第八章 記憶の雨によみがえる若葉

第1話

 暴れる風で何度も転んだ。田んぼの中に転がり落ちては這い上がり、地面や民家の塀に身体を打ちつけられながら、這いつくばるようにして神社までたどり着いた。

 楠の大枝が一本、折れて境内に落ちていた。

 心臓が引き裂かれるように痛む。

 急いで川へと続く階段を下りようとした。

「だめっ!!」

 叫ぶような声が頭上から飛んできた。幹の腰かけに立つ輝葉姫が、怖い顔でわたしをにらんでいた。

「危ないじゃない!何しに来たのっ!」

「だって!!」

「帰りなさい!」

「やだよ!」

「帰りなさい!」

「やだ!」

 コンクリートの道は、すでに水没していた。わたしは、かまわず遊歩道に降りていった。足首を、水が勢いよく流れる。身体全体を動かして、進む。顔は、輝葉姫の姿とざわめく楠を見ていた。

「こっち!」

 輝葉姫が、根元に降りてきて腕をのばす。

 わたしも、腕をのばし輝葉姫の手を握った。斜面をよじ登って幹にしがみつく。

「ごめん。心配だったから。もう会えないかと思ったから」

 輝葉姫を抱きしめて、わたしはそう言った。

「心配いらないよ。このくらいは」

「この前はごめん。ごめんね」

 わたしは、何度もごめんねとつぶやいた。

「そんなこといいんだよ」

 わたしは、ふるえながら輝葉姫を見上げた。すぐそばに輝葉姫の顔があった。

「死んじゃ嫌だ」

「うん」

「死んじゃ嫌だ」

「わかってる」

 わたしは、何度もそう言いながら、輝葉姫に抱かれたまま、自分でも気づかぬうちに気を失った。


 夢を見た。

 小さなわたしは、一時期、おばあちゃんの家ですごしていたことがある。多分それは、あの人にとって、故郷ですごせる最期の日々だったのだと思う。

 その日々の中で、わたしは、ときどき、あの人に輝葉姫のもとに連れてこられていた。

 ある日、わたしは、あの人から家族のことづてを聞かされる。木霊依姫このたまのよりひめミネの昔ばなしだ。ちょっと怖くて悲しいお話。

 その後、あの人は、輝葉姫に自分のことづてを伝えていた。けれど、わたしは、そんなこととは知らずに、のんきに遊んでいたんだ。遠くを見ていると、川下から、シラサギが一羽飛んできて枝にとまる。

「お母さん、鳥さんだ」

 そう言ってわたしが指さすと、あの人は、

「若葉」

ってわたしを呼ぶんだ。

 近づくと、抱きしめられた。あの人と自分の視線が結ばれる。

 あの人が、わたしにおでこをくっつけて笑う。それで、わたしは、とってもうれしくなった。

 そして、わたしを見て、あの人は言ったんだ。

「若葉、ずっと大好きよ」

 そっか。そんな言葉だったんだ。そんな言葉だったんだ……。


 どのくらいたったころか、わたしは、葉を渡る風に吹かれて、鈍い光を感じた。

 このまま眠っていたいな。もう、このままずっとこうしていたいな。

 そう思った。

 でも、いつまでもそれじゃあいけないよね。眼を開けて。自分の足で、立たなきゃ。

 もう一人の自分が、静かにそう言った。

 誰かが、わたしの背中に手を置いた。温かかった。温もりが全身に広がっていく。

 重たいまぶたを押し開ける。

 黒と灰色を混ぜた空。そこに切れ長の筋が輝き、陽が差し込んでくる。

「気がついた?」

 輝葉姫はずっとそばにいてくれた。

「わたし、ずっと昔、ここに来てたね」

 わたしは、すべてを思い出した。

「ミネと輝葉姫の昔話を、ここで聞いたんだ」

「思い出したんだね」

 そう言った輝葉姫の瞳は潤み揺れていた。

「うん。輝葉姫?あのときも、泣いていたの?」

「うん」

 わたしは、輝葉姫の幹に支えられ、ゆっくりと立ち上がった。

「輝葉姫」

「なに?」

「ごめんね。ずっと会いに来なくて。ずっと待ってくれてたんだよね?こうやって、嵐の夜を何度も乗り越えて、わたしが来るのを、待ってくれてたんだよね、ここで」

 輝葉姫の白い頬に、涙がつたった。

「輝葉姫」

「なに?」

「お母さんのことづてを、聞かせて」

「でも若葉ちゃん、ふるえてるよ。それにあちこちケガしてる。今度にしたら?」

 わたしは首を横に振った。

「今、聞きたいんだ」

 輝葉姫が、まっすぐに向けられたわたしの瞳と視線を結ぶ。

「わかったよ」

 輝葉姫はゆっくりとうなずいた。

「若葉。ずっといっしょにいてあげられなくてごめんなさい。本当は、お母さん、もっともっと若葉といっしょにいたかった。もっとそばにいてあげたかった。でも、そうはできないようです。だから輝葉姫にことづてを頼みました。

