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「奥様、またお痩せになりましたね」
女中のマリナが、アネイシアの銀の髪に櫛をいれながら悲しげに言った。
彼女はそのすばらしく器用な手先で、あっという間に長い髪を結いあげる。
「そうかしら。まだこちらに慣れていないからかもしれない」
「旦那様がご不在のあいだは奥様が屋敷の主です。せめていまだけでも、お心安らかにお過ごしなさいませ。また以前のようになられたらどうなってしまうか」
「心配してくれてありがとう、マリナ。でもディトラスは国のために命をかけて戦っているのです。私だけ気楽に過ごしているわけにはいかないの」
マリナは、アネイシアが一度目の結婚のあと、心身に深い傷を負って実家へ戻ったときに側付きとなった三歳年上の明るい女性だ。
もともとはアネイシアが衝動的に自害などしないよう監視するのが主な役目だったが、献身的に仕えてくれ彼女の支えとなった。
マリナがいなければここまで回復することはなかっただろう。
それでも、以前の結婚生活が心的外傷となったアネイシアは、他人に触れられるのに苦痛をともなうようになり、衣服の着替えや髪結いまで、身のまわりの世話はマリナしかうけつけなくなってしまった。
三人は必要な主人の世話をすべてひとりでこなさなければならないマリナは忙しく、そのうえ事情を知らないロウガーニー家の女中たちからは、身内方の使用人だけを贔屓していると陰口をたたかれるはめになった。
「奥様のお気に入りでうらやましい」などと女中がマリナに皮肉を言っているのを偶然聞いてしまったアネイシアは、使用人たちへ理由を説明するべきか悩んだが、当のマリナが、婚家に対して自ら弱みをさらす必要はないと逆に主人を説得する気丈さをみせた。
実際のところマリナは気の強い性格で弁もたつので、言われた何倍も言いかえしていたし、陰湿な嫌がらせなどものともしない。
それどころか、結託した女中たちとは距離をおく下男や使用人に取り入って親しくなると、家内のさまざまな情報を仕入れてアネイシアへ報告してくれた。
ロウガーニー家へ嫁いでくるとき、父に頼みこんでマリナを強引に連れてきてしまったのをアネイシアは心苦しく思っていたが、陰に日に主人を支え励まし忠義をつくしてくれる彼女には感謝しかない。
この恩には必ず報いようと、アネイシアはかたく決心しているのだった。
「さあ奥様、お支度が終わりました。ああ、今日もなんてお美しいのでしょう……。近ごろ流行の髪型にしてみたのですが、とてもよくお似合いです」
マリナはアネイシアの後ろから鏡台をのぞきこんで、うっとりと主人を見つめた。
複雑な編みこみをつくりながら綺麗にまとめた髪を頭の高い位置で結った髪型は、たしかにうなじをすっきりとみせて薄い化粧によく合っているが、自分の容姿そのものが好きではないアネイシアは、どんなときでも最上級の賛辞を欠かさないマリナにどう返したものか、いつも困ってしまう。
それでもありがとうと答えるのは、マリナの手先の技術への感謝の意味合いからだ。
あいかわらず瞳の色濃さだけが目立つ鏡のなかの痩せた顔から目をそらすと、アネイシアは執事のペイトンを呼んで、ここへ来て以来ずっとそうしているようにロウガーニー家のしきたりや一族の事情など、こまごまと質問した。
相手のことをなにひとつ知らされないまま結婚したため、婚家でのふるまいかたや習慣について右も左もわからない状態だったのである。
白髪が混じりはじめた壮年の執事は口数が多いほうではないが、主人の新しい妻からの初歩的な質問にもひとつひとつ答えてくれた。
それが終わると領地の様子を聞くのが最近の流れだったが、ペイトンがなんとなくもの言いたげな表情をしているのに気づいて、アネイシアは書きつけをしていた手帳を机へ置く。
「気がかりなことがあるなら言ってください。私がなにか失敗したでしょうか」
