美しい貴婦人と隠された秘密
瀧 東弍
***** 1 *****
東の空が白みはじめると、誰よりも早く起きて井戸の冷たい水で顔を洗う。
それから粗末なお仕着せに着替えて使用人たちを起こすのが、幼いアネイシアの朝一番の仕事だ。
母がこの大きな屋敷で使用人をしている。
子連れで住みこみが許されているのは領地の屋敷から離れた別邸のひとつだからだ。
母が頼みこんだとはいえ、本邸や都の屋敷だったらとうてい雇われなかっただろう。
それでも六歳の子供を主人の目に入るところで働かせるわけにはいかないので、裏方や外まわりで使用人たちの雑用をし、わずかばかりの食事と寝床を与えられていた。
母に連れられてきたのは二年前の初夏のことだ。
毎年夏からその年の終わりまでを領地屋敷で過ごすという主人は、別邸へはめったに立ち寄らず、そのため屋敷の雰囲気は緊張感も薄くおおらかだった。
ところがアネイシアと母親が働くようになっていくらもたたないうちに、主人の子息が滞在することになったのである。
屋敷じゅう大騒ぎになり母親も準備にかりだされたため、右も左もわからないアネイシアは裏庭の隅でおとなしくしているしかない。
数日後に立派な馬車でやってきたのは少年だった。
みつからないよう建物の陰からこっそりのぞいていたアネイシアは、遠目にもわかる明るい金茶の髪に、なんて綺麗なんだろうと目を輝かせる。
彼女は夜の闇を溶かしたような自分の黒髪があまり好きではなかった。
迎えられた少年は夏のあいだ別邸の主人として過ごすらしい。
彼は十歳になったばかり、長子のため父親から後継者として厳格に育てられていると使用人たちが話していた。
幼いアネイシアには難しい話はよくわからなかったが、ときおり姿をみかける若い主人は、周りの誰より大人びて威厳に満ちているように見えた。
ある晴れた日、下働きを覚えたアネイシアは厩舎の世話をする下男に頼まれて厨房で塩をわけてもらったあと、勝手口から戻ろうとして、ふと裏手の林のほうへ続く道があるのに気づいた。
ずいぶん長いあいだ人が通っていないのか、なかば獣道と化している。
しかし目をこらした先に奥に白い建物が見えたので、アネイシアは用事をすませると道をたどってみることにした。
秘密の場所へつながっている気がして冒険気分で進んでいくと、建物だと思ったのは石造りの屋根つき噴水で、同じ白石の長椅子が周りを囲むように配してある。
噴水の水はとめられて寂しい雰囲気だが、石柱にのびた野生のバラが花を咲かせていて、アネイシアはひと目でここが気にいってしまった。
それ以来、暇ができると彼女はこっそりここへ来るようになった。
気にいったというだけでなく、母にみつからないようにするためでもある。
母はアネイシアを親の義務として育ててくれたが、愛情を与えてはくれなかった。
仕事中に彼女の視界に入ると不機嫌になり、夜は口ぐせのように疲れたと言って、まともに顔も合わせないまま寝てしまう。
年相応におしゃべりをしても騒いでもひどく怒られるので、アネイシアはすっかり無口でおとなしい子供になった。
そんな彼女の貴重な息抜きの場になったのが、さびれたガゼボだったのである。
ここ数日続く爽やかな快晴の午後は、小さい子供にとってゆりかごのように心地よく眠りを誘う。
いつしか深く寝入ったアネイシアに、声をかけた者がいた。
「おい」
肩をゆさぶられて目を覚ますと、長椅子に横たわる彼女を上からのぞきこんでいるのは、この屋敷の主である少年だった。
「あっ、わ、若君」
使用人がそう呼んでいたのを覚えていてとっさに口にすると、少年は怪訝な顔をした。
「おまえは、うちで働いている者か」
「は、はい。ごめんなさい。休んでいたら寝てしまって……」
慌ててとび起きたアネイシアは主人の叱責をうけるだけではなく、母にもなにか累がおよぶのではと青ざめて謝罪する。
少年は彼女をじっと見ながら、横に腰をおろした。
「おまえの名前は?」
「母さまは、わたしをアンと呼びます」
「母親もここで働いているのか」
「はい」
いっときも視線をそらさない少年に気圧されて、アネイシアは泣きそうになりながら答えた。
