***** 後日談 *****
アルゴス子爵の次男が逮捕されたという話を友人から聞いたとき、ゼノン・ロウガーニーはいずれそうなるだろうと思っていたことが現実になっただけで興味もわかなかったが、即刻死刑になりそうだと言われれば驚かざるを得なかった。
「評判のよくない人物には違いないが、まさか不倫やたちの悪い賭博程度で斬首とは、あまりに重い刑じゃないか」
大学の法学部に在籍するゼノンがいぶかしげに言うと、同級生のニキアス・グレクはあきれた顔を彼へ向けた。
「もちろん、そんなことじゃ罪にもならない。腐っても貴族だからな。極刑の理由は麻薬を扱っていたせいだ。それもあやしげな魔術に傾倒する一派へ供給して、儀式で使用されていたらしい。それらの捜査に全面的に協力して早期の真相究明に貢献したのは、ギオス伯爵と夫人だって話じゃないか。ゼノンは本当に知らなかったのか」
「兄上が? いや、しばらく屋敷には帰っていないし、兄上にも会っていないんだ」
「じゃあ、ぜひ話をきくべきだな。事件の当事者に直接インタビューできる機会はそうそうない。今度会ったときには詳しく話をきかせてくれよな」
ニキアスは青年の背中をたたいて行ってしまった。
アルゴス子爵の三兄弟のことをゼノンは以前から知っている。
末弟が彼と同年代のため、なにかと顔をあわせる場が多いからだ。
その関係で二人の兄のことも知っていたが、次男がどうでもいいトラブルをおこしては醜聞をまき散らしているのも、よく耳に入ってきた。
ディトラスと彼らにつながりがあるとは知らなかった。
ましてや夫人が関わってくるとは。
青年は数か月前の異様な結婚式を思いかえす。
著しく出席者の少ない式の後は披露宴もなく、息のつまりそうな食事会だけで済ませられたのである。
新婦側の身内は父親しか現れず、妹のネリダも不安そうにして、いつものおしゃべり好きがすっかり影をひそめていた。
あのときの新婦の顔をゼノンは思いだせない。
ベールをかぶっていたし、終始うつむきがちだったからだ。
声すら聞いたかどうかさだかではなかった。
「たまには帰ってみるか」
友人に言われたからというわけでもなかったが、久しぶりに兄弟に会ってもいい気分になってきて、ゼノンは一度自宅へ戻った。
進学のときに大学からほど近い場所に借りたアパルトマン型の部屋で、女中二人と従僕一人をかかえている。
狭い二人部屋でなんでも自分でやらなければならなかった寄宿学校時代に比べると、いまの生活は天国だ。
ゼノンは使用人に侯爵家へ戻ることを告げ後を任せると、服をあらためて再び出ていった。
兄のディトラスはゼノンにとってそれほど近い関係ではなかった。
それでも、幼いころはよく遊んでもらった記憶がある。
三つ年上の兄は大人びてみえたものだが、二十歳になったいまでもその印象はあまり変わらない。
兄からうとんじられたりはしないものの、父が兄を後継者として非常に厳格に教育し、対照的に弟妹には関心を示さなかったのが原因で、いつのころからか見えないへだたりができたのは事実だ。
兄はゼノンと同じ大学の出身だが、進学してからも屋敷を出るのを父は許さず、毎日時間をかけて通うかたわら父の仕事も手伝っていた。
三年で卒業した後は意外にも軍務についているが、父の仕事も一部ひき継いでいるらしい。
久しぶりに帰ってきた屋敷の雰囲気が以前と違う気がして、ゼノンはしばらく玄関ホールであたりを見まわしてしまった。
彼の突然の帰宅に驚いただろう執事のペイトンが、内心をうかがわせないすました態度で出迎える。
「ネリダもこっちへ来ているのか?」
領地の本邸住まいのさわがしい妹が街屋敷にいるときは家内もどことなく浮ついた空気になるためそう尋ねてみたが、執事は静かに首をふった。
「本日はどなたもいらっしゃっておりません」
言われてみれば、たしかにおちつかないというより柔らかな雰囲気がただよっているといったほうがいいかもしれない。
違和感をぬぐいきれないまま広間でお茶を飲んでいると、まだ外出中とばかり思っていた兄ディトラスが現れた。
「まったく、帰る前にひとこと知らせを出すくらいできないのか」
「急に思いたってね。ところで、兄上がこんなに早い時間に屋敷にいるなんて珍しいじゃないか」
ディトラスは向かいのソファに腰をおろして足を組んだ。
