第5話
翌日のお昼。
秋穂さんが二人を迎えに来た。
ついでに川遊びの時の写真も持って来てくれて、わたしたちは、テーブルに写真を広げて、お茶をしながら盛り上がった。
その中に、水中の美海ちゃんの姿がないのを、わたしは、少し残念に感じていた。
光のうろこの人魚姫。
きっと世界でわたししか見ていなかったとても美しい瞬間。
独り占めにできてうれしい気持ちと、みんなにも知ってほしいという気持ちと半分半分。
揺れ動く。
「そうだ。お母さん。みんなで
美海ちゃんが、そう提案する。
「輝葉ちゃんが、ずっと会いたいって言ってたんだ。ね?」
そう言ってわたしを見た。
「あ、うん。そうだね」
「でも、お母さん、もうしゃべれないし」
遠慮がちに秋穂さんは答えた。
「わたしもいるし、若葉ちゃんだってしゃべれるからだいじょうぶさ。ね?みんなで行こ。ずっと会ってないでしょ?輝葉ちゃん、会いたいって言ってたよ。かわいそうじゃん」
「そう?なら行こうか」
秋穂さんは、一瞬わたしの顔を見るとそう言った。
それで、大地くんもいっしょに、四人で神社に出かけることになった。
途中、田んぼ道から空を見上げると、空一面に、灰色の雲が広がっていた。雨は降っていないけれど、今日は朝からこんな天気だ。
「久しぶりだね。秋ちゃん」
秋穂さんの顔を見て、輝葉姫はうれしそうに笑った。
わたしたちは、大楠の根元の斜面に腰を下ろした。
美海ちゃんがお母さんに、わたしが大地くんに、輝葉姫との言葉の橋渡しをする。五人で、しばらくの間おしゃべりを楽しんだ。
少しすると大地くんは、おしゃべりに飽きて川を泳ぐ魚をながめはじめた。
「美海、ちょっと大地を見ててくれない」
秋穂さんがそう言った。
「いいよ」
「あ!川のそばに寄っちゃだめだからね。落ちると危ないから」
「わかってるよ」
美海ちゃんが、大地くんのところへ歩いていく。
「姉ちゃん。ずっと向こうまで行ってみようよ。冒険しよう!」
大地くんが、川下まで続いている白いコンクリートの道を指さす。
「そうだね。お母さーん、散歩してくるねー!」
「気を付けて!」
二人は行ってしまった。
秋穂さんが、わたしに向き直る。
「若葉ちゃん」
「はい」
「輝葉姫との言葉の橋渡しをお願いできる?」
「え?いいですよ」
「ありがとう」
秋穂さんは、立ち上がると、輝葉姫の姿を探すように目を泳がせた。
輝葉姫がわたしの隣に並ぶ。
「輝葉姫は、ここにいますよ」
わたしも立ち上がり、手ぶりで自分の横を示した。
「ありがとう」
秋穂さんが輝葉姫と向かい合う。
「ずっと会いに来なくてごめんね」
「いいんだよ。元気でいてくれたら」
輝葉姫はそう答えた。
「ええっと。元気でいてくれたらいいんだそうです」
「そう」
「若葉ちゃん」
輝葉姫が、わたしに言葉をかける。
「なに?」
「おばあちゃんのことづての仕事って見たことある?」
「あるよ。一度だけ」
「わたしの言葉は、そのまま伝えてね」
そう言われて、わたしは、梅の木の言葉を白石さんたちへ伝えていたおばあちゃんの様子を思い出した。まるで本当に梅の木がしゃべっているようだった。
「わかった」
わたしはうなずいた。
そして目線を秋穂さんに向ける。
秋穂さんが、小さくうなずいた。
「美海からよく話を聞いてる。いつも仲良くしてくれてありがとう」
「ううん。美海ちゃんとっても元気だよ」
と、わたしは輝葉姫の言葉を、そっくりそのまま口にした。
「そう。川に落ちないように注意してあげてね」
「そうだね。わかった」
「大地も、来年保育園を卒業だよ。時が経つのは早いね」
「そっか。もうそんなになるんだね。大地くんがまだ赤ちゃんだった頃、ここへ連れて来てくれたことがあったよね」
「そうだったっけ?」
「うん。あったよ」
「ならきっと、ここへ来るのはそれ以来だね」
「仕事や子育てをがんばってるって、千代さんから聞いていたよ」
わたしがそう言うと、秋穂さんは笑った。
「悩みを聞いてもらっていたのに、忙しくなったら、そのうち来なくなっちゃてたんだね。ごめんね」
「それは、あなたが元気になった証拠じゃない。いいことだよ」
「そう。でも、ずっと心に引っかかってた。あなたの声が聞こえないのをいいことに、ただ胸の内を聞いてもらうだけだった。ずるいね、わたし……。今まで来なくて、本当にごめんね」
「いいんだよ、それで。あなたの言葉、ちゃんと届いてた」