「わ、若君、どうか母さまに罰を与えないでください。わたしが勝手にここへ来たんです」
「罰? ここはおまえみたいな幼児も働かせなければならないほど、人手には困っていない。母親が働いているなら、おまえは自由に過ごしていればいい」
「でも……」
アネイシアは困惑して言葉をつまらせる。
働かなければ食事と寝床が得られないのだと説明するには、彼女は幼すぎた。
少年はしばらく思案すると「アン」と初めて彼女の名を呼んだ。
「ここにいるあいだ、おまえは俺の付き人になれ。それから俺のことはディトラスと呼ぶんだ」
「ディトラス、さま?」
アネイシアがくりかえすと、少年は少し沈黙してから「まあ、いいか」とうなずいた。
「付き人は、なにをすればよいですか」
初めて聞く役目に首をかしげるアネイシアに「臨時の従者みたいなものだ」とディトラスは答える。
従者は主人の身のまわりの世話をする側近だが、そもそも従者というものを知らないアネイシアの疑問はさっぱり解消されなかった。
この日以来、ディトラスが屋敷にいるときは、いつもアネイシアを連れて歩くようになった。
使用人ですらない子供を主人のそばにおくなど、本邸にいれば決して許されなかっただろう。
少年が屋敷の主という特殊な状況で、ここが田舎のごく気楽な別邸だという条件がそろっていたのが幸いしたのである。
執事や侍従に反対され、屋敷内にアネイシアを入れることはさすがにできなかったが、屋外や離れの温室へ行くときは必ず彼女をともなった。
使用人たちから妬みや嫌がらせをうけなかったのは、彼女が幼かったという理由に尽きる。
十歳の少年の後ろをついてまわる四歳の少女という光景は、大人の目からみれば微笑ましいばかりだ。
いや、彼女が周囲から可愛がられたのは、彼女自身の性格ゆえでもある。
ディトラスが屋敷のなかにいるときや遠方へでかけているときは、以前と変わらず使用人たちの小間使いをしてよく働くからだった。
代わりに被害をうけた者がいたとすれば、それは母親のほうだ。
うまく娘を主人にひきあわせたなとか、解雇されないように娘を貢ぎ物にしたのではなどと、陰口やときには面と向かって嫌味を言われ、肩身のせまい思いをさせられた。
いわれのない中傷による鬱憤はアネイシアへの苛立ちとなり、以前にも増して彼女を疎んじるようになっていった。
もはや母は一緒に眠っていた寝台すらも娘に配慮しなくなった。
せまい部屋に並べられた使用人たちのベッドの隅で、アネイシアはシーツにくるまり固い床で眠るようになった。
「アンは母親に似ていないな」
いつもそうするように、アネイシアをじっと見つめてディトラスは言った。
「見た目が全然違うから、侍従に聞くまで親子だとわからなかった」
母は栗色の巻き毛に明るい碧眼だが、アネイシアは少しの癖もない漆黒の髪と吸いこまれそうな深い青の目をもっている。
「髪も目も父さまに似たのだそうです」
アネイシアは気落ちして答えた。
母のことを口にするのは苦しくて悲しかった。
もしかして母は自分にまったく似ていないから、つらくあたるのだろうか。
アネイシアの様子を見て、ディトラスは少し早口で言った。
「アンの目は虹彩に金の粒が混じって夜空の果てみたいに神秘的で、ずっと見ていたくなる。髪だって黒金剛石と同じくらい艶やかで真黒くて、本当に宝石みたいだ。切らずにずっと長くするといい」
そうかな、とアネイシアは首をかたむけた。
ディトラスがいつも強い視線を向けてくるのは、見た目を気にいってくれているからなのかもしれない。
しかしディトラスのほうが綺麗だとアネイシアは思っている。
華やかな金茶の髪と、緑や茶が複雑に入り混じった柔らかいはしばみ色の目。
小さな子供の語彙力ではうまく伝えられなかったが、ディトラスを見るたび宝物みたいに見入ってしまう。
それに彼はこの屋敷の誰よりも優しかった。
母に比べれば使用人たちはずいぶん気安く接してくれたが、はた目にもうまくいっていない親子関係に介入しようとはしない。
皆、面倒を嫌って個人的な問題には見て見ぬふりをしていたのだった。