「ついさっき帰ってきたばかりだ。だが、まあ軍務からはいずれ身をひこうと思っている。いまは忙しすぎるからな」
兄らしからぬ言葉に、ゼノンは驚いた。
父の敷いたレールから基本的にはずれることのなかったディトラスが、何度やめろと言われても続けてきたのが軍部の仕事だからだ。
「兄上は本質的に、父上とはまったくそりが合わないと思っていたよ。その主張の一端が軍勤めだと思っていたんだけど?」
ディトラスは返事をしなかったが、皮肉を含んだかすかな笑みが弟の考察を肯定している。
「どのみち最近新しい事業をたちあげたところで、両立は難しかった。いまだに新婚旅行すら行けないんだからな」
「兄上がそんなことを気にするとは思わなかった」
完全に仕事のひとつとして結婚という契約を交わしたようにみえた兄から、新婚旅行などという単語がとびだしたのはあまりに意外である。
妻となった女性は気をつかう必要のない相手で、むしろ婚姻しただけで彼女の父親からは泣いて喜ばれそうなものだ。
そういえば、とゼノンは友人の言葉を思いだす。
「小耳にはさんだんだけど、アルゴス子爵の息子の逮捕に一役買ったらしいね」
「そんな話をどこで仕入れてきたんだ」
「貴族のスキャンダルを広める手際の良さといったら、電信技手も真っ青だよね」
「時間をもてあました暇人が多すぎるんだ。――あの事件に貢献したのは、俺じゃなくアネイシアだ。事情があって犯行の証拠品を保管していたのが役立った」
ゼノンはあいづちをうちながら、一瞬アネイシアの名を失念していた。
すぐに兄の夫人だと思いだしたものの、彼の口からその名が発せられるのはなにか耳慣れない気がする。
「おおやけには伏せられたが、『奴』から大量の薬を購入していたのは王妃だ。自分の子を王太子にするため、前王妃の子を呪い殺す黒ミサで使用したらしい。ばかばかしい話だが、儀式には大物の貴族も参加していて、王妃を罪に問うと芋づる式に少なくない数の逮捕者が貴族からでてしまう。そのため日ごろから評判の良くないアルゴス子爵の次男が、すべての罪を背負うはめになったというわけだ」
「……なるほど、どうりで処刑の決定が早いと思ったよ」
呪いや黒い魔術を信仰するのは重罪である。
そこに王族が関わったとなると大スキャンダルだ。
犯人が余計なことをわめきださないうちに口を閉ざしてしまおうというのが、上層の総意に違いない。
人柱となった哀れなアルゴス子爵家は今後とり潰しとなるか、そうでなくても極めて不利な立場に追いやられるだろう。
「あの男がどうなろうと、なんの痛痒も感じはしないがな」
兄が吐きすてるように言った。
彼のそういった感情の発露はまれだ。
ゼノンは屋敷内に感じたのと同様の変化を兄にも感じた。
「ええと、そう、その事件の功労者の彼女は元気でいらっしゃるのかな」
なんとなくためらいがちに話をふってみると、ディトラスは「ああ」といま気づいたようにそっけなく答える。
「この時間は庭に出ているはずだが」
「じゃあ、あいさつをしてこよう」
ゼノンが立ちあがるとディトラスは目を向けてきたものの、一緒についてはこなかった。
ニケラツィニ侯爵家の庭園はいつも完璧に手入れがいき届いている。
ビジネスにしか関心のなさそうな父が、意外にもガーデニングを趣味にしているからだ。
とはいえ、この街屋敷はもう何年もディトラスが主人となっていて、ニケラツィニ侯爵はごくたまにしか滞在しない。
その庭園の一角に白石の建造物ができているのに気づいたゼノンは足をとめた。
石は円形に組まれており、一見して噴水とわかる。
水が通っていないし周囲も不自然に土がめくれたままなので、まだ築造途中らしかった。
兄はガーデニングには特に興味はなく、いままで庭に手を入れたことはなかったはずだ。
いったいなんの心境の変化かと不思議に思いながら横切っていった先、木陰におかれたガーデンテーブルで女性がくつろいでいた。
つばの広い帽子の下から見事な銀髪がこぼれている。
顔は隠れていたが、椅子の背にもたれることなくすっと伸びた背は凛として、本のページをめくる指先まで洗練してみえた。
結婚式のとき力なくうなだれていた物憂げな姿とは別人のようだ。
ゼノンが所在なく立っていると、女性のそばにひかえた女中が彼に気づき、主人へ耳打ちした。