「いいえ、奥様はロウガーニー家になじむため真面目に取り組んでおられ、領地運営やご一族についても関心をもたれるなど大変な努力家でいらっしゃいます。僭越ながら少し根を詰めすぎておられるようにお見受けいたしますので、気晴らしにどこかへお出かけになってはいかがでしょうか」
輿入れした翌日にディトラスが出征してから半月以上たつが、アネイシアは一度として屋敷から出ず暇さえあれば蔵書室へこもっていたため、執事が心配するのももっともだ。
「ディトラスが危険な任務についているのに、私だけ遊びまわることはできません」
「このたびの戦は国境侵犯した隣国軍の鎮圧だとうかがっておりますから、旦那様自ら前線で剣をとる事態はそうないかと存じます。奥様がたまの息抜きをなさって誰がとがめだてするでしょう」
「でも夫が一緒ではないのに出かけるのは……同行する侍女も、私は連れてきていませんから」
身分ある女性が外出するときは夫か身内の者をともなうのが普通だ。
ひとりで出かけたければ侍女を連れていかなければならないが、アネイシアは実家にいたときから侍女をおいていなかった。
侍女は女主人の話し相手になったりほんの身のまわりの世話だけをする者で、着替えの手伝いから掃除まで雑用を担う女中であるマリナでは明確に立場が異なるため、同行することはできない。
「この機会に侍女を雇われてはいかがでしょう。それがお嫌でしたら、どなたかご一族の近いお年の方をお呼びいたします」
「いえ、そこまでする必要はありません。ディトラスと夜会へ行くときくらいしか出かけないでしょうから。ここの見事な庭園を散歩するだけで、私にはじゅうぶんなのです」
アネイシアにとって他人の目は恐ろしく、すすんで衆目のある場所へ行きたいとは思わなかった。
本音をいえば夜会にも出たくはないが、これは貴族の社交の義務ともいえるのでしかたがない。
できるかぎり目立たず、ディトラスとロウガーニー家の評判を落とす原因とならないよう、ひっそり暮らすことが彼女の望みだった。
ペイトンはなおももの言いたげだったが、それ以上は言を控えた。
街屋敷の管理を息子に任せ、領地の本邸でなかば隠居生活を送っていたニケラツィニ侯爵が急にやってきて結婚しろと言ったとき、ディトラスは多少とまどいはしたものの、さほど驚きはなかった。
父はなにをするにも唐突なのである。
そして貴族らしからぬ労働意欲で手広く事業をし、財を増やしている。
いや、働きたいというより、ただ退屈に耐えられない性格なのだろう。
舞踏会で踊ったりクラブで政治の話をするより、彼にとってはビジネスのほうがはるかに刺激的なのだ。
だから、さっさと隠居などという建前でディトラスに貴族社会の面倒をおしつけ、領地で新たな事業に精をだし視察だといってはいろいろな国を飛びまわっている。
突然の結婚話も十中八九ビジネスの都合だろう。
普通貴族がそうであるように、ディトラスは結婚が家柄と財産の結びつきでしかないことをよくわかっていた。
自由な恋愛とは、嫡子となる子供が生まれ婚姻の義務を果たしたあと、ようやく夫婦に与えられる権利といえる。
とはいえ、女性ほど行動を制限されない男であるディトラスは、独身貴族らしく女優や舞踏家などと関係をもったが、実のところこの年になるまで身を焦がすような恋愛におぼれた経験がなかった。
友人が公爵令嬢に懸想し熱烈に求愛したものの、嫡男ではないためすげなくあしらわれ、一時期ショックで食事も睡眠もろくにとれず、げっそりとやつれてしまったことがある。
なかば呆れながら、叶わぬ想いだろうと全身全霊で身をささげられる友人を、心の底ではひどくうらやましく思っていた。
ただ恋情ではないが、どうしても忘れられない女性というならディトラスにもひとりだけいる。
彼にとってその人は尊く神聖な対象だったが、もっとも会いたいと強く願う相手には違いなかった。
「おまえの妻にむかえるのはハイオーニア伯爵の娘だ」
「たしかあの家の令嬢はずいぶん昔に亡くなったはずです」
