第2話


 数か月ぶりの自分の部屋。ベッドで横になる。

 窓の向こうから、ひっきりなしに通る車の音が静かな室内に響いていた。

 本当に、今まで、自分はこの場所にいたんだろうか?

 電気を消して薄明るい部屋をながめる。ふいに千代おばあちゃんのほがらか笑顔が浮かんだ。優しい輝葉姫や秋穂さんの、力強い美海ちゃんや圭介おじさんの、騒がしほど元気な大地くんの表情が浮かんだ。


 つぎの日、ノックの音でわたしは目覚めた。お父さんの顔は、なんだかさっぱりとした表情になっていた。

 キッチンからは、ベーコンが焼ける香ばしい匂いがただよってくる。

 テーブルに大きな本が、二冊置いてある。

 わたしは、リビングにある大きな本棚を見やった。一番下の収納棚の戸が開いていて、二冊分の隙間ができていた。

 それはアルバムだった。

 わたしの胸が、とくんと脈打った。

 ページをめくる。

 子ども時代のお母さんの姿があった。幼い秋穂さんの姿もある。そして、まだ髪の黒い千代おばあちゃんや生前のおじいちゃんもそこに写っていた。

 ページをめくるたび、お母さんが、みんなといっしょに成長していく。中学校の入学式の日に、校門前で、千代おばあちゃんと写っているものもある。わたしと同じ年齢のお母さん。

 もう一冊。わりと新しいアルバムを開く。とても若いお母さんの姿がそこにはあった。高校で部活をしていたり友達と食事している。そして、たくさんの木たちと写っている写真も残っていた。楠の大きいじいちゃんの前でピースして写っているものもある。輝葉姫の前で秋穂さんやおばあちゃんと写っているものもある。灰色の巨大な木の前で、どこかの子どもたちと笑顔で写るお母さんの姿もあった。

 何ページかめくると、髪型も変わって髪もきれいに染めて、大人っぽくなった姿になった。若いけれど、わたしがよく知るお母さんの姿。

 そこに、あるときからお父さんの姿が混ざった。結婚式の様子。そして、小さな赤ちゃんが病院の小さなベッドで寝ている写真があった。

『若葉 0さい』

 シールにそう書いてあった。

 それからは、ほとんどわたしが中心の写真が続いた。あるページをめくると、写真が、一枚不自然に抜けていた。抜けているのは、きっと、わたしが持っている写真立ての写真だろう。

「ごめんな。ずっと見せてあげられなくて」

 わたしが何気なく顔を上げると、お父さんは泣きそうな顔をしていた。

「お母さんの葬式の後に、おばあちゃんが整理してくれて、古い写真も分けてくれたんだ。若葉に見せてあげてと言われていたのに、今になってしまった」

 お父さんは、わたしの前に、マグカップを置いた。作り立てのココアが入っている。白い湯気がのぼっていく。

「お父さん、お母さんが死んだ後、まだ小さかった若葉の子育てと仕事を必死になってこなしてきた。そのつもりだったけど、どこかで、それが心地よかったんだよな。ふと立ち止まって考えたら、重苦しい何かに押しつぶされそうだった」

 わたしは、そっと、ココアの入ったマグカップを指で触れた。

「若葉」

 そう言われて、わたしは顔を上げた。

「お母さんが木としゃべれたことも、本当はもっと早く教えるべきだったな。若葉とお母さんとの絆でもあるのに……」

 わたしの顔をまっすぐに見て、お父さんはそう言った。

「いつの間にか、お母さんのことを遠ざけていたと思う。考えることとか思うこと。そんな暇はないと、悲しみとかさみしさとか孤独を閉じ込めて、戸棚の奥に隠して見えないようにして……。いつしか、口に出すこともしなくなった。きっとそれを、若葉にも押し付けていたんだと思う。本当に、すまなかった」

 お父さんのせいだけじゃなくて、きっとわたしもそうだった。

 そう思った。

 この二冊のアルバムは、いつもリビングにあったのだ。手にしようとすれば、いつでも手にできる場所に。

 ちょっとだけ考えて、わたしは、

「でも、ココアは残してくれてたね。別のとこのココアだけど」

と答えた。

 お父さんは小さく笑った。

「中途半端だったな。別のココアにしたけど、香りそのものは、この家から消すことができなかった。若葉が生まれる前、はじめてお父さんがお母さんの家に行ったとき、若葉が夏にずっとすごしたあの家だけど、ちょうど今くらいの季節だった。そのとき、お母さんからごちそうしてもらったのがこのココアだったね。お父さんにとっても、思い出の香りだ」

 そう言うと、お父さんは、自分のマグカップに指をかけて、ココアを口に含んだ。


 その日、わたしは、お父さんと家の片付けをした。

 手を止めずに、お父さんがわたしの名前を呼ぶ。

「あれからお父さん。いろいろ調べていたんだけどさ」

 そう前置きして話しはじめたのは、わたしがずっと決めずにいたこれからのことだ。

「中学に行けなくてもフリースクールっていうのがあるって前に言っただろ?お父さんも調べるまで勘違いしてたんだけど、フリースクールってのは、学校に戻ることを前提に考えなくてもいいみたいなんだ。学校に行けない子やあえて一般的な学校に行かない選択をした子たちの居場所がフリースクールというものらしい。これからは、学校も学ぶ方法も、自由に選択できる時代なんだな」

 わたしは、作業の手を止めて、お父さんを見つめた。

「大事なのは、学校に行くことじゃなくて、学ぶことなんだよな。世界には若葉の知らないことがまだたくさんある。何かに興味を持つことや学びたいって気持ち。お父さん、それ自体はあきらめてほしくないんだ」

「うん。そんなことしないよ」

「そうか。こっちほど数はないけど、向こうにもいくつか中学生を対象としたスクールがあるみたいだ。それに、フリースクールも嫌なら、自宅学習という道もある。だから、まだ無理なら、急がなくていい。準備ができたら言ってくれ」

「わかった。ありがとう」

 わたしは、お父さんが真剣に自分と向き合ってくれていたと知ってうれしかった。

「でも、お父さんは」

「それから昨日の」

 お互いの言葉が重なった。お父さんがわたしを見てほほえむ。

「昨日の話なんだけど、向こうでの新しい仕事も探さないといけないから、少し時間がかかると思う。もう少し、お母さんの家で待っていてくれ」

「うん。わかった」

 うれしくなって笑顔を隠せない。

「うれしい」

と、わたしは本音を口にした。

 お父さんがうなずく。

 わたしは、片付けをしながら、夏の思い出をお父さんに話して聞かせた。

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