女性は本を閉じて顔をあげ、ゆっくり彼のほうを向く。
青年を驚かせたのは、長い銀のまつげにふちどられた宝石のような瞳だった。
吸いこまれそうな夜空の輝きに目を奪われているうちに、彼女はこちらへ歩いてきた。
「お久しぶりです、ゼノン様」
「……結婚式以来ですね。どうぞゼノンと呼んでください」
青年は慌てて彼女の手をとり甲にキスをした。
「では私のこともアネイシアとお呼びください」
彼女はゼノンを導いて再びテーブルへ戻ると、向かいの椅子をすすめる。
「旦那様にはお会いになりましたか」
アネイシアが尋ねるあいだも、青年は彼女に見入っていた。
「ええ……先ほど会いました」
「それは旦那様も喜ばれたでしょう」
ゼノンのあからさまな視線に気づかないわけはなかっただろう、しかし彼女は穏やかな態度を保ったまま微笑をたたえて答える。
青年はゆったりと言葉をつむぐ少し低く心地よい声に耳をかたむけ、合わせて動く薄桃色の唇に不意に色香を感じてぎくりとした。
深青の瞳のなかに自分の姿が映っているのを自覚したとたん体温があがった気がする。
これはまぎれもなくひとめぼれという恋の前兆だった。
いや、それはすでにスタートを切ってしまっていたかもしれない。
彼女のなにもかもが好ましく感じられて、ゼノンは思わずテーブルにおかれた白い手をとりそうになった。
かろうじてとどまったのは、そばにひかえる女中の視線で我にかえったからだ。
恋愛事など初めてではないのに、まるで初恋におちた少年のようにどぎまぎして頭が働かない。
なにか言わなければと内心焦っていると、「大学で法学を学ばれているそうですね」とアネイシアから話題を提供してくれた。
女性にリードさせてしまった気恥ずかしさも手伝って、ゼノンは妙に大げさにうなずく。
「弁護士を目指しているんです。父上や兄上の助けにもなるでしょうから。そう、カリシャ子爵の縁者でエイルー・テオドラキスという若手の弁護士が最近名声を得ていますが、おれは彼の強引なやりかたには賛同できません。もっと事務弁護士と連携して、依頼人の話に丁寧に耳を傾けるべきだと考えているんです」
あきらかに若い女性と一対一でする内容ではないと途中で気づきながらも、しゃべり続ける口はとまらなかった。
しかし、意外なことにアネイシアはその弁護士の名を知っており、真面目に話を聞いていた。
「あなたは法廷弁護士になられると思いますが、事務弁護士の方で興味深い視点から実際の判例を解説している本があります」と言って、いくつかの名前と本のタイトルをあげてくれさえしたのである。
「ここの蔵書室にも何冊かそろっています。お役にたてばよいのですが」
「アネイシアも学校で法律を学んだのですか」
驚いて尋ねたゼノンに、アネイシアは首をふった。
「いえ、私は学校へ通ったことはありません。何人かの家庭教師の方の教えをうけたのと、手近な本を読んだ程度ですから」
彼女は強く謙遜したが、話をしていくうちに聡明な人だというのはすぐにわかった。
ゼノンはアネイシアとの会話に夢中になり、いつまでもここで話し続けていたかった。
どれほどの時間が過ぎたのか、女中がひかえめに、しかし毅然として「そろそろお食事でございます」と口をさしはさんでくるまで、彼は一度もアネイシアから目をそらすことができなかった。
食事を終えて自室のソファへだらしなく身を沈めたゼノンは、ずっとふわふわとおちつかない心地を味わっている。
食事中のアネイシアは庭にいたときと比べてずいぶん会話にひかえめで、彼はもっぱら兄とばかり話すはめになった。
必死に彼女へ水を向けてみても先ほどのように饒舌ではなかったし、すぐに話をディトラスへ渡してしまう。
兄もそう積極的にアネイシアと会話を交わすわけではなく、淡白な態度にみえた。
結婚式の日を思えば比較するまでもないほど穏便な雰囲気ではあったが、それにしても新婚の夫人に対して冷淡すぎてはいないだろうか。
彼女との仲がいまだにうまくいっていないのかもしれない。
もしアネイシアがずっと苦悩しているのだとしたら。
ゼノンはもやもやとした気分になって、隣にあったクッションを力いっぱい抱きしめる。
それにしても、食堂に現れたアネイシアの装いはすばらしかった。
