを見て言った。

 大きくひらいた胸を彩る豪奢な首飾は、とびきり大きな菫青石を真中にして大小の菫青石と金剛石、そしてアクセントに細かな紅玉をちりばめたもので、耳飾、指輪と揃いになっている。

 戴冠式にのぞむ女王が身につけるような手のこんだ装飾だった。

 アネイシアはアトリエへ着く直前に、馬車のなかでこれらを身につけていた。

 レイモンに見られて妙な邪推をされたくなかったし、穢されるようでつけて行きたくなかったのだ。

 「ギオス伯爵夫人の瞳の色と合わせてあるのですね。本当に、最初からすべてそろっていたかのようなあつらえですわ」

 ヴァネッサがお世辞ではなく心からの賛辞をおくると、アネイシアはごく控えめながら嬉しそうな笑みをみせて、胸もとをそっとなでた。

 「ありがとうございます。今回の絵のために夫が贈ってくれたのです」

 ディトラスが菫青石が似合うだろうと言ったとき、アネイシアは昔を思いだしてひどく懐かしく、そして嬉しさがこみあげて胸が熱くなった。

 昔譲りうけた短剣は、いまも肌身離さずもっている。

 柄にはめこまれたひと粒石の菫青石も昔と変わらず、この首飾と同じ輝きを保っていた。

 「薄紫と白のドレスもすてきですわ。どんなポーズにするか、背景はどこにするか、また次回いろいろと決めましょう」

 「では、今日は……」

 いまからすることはなんなのかととまどってアネイシアが問うと、ヴァネッサは完全にくつろいでお茶とお菓子を楽しむ姿勢だ。

 「お疲れのご様子ですから、今日はもうお茶会にしてしまいましょう。体調を万全に整えて全力で挑まなければ、この大きなカンバスには立ち向かえませんからね」

 女画家は焼き菓子をつまみながら、いたずらっぽく言った。

 アネイシアが最初から疲れきっているのに彼女は気づいていた。

 客人に気をつかわせないよう軽い口調でとりなしてくれたのだろう。

 アネイシアはいたたまれなさと感謝でヴァネッサの顔が見られず目を伏せた。

 彼女の提案を笑ってしりぞけられないほど、本当に疲れていた。

 「お言葉に甘えさせていただきます」

 なんとか礼を口にして、アネイシアもすすめられるままに焼き菓子に手をのばした。

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