父の言葉に、ディトラスはかすかな記憶を掘りおこそうとした。
二人の娘が相次いで病死したという話をどこかで聞いた覚えがある。
「末弟の上にもうひとり娘がいる。十七歳だというから年もちょうどよい」
「十七? 舞踏会で見たことがありませんが」
「できが悪く神殿にやるつもりで領地から出さなかったそうだ。しかしそれでは結婚するには不都合だからな、ハイオーニア伯爵を『説得』して最近お披露目させたところだ」
「それほどの労力を割いて結婚する利点が、どこにあるんです」
穏便でない話に、ディトラスはいぶかしげに尋ねた。
ハイオーニア伯爵はなかなか常軌を逸した人物のようだが、彼の親としての言が真実だとしたら、貴族の娘をそうまでして隠すのは、心身に問題があるか素行がよほどよくないか、とにかくそうとうまずい理由があるのだろう。
「事情はそのうち話すが、この結婚の見返りに借金まみれの伯爵へ返済の支援をする約束になっている。たっぷり恩を売っているから、向こうへ気兼ねする必要はないぞ」
ただならぬ人物と察せられるうえ経済的に困窮しているとなると、父が狙う理由がますますわからなくなった。
割りきってしまえば子供をつくるための伴侶とはいえ、妻となる女性とはたしてまともに意思疎通ができるだろうかと、ディトラスはいささか複雑な心境になる。
彼は異性に対して容貌の美醜も性格もさほど気にしないたちだが、せめてパートナーとしての共同生活が成り立つ相手でなければ、結婚という契約の意味がなくなってしまうという懸念はあった。
「顔合わせをする機会は」
「先方がひきあわせるのを渋っていてな。それに、もう詰めの交渉に入っているから、気に入らなくとも撤回はできんぞ。夜会で偶然鉢合わせた状況をつくる程度はお膳立てしてやるが、わざわざ結婚前に自ら失望しにいく必要もあるまい」
「いえ、やはり一度は会っておきます」
父もまともな相手ではないと思っているのがあからさまだったが、息子の希望を聞き、ほどなく舞踏会の招待状を入手してきた。
父から教えられたアネイシア・レオニスという名を頭にいれてディトラスがとある侯爵の屋敷へ行くと、主催者である夫人が迎え上機嫌で招きいれられる。
知り合いに挨拶まわりをしていると、寄宿学校の同級生だった友人が声をかけてきた。
「美男子がいると思ったらディトラスじゃないか。あいかわらずその顔で女性を泣かせているのか」
「おい、いい加減なことを言うなよ、ビオン。俺が女性を何人泣かせたって?」
友人に合わせてディトラスも軽口をかえし、二人は笑いあう。
しかしすぐに真顔になったビオンは、ディトラスの腕をつかんでホールの壁際までひっぱっていった。
「聞いたぞ。早々と結婚するんだってな」
「ずいぶん耳ざといな。俺も先日父から聞いたところだってのに」
「ははァ、いかにもニケラツィニ侯爵らしいやりかただ。それにしてもお父上は、キミの好みをよくご存じじゃないか」
「……なんのことだ」
「やあ、おれにはっきり言ってほしいのか? レオニス家といえば、珍しくも一族みな黒髪青眼ぞろいと有名じゃないか。おまえが学生時代から今日にいたるまで、つきあう女性がことごとく黒髪か青眼なのを忘れたとはいわせんよ。お父上は息子の好みを考慮して、わざわざレオニス家を選んでくださったに違いない」
「あの父がそんなことを気にするものか」
ディトラスは吐き捨てるように言ったが、それは友人の揶揄まじりの指摘に内心動揺したからだった。
レオニス家の特異な容貌はたしかにある意味有名だ。
ブルネットの髪や目をもつ者はよくいるが、炭の粉を溶いたような真黒の髪と青系色の瞳の組み合わせは、ほかにないわけではないものの珍しい。
レオニス家の直系に近い血統は、ほとんどがその特徴を保持している。
ディトラスはもちろんそれを知っているが、過去つきあってきた相手が例外なくレオニス家の特徴と重複するという事実は、友人の言で初めて気づかされた。
自分が大まぬけになった気分だった。