晩餐用の真紅のドレスは胸もとが大きくひらいていて、白い肌に目が吸いよせられる一方後ろめたさで視線をひきはがすという、煩悩と理性の攻防をくりひろげつつも、彼女の姿をぞんぶんに堪能したのだった。
もう明日までアネイシアには会えないだろうか。
ゼノンはクッションをかかえたまま十分ばかり右へ左へと転がったが、ついに勢いよく立ちあがると部屋を出た。
彼女にすすめられた本を持ってたずねていけば不自然にならないのでは、と作戦をたてて先に蔵書室へ向かう途中、ディトラスの書斎のドアが少しひらいているのに気づいた。
扉のたてつけが悪くなっているらしい。
執事に伝えておかなければと思いながら、閉じるためにドアノブに手をかけたゼノンにはなんの他意もなかったが、隙間からみえた書斎の壁の絵が、彼に見て見ぬふりをさせておかなかった。
考える前にドアをあけてしまった彼の目に、大きな額の人物画がとびこんでくる。
書斎に飾るには大きすぎるし、人物画よりは風景画でも飾るほうが一般的だろう。
なによりそのモデルは、ほかならぬアネイシアだったのである。
あの神秘的な目がまっすぐゼノンを見つめている。
まるで彼の心のなかまで見透かすようだった。
手に持った短剣という珍しいモチーフが、彼の不埒な恋情を牽制する隠喩のように思えて、彼は気まずく目をそらす。
なぜアネイシアの結婚相手が兄だったのだろう。
ニケラツィニ侯爵の嫡男である彼には、もっとふさわしい令嬢がいたはずだ。
父が自分を彼女の相手に選んでくれていれば――。
「こんなところでなにをしているんだ」
低い声にはっと顔をあげると、ディトラスが戸口に立っていた。
あからさまに不審者を見る目つきである。
主のいない書斎へ勝手に入るという不躾な真似をしたゼノンに完全に非があるため言い訳はできない。
素直に謝罪すると、兄はひとつため息をつくだけですませてくれた。
「アネイシアの絵が見えたから気になって」
弁明するようにゼノンが見あげた絵画に、ディトラスもちらりと目をやった。
「知りあいの画家が描いてくれたものだ」
簡潔な答えに加えて、なぜ書斎に飾っているのかを説明する気はないらしい。
「ええと、彼女とはどうなの?」
ゼノンが磨きあげられた机のふちにもたれて、いかにも世間話でもするというように言った。
「どう、とは?」
絵から目を離して弟をじっと見るディトラスにやましい気持ちがばれてしまっているのではないかと、青年は意味もなく手を組みなおす。
「こっちの屋敷で二人きりの生活だろう? その、結婚も突然だったし、お互いのことをよく知らないからやりにくいんじゃないかと」
しどろもどろになりながらも私的な領域に踏みこむ質問をしたゼノンを見るディトラスは、案の定あきれた顔で言った。
「結婚とはそういうものだろう。あの父上のことだ、そのうちおまえにも突拍子もない縁談をもちこんでくるさ」
兄弟の夫婦仲をさぐるような言動はさすがに気まずく、兄も不快とまではいわなくとも居心地悪く思ったらしい。
だいたい、彼にどんな答を期待していたというのか。
ほとんど目も合わせないほど関係は冷えきっていると言われたところで、ゼノンがアネイシアを兄から奪うことなどできはしない。
いや、密かに彼女の気をひこうと涙ぐましい努力をしたかもしれなかった。
しかしディトラスの言葉はあいかわらず無味乾燥で、いったい二人の日ごろの様子がどんなものなのか想像もできない。
そわそわとおちつかないゼノンをしばらく見ていたディトラスは、棚からグラスを二つとボトルをとりだし、弟を応接用のソファに座らせると、卓をはさんだ正面に自分も腰をおろした。
上着をぬいで無造作に背もたれへかけ、二つのグラスに酒をつぐ。
「いい機会だから、ゼノンに話しておきたい」と言って、ディトラスはグラスをひとくち飲んだ。
手をつける気になれず、蒸留酒のとろりとした黄金色をみつめるだけだった青年は「アネイシアのことだ」という言にいっそう動揺した。
まさか、本当に兄は自分のよこしまな想いに気づいたのだろうか。
「いまの軍務から身をひけばそう危険な目にもあわないが、もし俺に万一のことがあったときは、おまえに彼女の保護を頼みたい」
「そ、それは、どういう……」
思いがけない話だったため、ゼノンは理解が追いつかなかった。