ディトラスはアネイシアを付き人にしてからというもの、頻繁に領地内を散歩したり剣の稽古を屋外の鍛錬場でおこなったりして、彼女をそばにおいていた。
貴族らしい気位の高さはあるが横柄ではなく、言葉や態度はアネイシアに対してすら配慮されている。
兄弟はいないが兄がいたらこんな感じだろうかと、少女は自然に親しみをもつようになった。
実際、ディトラスはよくアネイシアの相手をしていたといえる。
十歳ほどの年ごろなら同年代の少年ばかりで集まって騒ぐほうがよほど楽しく、六つも年下の少女へなど興味をもったりしないだろう。
もちろん彼は貴族の紳士として、いくつであろうと異性に対しての礼儀というものをたたきこまれているが、それを抜きにしてもディトラスのアネイシアへの接しかたは年に似合わず大人びていた。
とはいえ彼にも思春期特有のじっとしていられないような活発さはあって、それはおおむね剣の稽古で解消されているらしかった。
剣の師匠は、ここへ移るとき同行してきた父親の知り合いの軍人で、剣術に秀でいくつもの勲章をもつ英雄だとディトラスは言う。
アネイシアからみればディトラスですら大人のように感じられるのに、二十代なかばという大きな軍人はとほうもなく遠い存在だった。
いつもそばで見学している稽古での彼の指導と剣さばきは恐ろしいほどの迫力でいっそう近寄りがたかったが、ある日稽古のあとに鍛錬場脇のパティオで三人でお茶をしたとき、意外にもにこやかに明るく接してくれたのをきっかけに、少しも彼を怖いと思わなくなった。
それだけではなく、アネイシアの身体に合わせて小さな短剣を使った護身術を教えてくれたので、ディトラスと一緒に稽古できるのがうれしくてならない。
「アンの髪と目は珍しいし、端正な顔だちをしている。ここでは人さらいもそういないだろうが、身を守るすべをもっていても損はないさ」
「怖がらせるようなことを言うな、クレオン。アン、屋敷の敷地から出なければ安全だからな」
ディトラスの忠告にうなずいたものの、使用人に頼まれればひとりで外へでかけることもある。
人さらいというのがどういうものかはあまり理解できなかったが、二人が言うように危険が本当にあるのなら、なにか棒きれでも持って歩こうかとアネイシアが考えていると、何日もしないうちにディトラスから鋼の短剣を渡されて驚いた。
甘い焼き菓子や果物をもらったことはあるが、こんな高価なものは初めてだ。
装飾の少ない実用向きの剣だが、柄にアネイシアの目の色とよく似た菫青石がはめこまれており、少しもてあます大きさと重さではあるものの、これから成長すればじきに手になじむだろう。
アネイシアは何度もディトラスに礼を言い、クレオンに手入れのやりかたを熱心に聞いて大切にしようと決心した。
夏の二か月間、アネイシアはめまぐるしく、そして充実した日々を送ることになる。
ディトラスは読書どころか午後のお茶まで外でやると言って幕屋を建てさせると、テーブルや道具を一式もちだして、雨でなければほとんど毎日そこを使っていた。
アネイシアにとってはすべてが珍しく興味深くて、ときおり相手をするように言われてお茶とお菓子をもらったときは、信じられないおいしさにほっぺたが落ちそうになったものだ。
しかし一番楽しかったのは、大人の目を盗んで二人で林の奥のガゼボで過ごす時間だった。
ディトラスが本を読んでいる横でバラの花を摘んだり、指先が果汁で真赤に染まるほどたくさんの桑の実を二人で採ったこともある。
それだけに夏の終わり、ディトラスが本邸に戻ると決まったときは本当に悲しかった。
父親から呼び戻されたらしいと使用人が噂していた。
また来年ここへ来ると約束して、少年はクレオンら近習をともなって別邸を後にした。
いつになくにぎやかだった屋敷は、主人を失って皆どことなく気の抜けたような日々がしばらく続く。
しかし屋敷の維持にくわえ、まれに客人や主人の一族が滞在するので仕事は常にあり、アネイシアの母は引き続きここで働くことができた。
屋敷にとって見目良い使用人をそろえるのは箔になるため、美しい容貌をしていた彼女にとって有利だったともいえる。
母に冷遇されながらもアネイシアはともに働き、翌年の初夏、約束どおりディトラスは再び別邸をおとずれた。
