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ハイオーニア伯爵といえば、つまらない儲け話や賭け事に手をだしては借金の山を築くのが趣味という揶揄とともに社交界では有名だが、その娘が名門ニケラツィニ侯爵家の嫡男と婚約したという噂は、それこそ社交界じゅうをかけめぐった。
ニケラツィニ侯爵デメトリ・ロウガーニーは財も地位もあり切れ者と評判で、大事な跡取り息子になんの得にもならない結婚をさせるわけがない。
いったいどんな裏があるのかと貴族たちの注目が集まるのは当然だった。
「おまえも十七になってやっともらい手がみつかったのだ。出戻りでもいいとおっしゃってくださっているし、なにより相手はあのニケラツィニ侯爵だぞ! これ以上ない縁組だ」
ハイオーニア伯爵バシリオス・レオニスは、部屋の端から端まで絶えず歩きまわりながらまくしたてる。
「おまえはレオニス家の者とは思えん姿だが、先方がいいというなら、まあいいだろう。我が家の借金の返済にあてられるよう、うまく侯爵家の財をひきだすのだぞ」
言いたいだけ言って部屋を出ていった父を見送ることもなく、アネイシア・レオニスは窓ぎわの椅子に座ったまま、外をぼんやりとながめていた。
庭は夏へ向けて新緑がまぶしくしげっていたが、彼女の夜空の果てのような深青の目にはなにも映らない。
何年も領地の屋敷におしこめて外出もろくに許さなかった父が、急に舞踏会やサロンに連れまわすようになったのは、半年前のことだった。
アネイシアが恐れたとおり、しばらくしてバシリオスは嫁ぎ先を決めたと告げたのである。
結婚相手にもその両親にも一度も顔合わせをしないまま、彼女は当日をむかえた。
夫となる人の名前すら知らないこの婚姻がどんな結果をもたらすか、すでに諦念しかない。
女中が忙しく立ちまわり、アネイシアにドレスを着せ髪を結いあげて化粧をほどこしていく。
すべてを他人に委ねただ立つ自分の姿を大きな鏡のなかに見て、人形のようだと思った。
痩せて青白い肌をした、できそこないの人形だ。
髪色すら銀なので、純白のドレスがまったく映えない。
そのなかで唯一濃い色彩を放つ青眼が異様に目立ち、自分でも気味が悪かった。
結婚の宣誓式はロウガーニー家の神殿で執りおこなわれた。
名門侯爵家の長子の挙式だというのに驚くほどの簡素さで、新郎新婦が誓いの言葉をのべたあと指輪を交換し婚姻登録簿にサインを済ませると、披露宴すらなかった。
アネイシアは頭を覆うベールに隠されて新郎の顔を見れなかったが、隣に立つ夫の背が高く思っていたよりずっと若い声だとわかって、内心ひどく動揺していた。
自分と同い年の孫がいるような老人だろうと思いこんでいたからだ。
そういう特殊な事情の結婚ならば、婚約の告知からひと月もたたないうちに、しかも世間に知られまいとするような地味な式ですませるのも無理はない。
しかし、そうではないとすると……。
両家の親兄弟だけで催された食事会を終えると夫婦の寝室へ案内され、アネイシアはそこで初めて夫の姿をまともに見た。
式のあいだも食事のときも、ひたすらなにも考えないようにして顔を伏せていたため、彼の名すら聞きのがしていたほどである。
「どうぞ」と言ってドアをあけてくれたとき、アネイシアはふと緊張が解けて顔をあげた。
金茶の髪をした青年が、ドアをおさえたままはしばみ色の目を彼女にそそいでいる。
アネイシアは金槌で頭を殴られたような衝撃をうけ、愕然としてその場に立ち尽くした。
長いあいだ思いだしもしなかった――いや、思いださないよう心の奥底に封印していた記憶が一気にあふれだす。
見るたびに感動したきらきらと輝く明るい髪、複雑な色合いの神秘的な瞳、ずいぶんのびた背はたくましく精悍な表情は記憶よりも鋭い。
「ディトラス……様……」
「夫となる者を敬称で呼ぶ必要はない。……入りなさい」
アネイシアの不審な態度をどう思ったのか、ディトラスはかたい表情でうながした。
信じられない気持ちからぬけだせず、アネイシアはやっとのことで部屋へ入ると、すすめられるままにソファへ腰をおろす。
まさか、という衝撃が去らず、心臓が大きな音をたてこめかみにまで響いている。
なんという再会だろうか。
幼い日、優しく接してくれた少年。
あたたかな情愛というものを初めて教えてくれたあのころの面影は、いまも色濃く残っている。
まさかあの少年がニケラツィニ侯爵の後継者だったとは、子供のころのアネイシアには想像もできなかった。
「アネイシア・レオニス」
青年が卓をはさんだ向かいに座り、じっとこちらを見る。
「こうして顔を合わせて話をするのは初めてだな」
「は…………、はい……」
アネイシアはとっさに返事ができず、息が詰まりそうになった。
ディトラスは自分を覚えていないのだと、そのとき気づいた。
最後に会ったのは六歳のとき、それほど幼い子供が十年以上もたてば思春期を経てすっかり面変わりするのは当然で、覚えられていなくても無理はない。
ましてや呼ばれていた名も愛称でしかなく、この銀の髪では印象もまったく違うだろう。
もとより、自分はディトラスの記憶にとどめてもらえるような存在だっただろうか。