「アネイシアの父親ハイオーニア伯爵の評判は、おまえも知っているだろう。なにかあっても彼女が帰れる場所じゃない。事情があって父上にも任せられない。だから、俺が動けないときはアネイシアを守ってほしい」
「事情ってなんだ? 彼女は父上が選んで連れてきた人だろう。最低限の保護はしてくれると思うけど」
「父上はアネイシアの個人資産に目をつけている。いまは誰も手をだせないよう俺が管理しているが、現状彼女の味方をしてやれるのが俺しかいない。おまえにも彼女の味方になってもらえれば、ありがたいと思っている」
「例えば、兄上が急死したとして、おれがアネイシアの夫になってもいいと?」
「……それが、最良の選択なら」
わずかに言いよどんだ気がしたがそれは本当に一瞬で、答えたディトラスは変わらず事務的だった。
急に深刻な話をうちあけられてゼノンは驚いたが、兄の冷静な態度をみていれば、夫の義務として妻のことを頼んだだけのつもりだったのかもしれない。
もしくは父のアネイシアへの干渉が強すぎて、それに反発するためにゼノンを巻きこんだ可能性もある。
どんな思惑があったとしても、仮定とはいえあっさり妻と弟の再婚を認める発言をした兄は、やはりアネイシアへの特別な情愛をもっているわけではないと思わざるを得なかった。
書斎を辞した後も、ゼノンは自分のほうが彼女を幸せにできるのではないかという思いにとらわれて、蔵書室に本をとりにいくことも忘れ、自室で悶々と夜をすごした。
翌日ゼノンが目を覚ますと日はとっくに高くなっており、女中が放蕩者を追いたてる勢いでカーテンをあけにくる。
「皆様とっくに食事をお済ませですよ」
「……なんだか外がさわがしいな」
窓から聞こえるかん高い声に顔をしかめると、「お嬢様がお戻りになりました」と女中が告げた。
「ネリダが?」
妹はずっと領地の本邸に住んでいる。
示しあわせたわけでもないのに三兄弟がひとところに集まるなど、珍しいこともあるものだ。
昨夜から結局ほとんど眠れないまま、ゼノンは寝ぼけまなこで服を整え部屋を出た。
ホールへおりたところで、タイミングよくネリダが外から戻ってくる。
「あっ、ゼノン兄上! やっと起きたの」
「おまえの大声で起こされたんだ。まさかひとりで来たのか」
「父上も一緒よ。でもすぐお出かけになったわ。ホテルに泊まるのですって。父上ったら、ディトラス兄上に追いだされちゃったのよ」
少女はおかしそうに笑い声をあげた。
どういうことだとゼノンが問いかえすまえに、アネイシアも外から帰ってきた。
「ごきげんよう、ゼノン。よく眠れましたか」
「ええ、おかげさまで」
アネイシアの朝のドレス姿を堪能しながら、青年は眠気を吹きとばして最大級のさわやかな笑顔をつくった。
「ゼノン兄上! わたしアネイシアさんに綺麗な押し花のつくりかたを教えてもらったの。乾燥させるときが大事なのよ。午後からは一緒にお花を摘みにいく約束をしたんだから」
ネリダが興奮して顔を上気させる。
「ね?」と同意を求めてふりかえる彼女に、アネイシアは微笑んでうなずいた。
兄の結婚式の日、あれほど不安そうにしていた妹は、この朝の数時間ですっかり義姉になついてしまったらしい。
「ところで兄上はどうしたんだ」
皆と一緒に庭へ出ていたわけでもないようだと尋ねるゼノンに、ネリダはしわになったスカートを気にしながら答えた。
「お仕事があるから書斎にこもっているの。でも、そろそろ終わるころだからってわたしたちも戻ってきて……あ、ほら」
少女が目を向けた先の大階段から、話題の本人がおりてくるところだった。
「もうお仕事は終わったの?」
「ああ。それにしても、おまえは年々声が大きくなるな。三階まで響いてきた」
「もう! ディトラス兄上までおんなじことを言うんだから。いじわるばかり言うなら、午後の散策には兄上は連れていってあげない」
「散策? いや、昼食の後アネイシアと出かける予定ができた。暇なら久しぶりにゼノンと買い物にでも行ってきたらどうだ」
「えッ!」とネリダとゼノンが同時に声をあげた。
アネイシアと出かける約束をしていたネリダはともかくゼノンの大げさな反応に、ディトラスはなんだというように片眉をあげた。
まさかアネイシアと半日も会えないのにショックをうけたとは言えず、青年は「ネリダの買い物は長いんだ」とそれらしい文句をひねりだす――それも事実には違いない。
