第2話


 豪雨から一週間も経っていないのに、今度は、台風が九州に近づいていた。

 今日は金曜日。お父さんが、仕事を休んでまで、おばあちゃんの家を訪れていた。夏が終わってもわたしが帰ってこないからだ。

 当然、飛行機は、もうとっくに飛んでいる。帰ろうと思えばいつでも帰ることができた。でもできなかった。

 帰るなら、輝葉姫てるはひめから、あの人のことづてを受け取らねばならない。でも、どうしても、わたしの足は、彼女の元へ向かわなかった。

 テーブルで、今わたしは、久しぶりにお父さんと向かい合っている。目の前には、お父さんが手土産に持ってきた茶菓子が皿に並んでいる。

 おばあちゃんが、麦茶をいれたガラスの湯飲みを、わたしたちの前に置く。氷が一個、無神経にぷかぷか浮いていた。

「もうちょっとだけ、待ってくれないかな」

 わたしがそう言うと、お父さんは、険しい表情を見せた。

「どうして?お父さんは仕事があるんだ。それは困るよ」

 決して激しくはないが、押さえつけるような口調だった。

「それは夏の間も変わらなかったでしょ?」

「夏休みまでという約束だったろ?いつまでも、おばあちゃんに迷惑をかけるわけにはいかないよ」

 お父さんがそう言うと、おばあちゃんが、

「あたしならだいじょうぶ。問題ないですよ」

と、口をはさんでうなずいた。

「だけど、二学期がはじまって、もう一週間だ。このままずるずると休み続けたら、また行きづらくなるんじゃないか?学校はどうするつもりだい?」

 わたしを見て、お父さんがそう問いただす。

「学校も、もうちょっとだけ待ってほしいんだ」

 お父さんはあきれたように息をはいた。

「話にならない。いつまで学校に行かないつもりなんだ?ずっとこのままでいいなんて思っていないだろうね?」

「思ってないよ。学校も、ずっと行かないつもりじゃない。行かないでいいとも思ってない。でもまだ……」

 まだその前に、ここでやらないといけないことがある。

 本当のことを言うと、ここであったことも、出会った人や木たちも、あの人からのことづても、全部忘れて、ここから逃げ出したかった。

「まだ、なんだ?説明になっていないよ。不登校の理由もそうだ。何があったのか、お父さんはまだ聞いていない。いつまでも黙ってていいなんて、思っていないよな」

 穏やかだけどお父さんの言葉は厳しかった。

 わたしは口をつぐんだままだった。

 心の体力不足。

 大楠のおじいちゃんにも美海ちゃんにも素直に言えた言葉が、喉元でつかえる。どうしても、口から出なかった。

 黙っているわたしを見かねたのか、おばあちゃんが、まぁまぁ落ち着いてと話に加わる。

「そんなに急がないで、ゆっくりでいいでしょう」

 そう言って、おばあちゃんはわたしを見つめた。

「話したくないのに、無理に聞かなくても。自分でも整理ができないうちはね。ごちゃってして、言葉にもなかなかできないもんね。学校も、そのうち通えるようになるさ。しっかり者だから、若葉ちゃんは。ばあちゃん、わかってる!」

 ほがらかに笑ってみせた。お父さんは、ため息をはいてしばらく黙っていた。そして、誰に言うでもなく言った。

「都会より田舎の方が合ってたってことなのかな?」

「そういうことじゃない。やり残したことがあるんだよ。きっと、それをそのままにして帰っても、何も変わらないと思うから」

「そうか」

 お父さんは小さくうなずいた。おばあちゃんに向き直る。

「本当に、お世話になってもよろしいんですか?」

「家の手伝いもしてくれてるんですよ。あたしも助かってます」

 おばあちゃんは力強くうなずいた。

 その後、わたしとお父さんは、とりあえず九月まで学校を休むことと毎日必ず連絡を取りあうことを約束した。


 廊下の奥の和室から、聞き慣れたりんの音が耳に届く。和室から戻ったお父さんは、そのまま玄関に向った。

 わたしもおばあちゃんも戸惑った。

「え?お父さん、帰るの?」

「泊まっていくんでしょ?久しぶりに親子でゆっくりしたらいい」

 てっきり土日は、こっちですごすのだと思っていた。

「そうしたいのはやまやまですが、台風が来ているでしょ?明日になったら、飛行機が飛ぶかどうかわからないので」

 靴を履きながらお父さんはそう返した。夜の便の航空チケットを、すでに取っているらしい。

「明日には戻らないといけないんですよ。仕事がありまして」

「あら、そうね?大変ねぇ、そりゃ」

 おばあちゃんは残念そうにそうもらした。

「それじゃあ、若葉。元気で。あんまりおばあちゃんの迷惑にならないように。勉強だけはしっかり続けるんだぞ」

 そう言い残し、お父さんは帰っていった。

 父の背中は、なんだか疲れていた。

 お父さん、なんだか痩せたな。仕事、大変なのかな?

