第九章 帰りて、根を下ろす先は

第1話

 ドアの前に立ち、わたしは、自分の部屋を見渡した。机とベッドとレトロな扇風機があるだけで何もない。

 押し入れにいれていた服も塾の参考書も、段ボールに入れて、もう都会のマンションに送り返した。

 今日、わたしはここを出て行く。あっちに戻るのだ。忘れ物はない。

 来た時と同じ荷物だけ持って、一階に降りていった。

「支度はすんだ?」

 一階で待っていたのは、秋穂さんだった。

「うん」

 わたしはうなずいた。

 平日なので美海ちゃんと大地くんはいない。そして、おばあちゃんは、朝に、ことづての仕事の依頼が入っていた。だから、急きょ秋穂さんが、お昼から仕事を休んで来てくれたのだ。空港まで送ってくれることになっている。

 秋穂さんと二人きりか。輝葉姫との言葉の橋渡しをしたとき以来だ。こんな機会、あんまりないよな。

 わたしはあの時のことを思い出していた。それと同時に、淡いお願い事が心の中から泡となって湧き上がってきた。

「まだ少し時間あるし、おじいちゃんとお母さんに挨拶していったら」

「うん」

 和室の仏壇の前に座って、わたしは手を合わせた。

「あのぅ」

 後ろにいる秋穂さんに向き直ると、わたしは小さく呼びかけた。

 声が何だか硬かった。

 秋穂さんがわたしを見つめる。

「ええっと」

「どうかした?」

「うん、ちょっと」

「なんだか、顔色が変だよ?気分でも悪いの?」

「いや、ちがうの」

 わたしは、下を向いたまま、気がつけば、小ちゃな子が恥ずかしがってるみたいに、手をにぎにぎやっていた。

 秋穂さんが、不思議そうにそれを見ている。

「あの。その、秋穂さん。あの時みたいに、ハグっていうか、その。最後にするからさ、もう一度、抱きしめてほしい、なんて……」

 言葉はしりすぼみになって消えていった。

 でも、わたしの言葉が終わる前に、秋穂さんが優しくわたしを包んでくれていた。

 途端に、全身が熱くなってきた。身体がふるえてくる。涙が止まらなくなった。

 やっぱり温かいんだな。お母さんって、こんな感じなのかな……。

 そう思った。

 あの時は、決して抜けなかった緊張がわたしの身体から抜ける。わたしも、秋穂さんの身体に手を回していた。

「最後なんて言わないで。何度でもいいよ。いつでも抱きしめてあげる」

「秋穂さん」

「ん?」

「ずっと会いに来なくてごめんなさい」

「うん」

「秋穂さん」

「ん?」

「秋穂さんは、いなくならないよね?いなくならないでね」

 秋穂さんが、さらにわたしを抱き寄せた。わたしの頭に手を置いた。

「いなくならないよ。当たり前でしょ」

 秋穂さんの声もふるえている気がした。

「この前のことで心配させちゃったね。ごめん。もう、わたしはだいじょうぶだから。どこにもいかないから安心して」

「うん」


 十月の初め。わたしは、都会のマンションに戻った。

 こんなに小さかったっけ?

 高速道路の橋の下をくぐりながら、わたしはふとそう感じた。

 背なんてそれほど高くはなっていないはずなのに、三ヵ月前よりも、ここはせまく感じた。前はもっと巨大で、圧迫感があった気がする。高速道路の下から、背後の空にのびるビルたちを仰ぐ。神無月の陽に照らされて、冷たそうにきらめいていた。

 あれ?何階だっけ?

 エレベーターに乗っても、前のように、すんなりと③のボタンは押せなかった。

 リビングに入ってまずわたしが驚いたのは、キッチンの奥に、ゴミ袋が二つ雪だるまになっていたこと。カップ麺の容器が重なって詰め込まれていた。部屋もなんだか汚かった。

「いやぁ、これは、今度出そうと思ってたんだけど、ちょっとゴミ出しに間に合わなくてさ」

 お父さんは、苦笑いしながら頭をかいていた。

 娘の世話をしなくてよいのだから、もっと父の心や生活にもゆとりというものが生まれていると、わたしは勝手に思っていた。どうやらまちがっていたらしい。

 父は、この前会ったときよりも、さらに顔色が悪くなっているようだった。

 それを見た瞬間に、わたしの中で、何かのスイッチが押された。

「お父さん。わたし、晩ごはん作るよ」

 わたしはいきなり宣言した。

「えっ?」

「おばあちゃんに習って、いろいろ覚えたんだ。最近ね。魚もさばけるようになったんだよ」

 冷蔵庫にはあまり食材がなかった。お父さんを連れて買い物に出かける。コーヒーコーナーに寄って、ココアを手に取った。

「それに、するのか?」

 いつも家にあるのではなく、おばあちゃんで飲んだあのココアを、わたしが迷いなく手にして、お父さんは言葉を詰まらせた。

「うん。わたし、こっちのが好き。そうだ。ハチミツも忘れないようにしないとね」

 お父さんは、先を歩くわたしの姿を黙って見ていた。


 夜、父と娘でキッチンに立った。ここのキッチンは、二人で立つにはせますぎた。ときどき肘がぶつかりながらも、野菜を切ったりフライパンを振ったりした。

 できたのは、大根の味噌汁とキュウリのごまじょい。そしてピーマンの肉詰め。

「お父さん」

 ご飯を食べながら、わたしはお父さんを見た。

「向こうで一緒に暮らさない?」

 今朝まで。リビングに足を踏み入れるまで自分でも考えもしなかったことをわたしは口にしていた。でも本気だ。

 お父さんが箸を止めた。

 おばあちゃんの家に預けられたとき、わたしは、自分は捨てられたのだと思っていた。でも、それはちがった。お父さんは、わたしを逃がしてくれたのだ。この場所から。

『ここにいたらダメになる』

 お父さんは、あのとき確かにそう言っていた。

「若葉」

 少し考えてから、お父さんはわたしの名を口にした。自分でも驚くほどの急な提案だったけど、お父さんは、あんまり驚いた様子はなかった。

「若葉がそうしたいなら、これからも、おばあちゃんの家で暮らしていいんだぞ?お父さん、お願いしてみるよ。お父さんといっしょより、若葉にとってはその方がいい。この前、そう思ったよ」

「ダメ。それじゃあ、お父さんが独りになっちゃうよ」

 わたしは、まっすぐにお父さんを見つめてそう言った。

「千代おばあちゃんも好き。でも、お父さんと、もう一度いっしょに暮らしたいんだよ。二人きりの親子でしょ?」

 ずっと、わたしは考えていた。

 向こうからこっちに帰ったら、学校にもまた通えるようになって、すべてが元通りになるって。

 けれど、わたしは気がついた。

 わたしは、元に戻りたいなんて思っていないんだ。

「……ちょっと、考えさせてくれないか?」

 長い間を置いて、お父さんはそう答えた。わたしは小さくうなずいた。

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