「わたしだって、お買い物はアネイシアさんと一緒に行きたいわ! 新しい靴を選ぶのを手伝ってほしいし、女性のあいだで流行っているコーヒー・ショップがあるのですって。こっちにいるうちに絶対に入ってみたいんだから!」
あいかわらず一度しゃべり始めたらとまらない妹のかしましさにおされて、兄二人はすでに閉口している。
二人とは年の離れた末っ子で娘ひとりのせいか、兄たちは基本的に妹には甘いのだ。
「わかった、明日はネリダの買い物につきあおう。とにかく今日は、おとなしくゼノンと遊んでいてくれ」
ディトラスの言葉にも頬をふくらませてむくれたままのネリダに、アネイシアが声をかけた。
「約束したのにごめんなさい。明日は皆さんとお出かけしましょう。私の部屋の鏡台のひきだしに、いろいろなリボンをしまった箱があるのです。ひとつさしあげますから、お好きな色を選んでくださいね。帰ってきたら、似合うドレスや小物と合わせてみましょう」
すばらしい提案を聞いたネリダは、あっという間に機嫌をなおした。
「本当にアネイシアさんのリボンをもらえるの? わたし真剣に選ぶわ! だから早く帰ってきてね」
妹をご機嫌にしたばかりかお守り役からも解放されそうで、ゼノンはアネイシアに心から感謝したのだった。
ネリダが女中とともにアネイシアの部屋から出てきたのは、だいぶ日が傾いたころだった。
彼女はやりきった達成感をすがすがしい表情にただよわせ、娯楽室で本を読んでいたゼノンのもとへやってきた。
「アネイシアさんって綺麗なリボンをたっくさん持っているの。シルクやリネンや、織物のリボンもあったわ。金糸をつかったのをもらったらさすがに図々しいから、それは遠慮したんだけどね。わたしの持っている衣装やアクセサリーと合わせて選んでみたから、アネイシアさんがなんて言ってくれるか楽しみだわ」
静かな午後が終わりを告げたことを悟ったゼノンは、おとなしく本を閉じた。
「ネリダはずいぶんアネイシアを気にいったんだな」
「だって、アネイシアさんってすっごく綺麗で優しくてなんでも知ってて、それに仕草全部が美しいの! 話す声がおちついてて心地いいし、ドレスは大人っぽくて素敵だし、とにかく理想の貴婦人だわ。わたしも社交界デビューするまでに絶対、ぜったい、あの人みたいになりたい!」
惜しみない称賛のすべてに内心大きくうなずきながらも、ゼノンは十三歳の妹があと四年で彼女のようになれるとはとうてい思えなかった。
しかし目標をみつけて努力するのはもちろんいいことだし、可能ならぜひともアネイシアを超える貴婦人になってもらいたいものである。
「それに」とネリダはさらに続けた。
「ディトラス兄上ととても仲がよさそうだもの。結婚は貴族の義務だなんてみんな言うけど、愛しあえるならそれが一番に決まっているじゃない? だからディトラス兄上とアネイシアさんは理想の夫婦像でもあるの」
「ちょっと待ってくれ」
ゼノンは思わず少女の話をさえぎった。
昨日から二人を見ている彼にはとても同意できない意見がとびだしてきたからだ。
「今朝の数時間いただけで、そう思ったのか? たしかに結婚式当日よりは打ち解けたかもしれないが……というより、式のときが最悪だったからな。それでも、あの二人がなごやかに話をしているところなんて一度もみかけなかったぞ」
「ゼノン兄上って鈍いのね」
ネリダがあきれたように兄を見た。
そんな表情をすると妹と長兄はよく似ている。
髪と目の色彩も近いし、なにかと気質に共通点が多い。
「朝、二人とも寝室からなかなか出てこなかったし、わたしがいるのに気づかなかったディトラス兄上が、アネイシアさんのことアンって愛称で呼んだのを聞いちゃったもの。いつもの不愛想な兄上じゃないみたいに優しい顔をしていたわ」
「それは本当に兄上か?」
ネリダの話を聞いてもなお、いやむしろまったく別人のことを言っているのではと思ってしまうほど、ゼノンは信じられなかった。
だいたいディトラスは独身の時分からそこそこ浮名を流していたが、噂の相手といるところを弟に目撃されようと悪びれもせず、本当につきあっているのかと疑いたくなるほど淡々としていたのだ。
いかにも懐疑的な兄の反応に、ネリダは憤慨して「いいわ!」と声をあげた。
「これから証明してあげる」