いまなお鮮明に脳裡に焼きつけられているあの日、命の危機に瀕するけがを負わせてしまった自分に対して、恨みはあったとしても、再会して懐かしさなど感じるはずもない。
そう考えればディトラスが気づかなくても、そもそも過去のできごとを忘れ去っていたのだとしても、彼にとっては幸いかもしれなかった。
「慌ただしく式をあげることになってすまなかった。父の意向もあるが、一番の理由は俺がすぐに出征しなければならなくなったからだ」
結婚をあまりに急いだ事情をようやく説明されてアネイシアは驚いた。
ロウガーニー家の当主であるディトラスの父デメトリは貪欲な実業家で、領地の運営にくわえいくつかの事業をおこしており、その収益は莫大だ。
ニケラツィニ侯爵の権勢は世情にうといアネイシアでさえ知っている。
貴族としてなにひとつ不自由のない身でありながら、ディトラスは軍部に常勤の職をもっているのだった。
「いつお発ちになりますか」
「明日だ。悪いが新婚旅行には連れていけない」
「私のことはどうぞお気遣いなさいませんよう。無事にお帰りになられるようお祈りしております」
なにもかもが常識外の結婚で、いまさら旅行がひとつなくなったからといって、アネイシアにはなんの感慨もない。
戦争の規模がどの程度なのかわからないが、ディトラスの無事を願う気持ちは純粋に本心からだった。
ディトラスは返事をしないまま立ちあがり、アネイシアを寝台へうながした。
この部屋へ入ってから、彼の表情は不機嫌とも緊張ともつかないかたさを含んでいる。
もしかすると式のあいだじゅう、ずっとそうだったのかもしれない。
貴族の常とはいえ、アネイシアと同じように自分の意志と関係なく一方的に親から結婚を命じられたのだとしたら、愛想をみせる気にもならないのは無理もない――それでなくても、貴族の男性としてはかなり早い結婚である。
しかし、それならこの婚姻で利を得たのはいったい誰だというのだろう。
レオニス家は古くから伯爵位をもってはいるが、ロウガーニー家はその伝統を欲しがる必要もない名門で、しかもアネイシアの父は愚鈍で借金をつくる天才だ。
ニケラツィニ侯爵が嫡子の妻にむかえてまでレオニス家とつながりをもつ利点は、まったくみあたらない。
アネイシアの知らない事情があったとしても、知らされることはないのだろう。
彼女はこれまで例外なく、父の思惑を達するための道具でしかなかった。
柔らかなシーツの上にあがりディトラスに触れられたとき、アネイシアはまだ耐えていられたが、それが愛撫の意味をもちはじめると、血の気が引き叫びだしそうになるのをこらえるのが困難になった。
指の先まで痺れたように冷たくなる。
「怖いのか」
「……いいえ、妻が夫を恐れるわけがあるでしょうか」
アネイシアは自分を奮いたたせて、自ら夜着の胸もとをゆるめた。
ディトラスは異性の扱いに慣れていて接しかたはひどく優しかったが、彼女にそれをうけとめる余裕はなく、拷問に耐える罪人になった心地を味わいながらその夜をやりすごした。
まぶたに光を感じて目を覚ますと、ディトラスが窓の遮光カーテンをあけたところだった。
全身を疲労感に覆われたまま身体を起こしたアネイシアが見たのは、ズボンだけを身につけて上半身は裸のままの夫だ。
こちらへ向けられた背には、肩から腰まで斜めに大きく切傷の痕が一筋はしっている。
忘れられるはずもない傷だ。
それこそが、アネイシアの罪だった。
涙があふれそうになり必死にこらえていると、ディトラスが気づいてふりかえる。
「今日からしばらく屋敷をあける。家内のわからないことは執事と家政婦長に聞くように」
「は、はい……」
挨拶すらなく事務的に告げると、ディトラスはシャツを羽織り寝室を出ていった。
寝台に残されたアネイシアは呆然と扉を見つめる。
昨夜に増してディトラスが距離をおいた一因は確実に、アネイシアが生娘ではないと気づいたからだろう。
望まない結婚をさせられたうえ十七歳の新妻が乙女ではないとすれば、彼の胸中は当然複雑なはずだ。
アネイシアのふしだらさを責め罵倒しなかったのが、むしろずいぶん紳士的な態度といえた。
いや、それはただ自分が彼の関心の外にいるというだけの理由かもしれない。
どちらにせよアネイシアには夫へ弁明する余地は残されていなかった。
身上についてなにひとつ口外しないよう父から強く言い含められていたからだ。
そうでなくても、自ら告白するにはあまりに重く後ろめたい内容である。
ニケラツィニ侯爵が、かつてアネイシアが秘密婚をしていた身だということを承知しているのは、父の口ぶりから察せられたが、ディトラスにその事実は伏せられているのだろう。
ディトラスは幼いアネイシアに人としての情愛とあたたかな思い出をくれた恩人だ。
絶望しかもち得なかった再婚に、いままた彼という存在が一筋の光を与えてくれた。
しかし婚姻は望まれたものではなく、妻として清い身ですらない。
自分がなんの役にもたたない存在だと思い知らされるのはひどくつらい。
アネイシアは無力感に襲われて、立てた両ひざに顔をうずめ、女中が控えめに機嫌伺いにくるまでそのまま動けなかった。
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