それは十年以上もさがしてきた女性の特徴そのものだ。
まったく無意識に似たような相手とばかりつきあっていたのも衝撃だが、彼女がレオニス家の血をひいている可能性が、なぜ頭をかすめもしなかったのだろう。
遠い子供時代に見た少女は母親ともにまぎれもなく平民だったが、レオニス家に連なる傍系の出だという仮定は思いついてもよさそうなものだ。
と同時に、ディトラスは急に鼓動が大きく跳ねるのを感じた。
年を重ねるごとに指折り数えてきた少女は、生きているならいま十七歳になっている。
それはアネイシア・レオニスと同じ年ではなかったか。
「おっと、噂をすればハイオーニア伯爵だ。ここ何か月か娘にはりついて夜会をはしごしているらしいが、おれもご令嬢本人を見るのは初めてだ」
友人がディトラスに耳打ちして目を向けた先に、黒々とした髪を油で光らせた大男がはちきれそうな腹を無理やり上着におしこんで立っている。
しかし、彼の娘がみあたらなかった。
そばにいる女性といえば、ハイオーニア伯爵と言葉をかわす主催者の女主人と、すらりと背の高い見事な銀髪の女性だけだ。
「まさか」
「もしかして、伯爵は養子でもとったのかな」
ディトラスと同じくして友人も気づいたらしい、レオニス家の直系らしからぬ姿のうら若い女性が、アネイシア・レオニスその人だと。
高く巻きあげられた銀髪は金剛石のように深い輝きを放ち、簡単に折れてしまいそうなほっそりとした首すじから肩まで惜しげもなくあらわになった肌は、あまりにも華奢だった。
彼女の前に、ひっきりなしに紳士が挨拶にきては手に口づけをしていく。
ディトラスの立ち位置からはアネイシアの後ろ姿しか見えなかったが、若い男が強引に横入りしてきたので、彼女はとまどったようにこちらを向いた。
その顔を見て、心臓がとまりそうになった。
忘れるはずもない夜空の果てのような神秘的な瞳が、突然現れたからだ。
ディトラスは思わず壁にもたれかけていた身体を浮かせたが、記憶の少女とはそもそも髪色が違う。
しかし、あれほど稀有な目をもつ者が二人もいるというのだろうか。
顔だちも昔の面影に似ているような気がしたが、違和感がぬぐえないのはそこににじむ陰鬱さだ。
ディトラスの知る少女は、いつも目を輝かせ笑みを絶やさない、陽だまりのようなあたたかさをもっていた。
アネイシアは表情が乏しく、くりかえしアプローチをかけてくる紳士にすらときおり最低限の微笑みをつくるだけで、瞳は暗く沈んだままだ。
隣で口角泡を飛ばしながら機嫌よくしゃべり続けるハイオーニア伯爵に生気をすべて奪われているように、ディトラスの目には映った。
しかし、興味津々で見物していた友人は違う印象をもったようだ。
「めったにお目にかかれない美女だな。見てみろよ、鼻の下をのばした男どもをそっけなくあしらう氷のような冷たさときたら! あの年であれほど臈たけた雰囲気をまとう令嬢なんて、ディトラスはそら恐ろしい奥方を手に入れたものだ」
「本気で養子だと思うか?」
「まさか。豚から天使が生まれたのかというくらい似ていないが、頑として社交界に出さなかった理由があの髪のせいだとしたら、間違いなく実の娘だろう。領地の運営もまともにできない伯爵の唯一のご自慢は、一族固有の容姿くらいのものだからな」
辛辣な友人の評価は、ディトラス自身のものでもあった。
たとえ血族からでも当主の養子縁組は容易ではないし、周囲からもよく思われない。
いくら父が名より実をとる性格といっても、ロウガーニー家の評判にも関わってくるため、結婚相手の親子関係は裏から手をまわして調べているだろう。
「おい、挨拶しないのか」
背を向けて歩きだしたディトラスに友人は慌てた様子で声をかけたが、おざなりに手をふってそのまま屋敷を後にした。
「お帰りなさいませ」という聞き慣れない若い女性の声に、戦地での事後処理のことを考えていたディトラスは意識をひき戻された。
いつの間にか屋敷へ到着して、自分の足で馬車をおりていたらしい。