腰に手をあてて仁王立ちをする妹はおかしくてかわいいが、「どうやって?」と聞くと、おもむろに彼の口を片手でふさぎ、もう一方の手の人差し指を自分の口におしあてる。
「シ―――ッ……」
シー、と言ったきり時がとまったように動かなくなったネリダを見て、新手の遊びかとしばらく黙ってつきあったゼノンだったが、いい加減面倒になって口をふさぐ小さな手をどけようとした瞬間、彼女ががばっと勢いよく身をおこした。
「こっちよ!」
兄の手をつかんで駆けだしたネリダは、一階へおりると裏手へまわりサンルームから外へ出る。
生け垣の陰におしやられて使用人の怪訝な視線にさらされていると、玄関のほうがあわただしくなった。
そっとのぞいてみれば、馬車からおりたディトラスとアネイシアを執事が出迎えたところだった。
「おまえ、兄上たちが帰ってきたのがなんでわかったんだ」
あまりにもぴったりのタイミングだったのでゼノンが驚いて尋ねると、少女は平然と答える。
「だって馬車の音がしたでしょう? それに、なんとなく気配ってわかるものだし」
ゼノンは口達者でさわがしいだけだと思っていた妹が本当は大物かもしれないと、考えをあらためた。
彼には馬車の音など聞こえなかったし、人の気配を気にしたこともない。
執事に荷物を預けた二人が屋敷へ入らずそのまま庭のほうへ歩いてくるのを見て、ネリダは「やっぱり」と嬉しそうにほくそ笑む。
「家にはわたしたちがいるのを知っているんだもの、二人きりになるなら庭しかないと思ったのよね」
それを狙ってわざわざ裏側からまわって隠れたのかとゼノンはやっと気づき、妹の勘の良さに再び考えをあらためて畏敬という評価を追加した。
「まさか、このまま盗み聞きするつもりか?」
「さっき証明するって言ったでしょう」
および腰の兄をひっぱって植えこみのあいだを移動していくネリダは、昨日彼がアネイシアと再会したガーデンテーブルのそばにある大木の後ろで腰をおとす。
こんなところを彼女にみつかったらどんな顔をされるかと、ゼノンが情けなさに頭をかきむしりたくなっているうちに、ゆっくり散策していた二人の声が聞こえる距離まで近づいてきた。
「……本当に、あれが人気の構図になっているとは思いませんでした」
「ヴァネッサもきみのおかげで人気画家の仲間入りだな。あれほど注文が殺到しているとは俺も知らなかった」
「私はいまも複雑な気持ちです。短剣を持った女性なんて、不快に思う方もいるでしょう。ディトラス様が悪しざまに言われるのではないかと心配なのです」
「あれを一番気に入っているのは俺だ。だから書斎に置いている。きみがあの短剣をずっと持っていてくれたことがうれしいんだ」
話題がディトラスの書斎にあった絵画だというのは、ゼノンにもわかった。
ヴァネッサ・ロッシとは彼も交流があり親しくつきあっている。
今日は彼女のアトリエへ訪問していたらしい。
近ごろ女性たちのあいだで一風変わった肖像画を描いてもらうのが流行しているのは、ゼノンも知るところだった。
たおやかな貴婦人が剣や銃といった男性を象徴するモチーフの小物を持った構図が、倒錯的で受けているらしい。
流行の発端が、あのアネイシアの絵だったとは。
はかなげな印象のアネイシアと鋭い光を放つ鋼の短剣の組みあわせは、たしかにアンバランスでいながら目をひかずにはおかない魅力をぞんぶんに発揮していたが、あれはアネイシアというモデルとヴァネッサの画力があってこそじゃないかとゼノンは密かに思った。
「あの絵は、ロッシ夫人に依頼したものだったのね」と妹が隣でつぶやく。
彼女もすでに兄の書斎で目にしていたようだ。
兄は自分の書斎にはあまり仕事に関係のない人間を入れたがらないので、ゼノンと同じく彼女も勝手に盗み見たのかもしれない。
ガーデンテーブルまで歩いてきた二人は椅子に座って、まだ日の落ちきらない赤みを帯びた庭園の、貴重ないっときをながめて楽しんでいる。
しかしディトラスはすぐに視線をアネイシアへ戻して、彼女の横顔を見つめた。
兄はときどき不躾なほどまっすぐ人を見ることがある。
それは彼が相手に好意をもっているときの癖なのだとゼノンはよく知っていた。
アネイシアが視線に気づくと、ディトラスは彼女のこめかみにキスをした。
