***** 3 *****

 アネイシアの母は当主から折檻され、屋敷を追いだされた。

 当然アネイシアも一緒だ。

 彼女は右腕を骨折したせいで熱をだしたのにくわえ、数日のあいだ尋常ではない頭痛と吐き気に襲われた。

 ようやく床から起きあがれるようになって、右耳が聞こえなくなっているのに気づいたのだった。

 なんとか歩けるようになると、母はアネイシアを連れ大きな屋敷を訪れた。

 父からの贈りものだといわれずっと首からさげていたペンダントを出すよう母から言われたが、ディトラスの手ににぎらせたまま戻ってきていなかったためそう告げると、母は憤慨してアネイシアの頬を打った。

 屋敷の下男にたたきだされそうになりながらも母が騒ぎたてると、執事が出てきてぎょっとした顔をみせる。

 母がさらにその執事につめよると、彼は慌てて親子を客間へ案内した。

 ずいぶん長い時間待たされたあと現れたのは、酒樽のような腹をした大きな男だ。

 「パメラ、こんなところまでやってくるとは、どういうことだ。おまえにはじゅうぶんな手切れ金をやったはずだ」

 「あなたの娘が二人とも死んだという話は知っているのよ。あなたのことだから、愛人の子だろうと入り用なのではないかしら」

 「……たしかに一族の特徴がよくでているな、その娘は」

 男は無遠慮にアネイシアを観察する。

 彼の脂ぎった髪は黒々としており、瞳は酷薄そうな灰水色をしていた。

 「で、なぜいまごろになって? 代わりに金でもせびるつもりか」

 「お金をくださるならもちろんいただくけれど、この子を手離すだけでもせいせいするわ。六年もわたしが苦労して育てたのだもの、これからはあなたが好きに育てればいい」

 アネイシアは衝撃をうけて母の顔を見あげた。

 彼女は娘に目をやることもなく、男へ美しい微笑みを向けている。

 男は「いいだろう」と言ってうなずき、控えていた執事に命じて硬貨を詰めたこぶしほどの大きさの巾着袋を母に渡した。

 「娘についてはいっさい口外するんじゃないぞ。金輪際わしの前にも現れるな」

 「心配しなくても、もう二度とこんなところへは来ないわ」

 母は鼻先で笑って、ソファから立ちあがり足早に戸口へ歩きだす。

 アネイシアが慌ててついていくと、彼女はどんと肩を押して娘にしりもちをつかせた。

 そして、そのまま一度もふりかえることなく、扉の向こうへ消えていった。

 残されたアネイシアは座りこんだまま動けなくなる。

 わずらわしい荷物だった子供をおしつけ、なんの躊躇もなく軽い足どりで出ていった美しい女は、母親という役割を完全に放棄したのだった。

 涙がとまらず小さくしゃくりあげるアネイシアの腕を、男が無理やりひっぱり立たせた。

 ソーセージのような太い指で怯えた表情をうかべる小さな顔のあごをつかみ、右から左からじろじろと見やる。

 「なるほど、四代前の当主の肖像画にそっくりな深い青に金斑の目だ。珍しいことだな。痩せてみすぼらしいが、顔だちは悪くない。もう少し成長すればみられる姿になるか。

 アネイシアよ、わしはおまえの父だ。これからおまえに、ハイオーニア伯爵家の息女として恥じない教育をたたきこんでやるからな」

 男は上機嫌でアネイシアを解放すると、かっぷくのよすぎる腹をゆらしながら部屋を出ていった。

 その後アネイシアは領地の本邸へ移り、本格的に貴族としての生活を送りはじめる。

 豪奢な絹のドレスをまとい、いくつもの宝飾品をつける。

 身のまわりのいっさいが使用人によっておこなわれ、自分で動くことは許されない。

 日に何度も衣装を替え、日に何度も食事をする。

 言葉のアクセントも異なり、ただ歩く所作すら以前とは違うのである。

 そうした貴族としての教養にはとまどうばかりだったが、女性のたしなみである読み書き算術や刺繍、音楽などは元来学ぶのが好きな彼女にとって苦ではなかった。

 いや、働いていた屋敷でのショックや母親に捨てられた悲しみを、勉学に没頭することで忘れようとしていたのだった。

 三人も雇われた教師に代わるがわる厳しい授業をうけながら、わずかな暇があれば蔵書室で歴史や哲学書を読みふけってしまう。

 余計なことを考える時間ができるのが怖かった。

 いつもなにかに意識を集中させていなければ、不安におしつぶされてしまう。