二十六日ぶりの屋敷には、結婚して一晩しかともに過ごさなかった妻が出迎えに立っている。
「留守中、不都合はあったか」
「ペイトンとサノッサの采配のおかげで、なんの問題もなく過ごしております」
模範的回答をしたアネイシアは髪型も装いも一分の隙なく整えられており、乏しい表情のなかで深青の瞳だけがすべてを見透かすようにディトラスへ向けられていた。
ディトラスはその目を見るたびに落胆と、理由のわからない憤りを覚える。
「ペイトン、報告を」
視線をそらして執事を呼ぶと、さしだされた銀盆に山のように積まれた郵便物を確認しながら自室へ向かった。
主人の着替えを手伝いながら執事が家内についてこまごまと報告したあと「奥様のことですが」とややためらいがちに告げた。
「重大な問題ではありませんがいくつか気になる点がありますので、旦那様にご承知おきいただければと存じます」
「なんだ」
「まず、旦那様がご不在のあいだ奥様は一度も外出をなさっておりません。旦那様を気遣って自粛していらっしゃるご様子です。それが理由かどうかはわかりませんが、一日のかなりの時間を蔵書室で過ごされています。それからもうひとつ、奥様は身近なことにはご自身がお連れになった女中しかお使いにならないので、ほかの女中に不満をもつ者がいるようです。サノッサがあとで詳しく報告いたしますが」
「そうか……」
たしかに大きくはないが、放っておくと後々不和を生みそうな問題ではある。
用意を整えて食堂へ行くと、アネイシアは先に席についていた。
食事の給仕がはじまってから「よく蔵書室を使っているそうだが」と水を向けてみる。
「おもしろいものでもみつけたか」
「ロウガーニー家の歴史やご領のことが書かれた本がありましたので、知っておいたほうがよいと思い目を通していました」
アネイシアはよどみなく答えたが、動きをとめたナイフとフォークを扱う手が、ささやかな動揺を表していた。
まさか一か月近くもそれらの本だけを読んでいたわけでもないだろうが、ディトラスはそれ以上は質問を重ねず、まったく別のことを口にする。
「そういえば先ほど父から手紙がきていて、数日のうちにこちらへ来るそうだ。まともに三人で顔を合わせる機会がなかったから、夫婦で挨拶しろということらしい」
「わかりました」
アネイシアは白い皿に美しく盛りつけられたベリータルトを見つめながら答える。
結局、彼女はそのデザートを半分以上残したまま、席を立って居間へ移っていった。
シガーをもってきた執事に、ディトラスは「アネイシアの食事の量はいつもこのくらいか」と尋ねる。
デザートだけでなく料理のコースすべてで、彼女はほとんど一皿を食べきるということがないのに気づいたからだ。
「奥様は非常に食が細くていらっしゃいます」
「……彼女についてほかに気がかりな点があるか?」
「いまのところ、特にはございません」
ディトラスは長く煙を吐いた。
執事も突然むかえいれられた夫人の扱いを決めかねているらしかった。
アネイシアに対するわだかまりはディトラスにもある。
それは夜会で初めて彼女を見たときから続いている。
結婚初夜をむかえると、そこに驚きと懐疑が加わった。
緊張をこえて恐怖すらにじませ夫となった男をうけいれながら、身体はすでに拓かれていたという事実を、彼女以外の人間は知っているだろうか。
もちろんほかに想う相手がいたとしても、まったくおかしいことではない。
しかし自由恋愛は結婚の義務を果たしたあとにするものであり、女性が未婚の身で、しかも結婚相手ですらない者に身体を許すなど常識からかけ離れた話だ。
あの貴族然としたアネイシアからは想像もできない。
それとも、そこまで身を賭して想う者がいるというのか。
だとしても、ディトラスにはどうにもできないし、アネイシアもそれはわかっているはずだった。
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