「今朝は父上と鉢合わせするはめになってすまなかった。せっかちな人だから、知らせより先に自分が到着していることがよくあるんだ。次からはペイトンに言って、顔を合わせないですむようにしておく」
「お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫です。過ぎたことですし、私は侯爵がお怒りになって当然のことをしたのだと、いまも思っているのです」
「俺が父を許せないんだ。きみは聴覚を奪われるほどの暴行をうけたんだぞ。それに、あのとき俺たちを襲った賊の依頼主は、父に手ひどいやり口でつぶされた商売敵だと後からわかった。きみに非はまったくないんだ」
アネイシアは首をふって苦しげに息をはく。
「ディトラス様がおっしゃるように思えるよう、私も努力します。ですからあなたも、どうか侯爵と和解なさってください。行動はどうあれ、あの方は間違いなくあなたを愛していらっしゃるのですから」
ゼノンがためらってやめたアネイシアの手を、ディトラスは強くにぎってひきよせた。
「アン、きみは優しすぎる。自己犠牲が正しいことだとは思わないでくれ。俺はもう二度ときみを手離す気はないし、そのためなら父にも容赦はしない。もちろん、ハイオーニア伯爵にも」
「私は、きっとディトラス様が思うよりわがままな人間です。あなたが私を必要だと言ってくださっても、あなたが幸せになれるなら、禁忌の魔術に心臓をささげることも厭わないでしょうから」
重い愛の言葉は、しかしアネイシアが最後にわずかに口もとを緩めたので、冗談にまぎれさせたのだとディトラスにもわかったようだった。
小さく苦笑を漏らした表情からは、先ほどの険しさは薄らいでいた。
「俺たちは似たもの夫婦ということか」
「では、明日のお出かけにはニケラツィニ侯爵もお誘いしましょうね」
「……譲らないな、きみも」
ディトラスは声もなく笑うアネイシアの手をひいて立ちあがらせると、再びゆっくりとした歩調で歩きだした。
あたりはもう青みを増して薄暗い。
ゼノンとネリダはすっかり彼らの会話に聞き入ってしまっていたが、話の内容は夫婦にしかわからない事情があるらしく、弟妹たちには理解がおよばなかった。
「ディトラス兄上とアネイシアさんって、以前から知り合いだったのかしら」
興味津々の妹に比べて、ゼノンはなんともいえない脱力感を覚えて手先をふった。
「さあな。とにかく、これで気がすんだか? 二人の仲がいいのはよくわかったから、ちょっとひとりにしてくれないか」
兄のそっけない態度に、ネリダは「もう」と不満げな声を漏らして腕を組んだが、彼の顔をじっと凝視したかと思うと、あっさり腰をあげて屋敷へ戻っていった。
彼女の勘が鋭いことはよくわかったので、なにか気づいたのかもしれない。
地べたに完全に座りこんだゼノンは木の幹にもたれて、短い恋が終わるのを感じていた。
会話の内容は理解できなくても、兄とアネイシアが想い合っているのは疑いようがない。
それに加えて決定的な一打となったのは、ふと思いだした昨夜の兄の言葉だった。
アネイシアが自分と再婚してもいいのかと尋ねたゼノンに、ディトラスは「それが最良の選択なら」と答えたのだった。
先ほどの二人の様子からもわかるほど、兄は深くアネイシアを愛している。
それでも彼女の幸せだけを願った彼の言葉はあまりに重かった。
軽々しく多少の下心すらもって質問したゼノンに、そんなことを言わせてしまったいたたまれなさが一気に襲ってくる。
兄への完全な敗北感も青年を滅多打ちにしていた。
「ああ、兄上にばれる前に失恋してよかった……」
ゼノンはつぶやいて、がっくりと肩をおとした。
浮かれていた自分が異様に恥ずかしい。
兄が彼の恋情に気づいていたら、昨夜の深い信頼の言葉はなかっただろう。
――いや、もしすべてを承知していたら?
ゼノンはぎくりと背をひきつらせた。
兄と妹はよく似ているのだ。
妹が先ほどゼノンの異変を察したのなら、兄が絶対に気づいていないとはいいきれなかった。
「まさか……」
ディトラスが弟の心の内を知っていて、あえてあんな頼みごとをしたのだとしたら。
ゼノンはもう一度痛烈な一撃を加えられたような衝撃をうけて、この先ずっと兄にはかなわないだろうと悟ったのだった。
END
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