 もがくようにして六年間をほとんど本邸から出ずに過ごし、アネイシアはやがて十二歳になった。

 数か月に一度、娘の教育の成果を確認するために会いにくるだけだった父が突然「おまえには婚約者がいる」と言いだした。

 父の話によると、アネイシアにとって腹違いとなる正妻の産んだ子供が三人おり、そのうちの二人が娘でアネイシアよりそれぞれ六歳と七歳上なのだという。

 もとは長姉の婚約相手だったが流行り病で亡くなってしまい、代わりに婚約した次姉も後を追うように同じ病で亡くなった。

 先方はレオニス家筋の直系に近い女性を強く望んでいたため、アネイシアに白羽の矢がたったのである。

 しかしいくら法で十二歳から結婚が許されているとはいえ、社交界にも出ていない少女が、婚約ならまだしも実質的な結婚をするなど特殊な事情でもないかぎり稀な話だ。

 もちろん『事情』はあった。

 父が悪びれもせず言った――借金の返済を手助けする代わりに、美しい黒髪と青眼を特徴とするレオニスの若い娘を求めているのだと。

 母に捨てられたうえ父にも金の代価として嫁がされるという事実をまのあたりにして、アネイシアは激しい失意に陥った。

 六年をかけて仕込まれた教育は、まさにこの日のためだったのである。

 さらに彼女が絶望のふちに立たされたのは、夫であるカラミア侯爵ラザロ・ドゥーカスが老齢というべき年齢で、彼にとってアネイシアが三人目の妻だという事実だった。

 老侯爵はその加虐趣味によって二人の妻を死に追いやっており、このたび数十も年の離れた少女と再婚するのはさすがに外聞が悪いので、お披露目もせず密かに婚姻を結んだのである。

 そのためカラミア侯爵家へ嫁いだアネイシアは屋敷の奥深くへ隠され、世話をする使用人もかぎられた。

 かつて妻とするはずだった婚約者を二人も失い、なお六年以上も待ってようやく本懐を遂げた恐るべき偏執の老侯爵は、思うまま少女をむさぼったあと、決まってうっとりと白い肌と黒髪を撫でまわして言った。

 「我が妻アネイシアや、そなたの神秘的な美貌はわしだけのものだ。白い肌が鞭の痕で赤く染まるさまは美しく、そなたが苦痛に歪ませる顔はもっと美しい。ああ、傷跡など絶対に残さぬ。くりかえしわしを楽しませておくれ」

 夫婦の営みは暴行と同義だった。

 アネイシアは精神的ショックでほとんど口がきけなくなり、目にみえて痩せ細っていく。

 食事も睡眠もろくにとれずにいると、あるとき世話をする女中が女主人の髪を梳いていて、ごっそりと髪が抜けるのに気づいた。

 美しかった黒髪は艶を失い、梳くたびに恐ろしい量が抜けおちる。

 見るも無残な姿となった妻に、老侯爵はいっとき夫婦の寝室から足を遠のかせた。

 それがかえってアネイシアの精神に小康をもたらしたのか、しばらくしてひどい抜け毛はおさまり再び生えてくるようになったものの、生え変わった髪はすべて色彩を失ってしまった。

 ふと、これで夫の歪んだ寵愛を失えるのではないかというかすかな期待が頭の隅をかすめたが、不幸にも老侯爵は銀の髪も美しいと再び偏執的に愛でるようになる。

 地獄そのものの結婚生活は二年にわたって続き、夫の死によって終焉をむかえた。

 子供のない未亡人はそのまま実家に戻るのが慣例だが、カラミア侯爵の一族はこのあまりにも外聞の悪い結婚生活の口止め料として、遺産の名目でかなりまとまった額の金銭と広大な土地をアネイシアに与え、レオニス家へ帰した。

 廃人同然のアネイシアは本邸での療養を余儀なくされる。

 父はアネイシアのものとなった遺産について、広いだけで領民もほとんどない荒廃した僻地には目も向けず、現金だけをあっという間にとりあげてしまい、娘はそのまま放置した。

 もはやアネイシアにはなんの利用価値もなくなったのである。

 数年ののち彼女は奇跡的に回復したが、父はいずれ神殿へやるつもりで社交界へお披露目すらさせずにいた。

 アネイシアが十七歳のとき、急に父が舞踏会や食事会に連れだすようになったのは、名門ニケラツィニ侯爵家からの縁談が舞いこんできたからである。

 社交界で正式に貴族令嬢として顔見せし、夜会で過ごすアネイシアを侯爵が何度か見定める機会をもうけ、早くもそれで婚約が決まったのだった。

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