「ずいぶん顔色が悪かったね」

 ガラスの湯飲みを洗いながら、おばあちゃんはそう言った。

 横で手伝っていたわたしは、うんとうなずいた。

優一ゆういちさんの顔、若葉ちゃんがこっちに来たときと同じだったよ。いや、もっとひどい顔してたから、心配よ」

 そう返されて軽く衝撃だった。

 わたしって、こっちに来たとき、あんなにひどい顔してたんだ。自分ではわからなかった。今もあんまり変わらない気もしているけど。


『超大型で非常に強い勢力をたもったまま九州に接近中』

と、今もテレビが言っている。

「これからおばあちゃん、白石さんのとこの梅の木の様子を、ちょろ~っと見に行ってくるから」

 時計を見やって、おばあちゃんがそう言った。

「台風で?」

「うん。若葉ちゃんお留守番してて。ひょっとしたら遅くなるかもしれない。そのときは、ごめんだけど戸締りをしてて」

「植木鉢とかも、また部屋の中に入れとこうか?」

「う~ん。いや、雨風ひどくなるのは明日だろうから、それは、明日また一緒にしようか」

 ベランダ窓から外を見て、おばあちゃんはそう答えた。

「わかった。おばあちゃんも気をつけてね」

 わたしの言葉にうなずくと、おばあちゃんは足早に出ていった。


 さっきまで晴れていた空が、急に灰色の雲で覆われた。だんだんと風も強くなり、昼間とは思えないほど世界が暗くなる。そして暴風とともに、大粒の雨が大地を襲った。

 予定の時間に、おばあちゃんは戻らなかった。わたしは、スマホ片手に、もう一時間以上待ちぼうけをしている。雨と風は、どんどんひどくなってくる。

 おばあちゃんは携帯を持っていない。いくらスマホを握りしめていてもどうにもならなかった。

 わたしは意を決して立ち上がった。傘をさして庭に出でる。

 すると、玄関のほうから車の音が聞こえてきた。

 帰ってきた!

 急いで玄関に戻る。玄関前に停まっていたのはタクシーだった。降りてきたのがお父さんで、わたしは驚いた。

「どうしたの?」

 駆け寄って、お父さんに傘を差しだす。

「欠航」

 困り果てた顔をしてお父さんは、空を指さした。

「上空は、もうかなり荒れてるらしい。今日の便は、ダメみたい」

 雨風をしのぐために、わたしたちは玄関の中に避難した。

「いや、ひどい目にあったな」

と、お父さんがハンカチで身体をふいている。

 わたしは、玄関から外の様子をながめた。

 この調子だと、明日に台風の備えをしても遅すぎる。とにかく早く戸締まりをはじめないと。

「ねえ、お父さん。台風に備えるの手伝って」

「え?ああ、いいけど」

 台風のときの備えは、前回でだいたい憶えた。早口で、お父さんに説明する。お父さんは、驚いたような顔をして、わたしの話を聞いていた。

 横殴りの雨と風で、傘はすぐに役に立たなくなった。あっという間に全身がびしょ濡れになる。顔に大粒の雨がぶつかるたびに、わたしは、息が乱れて、心臓のバクバクが止まらなくなった。それでも、お父さんと一緒に庭木の枝をロープで縛り、植木鉢を室内に避難させた。お父さんは、ときどき、わたしの様子を気にしながら、黙々と作業をしていた。

 スマホが鳴った。画面を見て、わたしは眉を寄せる。知らない番号だった。普段なら無視するけれど、おそるおそる通話ボタンをタップする。出たのは圭介けいすけおじさんだった。

「おばあちゃんが交通事故を起こした」

 わたしは、ふるえるように声をもらした。圭介おじさんは、もう一度ゆっくりと言った。

「おばさんがもう病院に向かってるんだけど、若葉ちゃんは今おばあちゃんち?」

「そうです。あ、お父さんも、いっしょです」

 お父さんのほうをチラと見て、わたしは答えた。

「そうか。なら仕事片付いたら、おじさんが迎えに行くから待ってて。いっしょに病院に行こう」

「わかりました」

 わたしは、スマホを耳に当てたまま、

「おばあちゃんが事故にったって……」

と、お父さんを見て言った。

「えっ!?」

 眉を寄せてお父さんは驚いた。

「もう少ししたら、おじさんが迎えに来るから、病院に行こうって」

「そうか。わかった」

 おばあちゃんはだいじょうぶなのか怖くて聞けなかった。心臓をバクバクさせながらも、やきもきしたまま、わたしは、お父さんと台風の備えをやり続けた。人間がどんな状況でも、台風はかまわずやってくる。

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