第3話
圭介おじさんが玄関のガラス戸を開けたとき、わたしとお父さんは、靴を履いたまま玄関の中で待っていた。
「戸締まりはすんだ?」
わたしはうなずいて立ち上がった。お父さんも立ち上がる。
お父さんと圭介おじさんは、車に乗り込むまでの間、大人の会話をしていた。ご無沙汰していますとか、娘がお世話になっていますとか。二人が会うのは、あの人のお葬式以来らしい。
圭介おじさんの顔は、怖いほど引き締まっていた。
「あの、それで。
車が走り出すと、お父さんが圭介おじさんにたずねた。
「まだ詳しく聞いてないんですが、そこまでの大ケガじゃないらしいです。命に別状はないとか」
「ああ、そうですか。よかった。よかったな?」
と言いながら、お父さんがわたしを見る。わたしは小さくうなずいた。
「自損事故らしいですね。誰かを巻き込まなくてよかった」
ほっとしたように圭介おじさんは息をはいた。カーブを曲がり損ねて、
「おばあちゃん、いわゆる高齢ドライバーだからね。いろいろと忙しく飛びまわらないといけない人だけど……」
「だけど」の後を圭介おじさんは続けなかった。わたしもお父さんも何も聞かなかった。
大きな病院の三階。受付で教えてもらった病室の大きなドアを開ける。
ベッドの上におばあちゃんが寝ていた。ベッドを囲むように、秋穂さんと美海ちゃんと大地くんもいた。
おばあちゃんは、あっけにとられるほど元気だった。わたしと目が合って、「あは」と笑った。
「若葉ちゃん、ごめんねー、心配かけて。台風の備えはまだでしょ?もしかして、もうしてくれた?」
こっちの心配をよそに、どうでもいい話をする。
「あら、優一さん!どうしたんですか?え?飛行機飛ばなかった?大変やったね、そりゃ」
のんきな会話に、突然、わたしの心に怒りが湧いた。
「バカッ!!」
急に大声でわたしが叫んだから、病室にいる誰もが、驚いてこちらに顔を向けた。
わたしは、つま先を廊下に向けると、大股で部屋から出て行った。受付ホールのすみっこ椅子に座って、膝に頭をくっつけ丸くなった。お父さんたちが迎えに来るまで、ずっとそうしていた。
おばあちゃんは、検査のために入院しなければならない。だから、その日、わたしとお父さんは、二人で千代おばあちゃんの家ですごすことになった。
夜。雨戸を打ちつける雨音とともに、庭木の枝や葉がぶつかりあう激しい音が届く。わたしは、ベランダ窓に手を置いて、見えるはずのない外の様子をうかがっていた。
チンと、後ろからレンジの音がする。窓に、首にタオルをかけたお父さんが映っている。頭をふきながらレンジからお弁当を出していた。
「お弁当、温まったよ。いっしょに食べよう」
お父さんが、千代おばあちゃんの席に座る。わたしは、いつもの自分の席。向かい合ってお弁当を食べる。
お父さんは、変なトレーナーを着ていた。今日着ていた服も下着も雨で濡れたので、病院帰りに、お弁当といっしょに間に合わせで買ったものだった。普段のお父さんはしない格好。
「でも驚いたよ」
お茶を飲むと、お父さんは何気なく言った。
「わたしも。けど、大したことなくてよかった」
半分上の空で、わたしは言葉を返した。
「おばあちゃんは、そうだね。お父さんが言っているのは、若葉のこと」
そう言われて、わたしはお父さんを見た。
「あんなに感情を出して怒ったり、雨に濡れるのも平気でテキパキと動く若葉、はじめて見た気がする。こんな一面もあったんだなって」
「そう」
「若葉、こっちに来て、よかったか?」
「うん。多分。わかんない」
「そうか……」
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「お父さんは、お母さんが木と話せるって知ってたの?」
わたしはお父さんの顔を見た。
お父さんが、
「ああ」
短くお父さんは言った。
「ことづてって知ってる?」
「うん。お母さんから、聞いたことがあるよ」
「そう。どうして、わたしに何も教えてくれなかったの?」
あれ?なんか少し責めるみたいな言い方になっちゃった。そんなつもりなかったのにな。
そう言われて、お父さんは少し黙った。
「そうだな。ごめん」
お父さんは、箸を置くと静かに答えた。
「もっと早く伝えるべきだったね。でも、どう教えていいか迷っていたんだ。木とおしゃべりできるなんて、どうすれば信じてもらえるかわからなくてね」
わたしが黙って見ていると、お父さんは、わたしの視線をかわしてお茶の入ったコップを手に取った。
「言い忘れてたんだけどね。わたしも、木としゃべれるようになったんだよ」
わたしは、心の中でため息をついて話題を変えた。
「そうなのか。やっぱり親子なんだな」
「近くにね。お母さんと友だちだった木がいるんだ。その木にね。お母さんがことづてを残しているの。わたしへの」
「そうか」
「でも、わたし、まだ、お母さんからのことづてを聞いていないから。だから、もうちょっと待ってほしいんだ」
「わかったよ」
一階のおばあちゃんの部屋を借りて、そこに二つの布団を敷く。
電気を消しても全く眠れなかった。
心が、暴れている。身体から飛び出して、そこらじゅうを跳ねまわりそうだった。本当に大切な何かが、身体の中から飛び出しそうだった。
『この先も生きていられるとは限らない』
あのとき輝葉姫はそう言った。
もしも、この台風で輝葉姫が……。
そこまで心の中で言葉にして、その先は恐怖で考えられなかった。
暗闇が、怖い。
真夜中、わたしは、二階の自分の部屋に向かった。
照明をつけ、そっと雨戸を開けた。びゅうびゅうと雨と風が吹き込んでくる。ふだんなら遠く家並みの奥に見える輝葉姫は、今は見えるはずもなかった。
勉強机の上の写真立てが、ふと目にとまった。
あの人の顔。その顔を見て、安心しきっている自分の顔。のんきな顔。
風にあおられて、写真立てが床に落ちた。パリンとガラスが割れる。
身体が動いていた。階段を転がるように降り、玄関の鍵を開けて、気がつくと、わたしは、台風の中をよろめきながら走っていた。
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