その夏は初めて出会った年のように二人でいろんな遊びをして過ごし、あるとき字を習ったことがないと言ったアネイシアのために、ディトラスが昔の教本をもってきて文字を教えてくれるようになる。
約二か月を別邸で滞在したディトラスはいくつかの教本をアネイシアに譲ってくれて、来年来るときまでに全部覚えるんだぞと笑って本邸へ戻っていった。
この二年の夏が、アネイシアの人生で最良のときだったかもしれない。
アネイシアが別邸で働くようになって三年目の夏、彼女は六歳になった。
その年もディトラスが来訪するという話はすでに聞いており、待ち遠しくてならない。
もらった手習いの本はぼろぼろになるまで練習し、短剣術の練習も欠かさなかった。
初めて会った年にすすめられてのばし続けた髪はもう腰を隠すほどだ。
長い髪は手入れが大変なため、平民は成人ぎりぎりまで肩より下にはのばさないのが普通で、母も彼女の長い黒髪を見るたびに嫌そうな顔をした。
それをよくわかっているので、アネイシアは今年ディトラスに披露したらばっさり切ってしまおうと思っている。
自分でも好きになれなかった漆黒の髪を誉められたのがうれしくて、のばしてみればとすすめてくれたディトラスの言葉を大切にしたかったのだった。
成人は彼女にとってまだまだ先の話なので、切ってしまっても問題ない。
珍しく雨が続いた三日目の正午、ディトラスが到着したと教えられて、アネイシアは通りかかった下男が、今日はまた格別にご機嫌だなとからかうほど、うわついた気分が態度にもでていた。
使用人ではないので出迎えにはいけないが、これからまた二か月一緒に過ごせると思うだけでわくわくする。
ようやく雨のあがった翌日、ディトラスに呼ばれていくと少し大人びた少年は、それでも変わらない笑顔で再会を喜んでくれた。
林のガゼボへ行こうと誘われて一年ぶりに二人で白石の建物へ向かう道すがら、興奮しきりのアネイシアは文字をたくさん覚えたことやもらった短剣を大事にしていること、最近屋敷に仔猫が住みついていることなどとりとめなくしゃべり続ける。
それは子供の他愛ない話を母にすらできないからでもあったが、ディトラスは嫌がりもせず聞いてくれた。
ガゼボに着いて長椅子に座るころになって、ようやくしゃべりすぎたと我にかえったアネイシアは急に恥ずかしくなってうつむいたが、ディトラスはじっと彼女を見ていて小さな背中に流れる黒髪にそっと手をのばす。
女性のたしなみとして長い髪は結いあげなければならなかったが、アネイシアはまだ自分ではできないので――当然母も結ってくれなかった――左右のひと房をすくって後ろで結い背におろしたままにしていた。
ディトラスが指先で梳くと、漆黒の髪は絡まりもせずつやつやと光沢を放ちながら指のあいだを流れおちる。
彼がなにかを気にいったり称賛したりするとき、口より態度のほうが雄弁だとアネイシアはもう知っていて、喜んでもらえたのをうれしく思ったのだった。
ある日、アネイシアは内女中の使いで近隣の村へ手紙を届けていた。
近くといっても子供の足では往復にたっぷり数時間はかかる距離である。
用事をすませて村を出たときには、太陽がかたむきはじめていた。
屋敷に着いたらちょうどディトラスの午後のお茶に呼ばれる時間になるなと思いながら人けのない田舎道を歩いていると、後ろから騒がしい音をたてて走ってきた馬車がアネイシアの真横で急停止し、ディトラス本人がおりてきた。
アネイシアが使いにでたあと、彼も外出していたらしい。
「アン、こんなところでなにをしているんだ」
「お手紙を届けた帰りです」
少女の返答にディトラスはなぜか憮然として、馭者にアネイシアを乗車させるよう言ったが、男は大げさに首をふってそれを拒んだ。
貴族が使う馬車に平民が同乗するのは許されないからだ。
まだ年若い青年馭者は屋敷の者に見とがめられて上役に叱責されるのを恐れたのである。
さんざん押し問答をしたあと「じゃあ、俺がアンと歩いて帰るから、おまえは先に屋敷へ戻れ」と少年に命じられると、それにも歯切れ悪く抵抗していたが、最後には不承ぶしょう従った。