 若葉、もしかしてあなたは、お母さんが死んだのは自分のせいじゃないかって気に病んでいるかもしれません。ですが、それはちがいます。気休めとか嘘ではなくて、これは本当のことです。気に病んでないのならいいんだけれど。もうそれは、お母さんには知れないことなので、はじめに伝えておきます。そんな気持ちがあるのなら、今日できれいに手放しましょう。

 これから先、若葉はどんな人間に成長していくんでしょうか?身体も心も健康で、周りの人に好かれて友だちもいっぱいいて、明るく元気に毎日をすごしてほしい。って言うのがお母さんの願いです。

 とは言うものの。それはあくまでお母さんがそうして欲しいってだけです。絶対ではありません。お母さんの願いにも、別の誰かの言葉にも、とらわれる必要はありません。だから、あなたらしく、あなたの心のままに生きてください。でも、やっぱりお母さんとしては、優しくて元気で、友だちもたくさんいてくれる方が安心できるかな。やっぱり。

 若葉。何度も言うけど、いっしょにいてあげられなくて、本当にごめんなさい。でも、お母さんはいつもそばにいます。本当です。信じてください。お母さんは、若葉のことを、空からいつでも見守っています。

 って言いたいところだけれど、お母さんは、空じゃなくて、多分土から見守っています。若葉にもことづての力が宿っているのかどうかわからないんだけれど、それでも、若葉にもその血が流れているのは確かです。いずれ知る日が来ると思いますが、わたしたちの祖先は、ずっと大地に根差して、木に寄り添って生きてきました。だから、わたしは、空じゃなくて、大地からあなたを見守っています。土や木に宿っています。

 それじゃあ、元気でね」

 涙は出なかった。ただ心と身体の芯が温かかった。こんな感覚は、はじめてだった。

「美樹ちゃんがわたしにことづてを託したとき」

と、輝葉姫は言葉を続けた。

「わたし、言ったんだ。もしもあなたが望むなら、今のこの姿を、あなたに変えようかって。もし若葉ちゃんが、ことづての力を受け継いでいたら、わたしの姿を見てお母さんを思い出せるでしょ?だから、そうしてもいいよって」

 輝葉姫は、空のかなたに目を向けた。わたしも同じように空を見る。分厚い雲が晴れていく朝焼けの空だった。

「でも、そんなことしなくていいって言われた。そんなことをしたら、若葉が自分の死を乗り越えられないかもしれないからって」

『輝葉ちゃんには、1400年を生きる輝葉姫として、娘と接してほしいんだ。あなたのその姿は、わたしたち家族にとって、とても大切で尊いものだから』

 そのとき、あの人はそう答えたという。


 裸足のまま、全身泥だらけで、わたしは自分の家に戻った。

 玄関が開いている。門の前まで来ると、なぜか裏山から、お父さんが飛び出てきた。お父さんの顔は真っ青だった。わたしに気づくと走り寄ってくる。お父さんも裸足だった。そして全身泥だらけだった。

 お父さんは、わたしに駆け寄るなり、わたしの頬をぶった。

 左の頬に、ビリリと痛みが走る。ふらふらだったわたしは、衝撃でよろけた。

 お父さんの手が肩にのびる。今度はいきなり抱きしめられた。

 大人はこれだから、散々だな……。

 そう思ったけれど、お父さんの身体も小さくふるえていた。

「どこ、行って……!」

 その声もふるえているようだった。

 頬がヒリヒリと痛い。でも心は、とても穏やかで静かだった。澄み渡っている。

「ごめんなさい」

 わたしは静かに、はっきりとした声で言った。

「お母さんのことづてを聞きに行ってたんだ。どうしても、今じゃないとダメだったんだ」

 お父さんの顔を見ると、お父さんはやっぱり泣いていた。

 ああ、そうか。やっとわかった。

 ずっとずっと、わたしの心の奥底にあったもの。隠していたもの。

 ときどきわたしを襲う憂うつや孤独。さみしいって感情。それは、自分がどんなに手をのばしてもつかめないものへの思いだった。失ったあの人への恋しさだった。

 そして、そのもっと奥、一番底には、叶えたい思いがあった。あの人が恋しくて、必死に手をのばせば握り返してくれるかもしれない。どこかで、そう思っていた。

 会いたい。いっしょにいたい。

 そう願って求めて望んでいた。

 だけど……。

 今やっとわかった。そしてはっきりした。やっぱり叶えられないんだ。どんなに願って求めて望んだって、どんなにがんばったって、もうどうしたって手には入らないんだ。受け入れるしかないんだ。

 美樹という人とか。母・美樹とかあの人とか。いつまでやるの?バカみたい。



 お母さんは、死んだのだ。



「お父さん」

「ん?」

「お母さんが、死んじゃった」

「え?」

 わたしは、少し笑ったと思う。すると、やっと涙が溢れ出した。

 それは泣き声というよりも、わたしの感情そのものだった。

 十年分の感情。

 むせぶ音と涙となって溢れ出した。

 わたしは、お父さんの服をつかんで、暴れるように泣いた。でも頭のどこかは妙に冷静で、なんか赤ちゃんみたいで恥ずかしいなと自分を見ているもう一人の自分もいた。

 お父さんの腕が、わたしを包む。暴れないように押さえつけるのではなく、暴れたいだけ暴れられるようにそっと包んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る