主人の命令に従っただけだという弁明がしやすいと思ったのかもしれない。
土ぼこりをまきあげながら遠ざかっていく馬車を見送って、ディトラスは口もはさめず心配そうな顔をしていたアネイシアの肩をやさしく撫でた。
「ディトラス様のお靴が泥で汚れてしまうかもしれません」
アネイシアはいつもぴかぴかに磨かれた少年の革靴が、舗装もされていない道ではすぐに傷んでしまうのではと気遣ったが、彼は頓着せず彼女の手をひいて歩きはじめる。
親にも手をつないでもらった記憶のないアネイシアは、うれしいような恥ずかしいような心地がした。
ときおり彼女を見ては微笑んでくれるディトラスを見ていると、アネイシアも知らずにこにこと笑ってしまう。
二人のあいだに会話はなかったが、少しも気まずさを感じなかった。
ずっとこうして歩いていたいと思ったアネイシアは、背後から突然太い腕に首を絞められながら抱えあげられ、悲鳴もあげられず息をつめた。
横ではディトラスも大きな男に後ろから羽交い絞めにされている。
「おい、こっちのガキはどうする」
「整った面をしていやがるが、さすがに小さすぎて売りものにもならねえ。先に殺して埋めちまおう」
二人の大男が言っているのが自分のことだとわかったアネイシアは、物騒な言葉に震えあがってパニックをおこしそうになった。
しかし次の瞬間、ディトラスがかかとで男の股間を思いきり蹴ると、にぶいうめき声とともにゆるんだ拘束からのがれ、そのまま懐剣を抜いてアネイシアを抱える男の腕に切りつけた。
「ぎゃッ」と叫んで後ずさった男からアネイシアを引きずりおろして、道向こうの林を指し示し「走れ!」と怒鳴ったディトラスに、少女はわけもわからず駆けだす。
腕を切られた男は悪態をつきながら、一瞬背を向けた少年の懐剣をもぎとり、小さな背中を肩から腰まで大きく切り裂いた。
「殺すなと言われたが、傷つけるなとは言われていないからな」
背を真っ赤に染めて膝をついた少年に男が近づいたとき、少年は懐から万年筆をつかんで振りむきざまに男の太腿へ突きたてた。
先ほどよりいっそう大きな叫び声をあげて倒れた男を確かめる間もなく、ディトラスは渾身の力で立ちあがって林へ向かって走りだす。
男たちの怒号から遠ざかって林へ入ると、すぐの草陰にアネイシアが震えながらしゃがみこんでいた。
深青の目に涙がもりあがっているのを見て、少年は安心させるように笑む。
「ここは危ない。もっと奥へ行って隠れよう。すぐに屋敷の者がさがしにきてくれる」
アネイシアはなんとか涙をひっこめてうなずくと、二人で草をかきわけ林の奥へ進んでいった。
しかし次第にディトラスの顔色が紙のように白くなり、異常に汗がふきでてくるのを見て、そのときやっと少年が背にひどい傷を負っているのに気づく。
「ディトラス様……! ここならきっと安全です。あそこに座ってください」
アネイシアも蒼白になりながら、ディトラスの手をひき大木の根もとのうろに導いた。
素直に少年が従ったのは、気力も体力も限界だったからだろう。
アネイシアは今度こそ泣きだしながら、自分の衣の裾を裂いて傷口におしあてた。
血がなかなか止まらない。
もはや背中は血でぐっしょり濡れ、服からしたたりおちそうだった。
ディトラスはすでに意識が朦朧としているらしく、口もひらかない。
ふと草をかきわける音が遠くで聞こえ、アネイシアはびくっと全身を震わせて耳をすませた。
呼吸すらとめて集中すると、男たちの声がかすかに聞こえてくる。
それはだんだん大きくなるようだった。
ここにとどまっていては、いずれみつかってしまうかもしれない。
アネイシアはしゃくりあげそうになるのを必死にこらえ、いつも肌身離さずもっている短剣をとりだすと、自分の後ろ髪をまとめてつかんで肩の上で切りおとした。
次にディトラスの血のついた上着を脱がし自分で羽織る。
それから、生まれたときから身につけている銀のペンダントを首からはずすと、ディトラスの手に鎖を巻きつけ、チャームがよく見えるように手の上へ置いた。
こうしておけば木漏れ日の光が反射して、屋敷の人たちが早くみつけてくれるかもしれない。
しかし、それは敵にもみつかりやすくなるということに他ならず、アネイシアは自分が囮になるつもりだった。
ディトラスの上着はアネイシアには大きすぎ年格好も似ても似つかないが、林のなかはかなり薄暗く草ものび放題なので遠目にはわからないかもしれない。
どちらにせよ、アネイシアに考えつけるのはこれくらいしかなかった。
「絶対に死なないで」
少女は歯をくいしばって、横たわるディトラスに周りの落ち葉や枝をかぶせると、震える膝をなんとか立たせて静かにその場から離れた。
じゅうぶんにディトラスから距離をとったところで、草を払いながら走りだす。
少し間をおいてから男たちが追ってくるのがわかった。
心臓が破裂しそうだ。
恐怖で足が何度ももつれる。
あの男たちはいったい何者なのだろう。
ディトラスをどうにかしようとしていたのはあきらかだが、なにもかもがあまりにも突然のできごとだった。
自分につきあって歩いてくれたからこんな目にあったのだと思うと、アネイシアは自責の念で胸がつぶれそうになる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
走り続けるアネイシアの顔も手も、木の枝や葉で切り傷だらけになっていたが、気にする余裕はなかった。
背後の怒声が近くなる。
もうどれほど逃げ続けたのか、時間の感覚はすっかりなくなっている。
息があがり、膝の力が急にぬけて派手に転げた。
顔をあげたものの身体がいうことをきかず這って進もうとしたとき、がさりと音がして男が姿を現した。
下卑た笑みをうかべ「このガキ、やっと」と言ったところで、瞠目して崩れおちる。
男の首には横からまっすぐ矢が貫通していた。
荒い呼吸がおさまらないままアネイシアが矢の飛んできたほうを見ると、ディトラスの剣の師クレオンが厳しい顔で弓をかまえている。
少女はそれがわかると、ぷつりと意識を手放した。
次に目覚めると、そこは室内だった。
それも使用人部屋ではない豪奢な天蓋つきの寝台で、触れたこともないようなやわらかな白い布に包まれている。
アネイシアはなんとか身体を起こしたものの、全身が油切れでもおこしているようにきしんで重かった。
気を失う直前にクレオンを目にしたのを覚えていて、自分が助かったのはすぐに理解できたが、ディトラスがどうなったのかが気になり、広い寝台をやっとのことでおりる。
どうやらここは屋敷のなからしいと気づいて大きな扉をあけようとしたとき、前触れもなく扉がひらいて入室してきた者がいた。
アネイシアがしりもちをついて呆然と見上げると、入ってきたのはひと目で貴族とわかる壮年の紳士だ。
男はアネイシアを氷のような目で見おろし、肩上でざんばらになった黒髪をつかんで少女をひきずり立たせ、手にしていた美しい樫の木の杖で小さな身体を横殴りにした。
声をあげる間もなくアネイシアは身体が大きく浮くほど飛ばされ床に投げだされる。
「あ、あ……」
打たれた腕をおさえてうずくまる少女の前で、男は周りを焼き尽くさんばかりの怒りをこめて杖で床を打ち鳴らした。
「おまえごとき下賤の者のせいで、わしの息子が重傷を負った。使用人なら使用人らしく主人の盾となって命のひとつもさしだしてみせろ!」
男が杖をふりあげたとき、執事が駆けこんできて後ろから羽交い絞めにした。
「どうかおちついてください、旦那様。アンはディトラス様の身代わりとなって敵をひきつけ時間をかせいでくれたのです。彼女がいなければ手遅れになっていたかもしれません」
「そもそも身のほどもわきまえずディトラスに近づくから、こんな騒ぎがおこったのだ」
男は執事をおしのけて杖をふりおろした。
それはアネイシアのこめかみを強打し、勢いあまって壁に頭を打ちつける。
瞬間、耳の奥が爆発するような衝撃とともに激痛が彼女を襲った。
視界がぐわんと揺れて急激に暗くなっていく。
完全に闇に包まれる寸前、アネイシアは戸口で顔を赤黒く腫れさせた母が、憎しみのまなざしを向けて立っているのを見た。
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