「ありがとう。あの頃、わたしを支えてくれてありがとう」
「当たり前だよ。あなたも、わたしにとって大切な人なんだから」
風が吹いて、楠の葉が音を立てる。
秋穂さんが、その枝を見上げた。
「十年か……」
静かに秋穂さんはそう言った。
「ねえ、秋ちゃん」
一瞬戸惑ったけど、わたしは、輝葉姫の言葉のまま、秋ちゃんと、秋穂さんへ呼びかけた。なんだか口が変な感じがした。
「なに?」
「あのとき、あなたがよく言っていたこと……」
そこまで言って、突然、輝葉姫は言葉を区切った。
横目で見ると、輝葉姫は思いつめたような顔をしていた。迷うように、その瞳が揺れていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げると静かに言った。
「今もまだ、消えてなくなりそうになったりする?死にたくなったりする?」
輝葉姫の問いかけを、わたしは、すぐに言葉にはできなかった。
喉の奥が、きゅうと締めつけられた。
秋穂さんの瞳が、わたしに向く。問うように瞬いた。
「若葉ちゃん……。お願い」
静かに輝葉姫はそう言った。
「い、今もまだ、消えて、なくなりそうになったりする?死にたくなったり、する?」
秋穂さんの表情が、一瞬強張った。でも、すぐに優しくほほ笑むと、首を横に振った。
「今はないよ。悲しくなる時はあるけれどね」
「わたしもだよ」
「あの頃は、心配かけちゃってたね」
「いいの。素直な気持ち、ちゃんと口にしてもらえてうれしかった」
「輝葉姫だって、悲しかったんだもんね。つらかったんだもんね。慣れないよね。千年以上生きてても」
「うん。慣れないよ。どんなに長く生きていても、やっぱり悲しいよ。それに早すぎるよ。美樹ちゃんと、もっとずっと一緒にいたかったよ」
「そうだね。わたしも」
わたしは、秋穂さんの顔も輝葉姫の顔も見れずに黙ってうつむいていた。
これ以上、言葉の橋渡しをするのが怖かった。全身が強張ってガチガチだ。
「若葉ちゃん」
うつむくわたしに秋穂さんが声をかける。
眼だけ動かして秋穂さんを見る。秋穂さんが、わたしを、ふわりと抱きしめた。
「ごめんね。つらいことをさせちゃって」
「いえ。だいじょうぶです」
「でも、ありがとう」
「いえ」
「会いに来てくれて、ありがとう。若葉ちゃん、大きくなったね」
そう言って、秋穂さんが、わたしの頭をなでた。
わたしも抱きつこうかな。思いきり飛びつきたいな。
一瞬、そう思った。けれど、身体が石のように硬くて思うように動かせなかった。身体から強張りが消えない。
秋穂さんに抱きしめられながら、わたしは、今になってやっと、秋穂さんの強さを実感していた。
いつも笑顔な秋穂さんのことを、どこかうらやましいなんて思っていた。
憂うつとは無縁の人だと。シアワセナヒトだと。
大馬鹿だった。わたしは、愚か者だ。
そんなわけはないじゃないか。お姉ちゃんが死んだのだ。
消えてなくなりそうな日が、死にたくさえなる日が、秋穂さんにもあったのだ。あの人が死んで悲しい思いを、輝葉姫に聞いてもらっていたのだ。お父さんが死んだときも、そうだったのかもしれない。美海ちゃんの足に障害が見つかったときも、そうだったのかもしれない。
決して、悲しいことや苦しいことや嫌なことがないから笑えているのでは、ない。何も考えていなくてお気楽なわけでも、ない。
あの笑顔は、秋穂さんの強さなのだ。
「輝葉姫」
別れ際、わたしは、勇気を出して彼女に向き合った。
「どうしたの?」
「わたし、あさって向こうに帰るんだ」
「そう」
「その前に……。帰る前に、ここに、もう一度寄るよ。その時、ことづてを聞くから」
「うん。ありがとう」
「それじゃあ」
「待ってる」
わたしは、うなずくと秋穂さんたちを追って階段を駆け上がった。
おばあちゃんの家に続く細い田んぼ道を四人で帰る。
前を歩く秋穂さんの左右の手は、美海ちゃんと大地くんとつながれていた。
わたしは、後ろから、ただそれを見ていた。泣きたくなった。
お別れの時間が来た。
「明け方から大雨らしいよ。明日からは、雨に気を付けないとね」
おばあちゃんが、灰色の空を見上げて秋穂さんたちに言った。
「おばあちゃんも、明日は畑、お休みしたほうがいいよ」
美海ちゃんが、車の中から首をのばす。
「そうね。わかった」
おばあちゃんが、笑ってうなずき返す。
明日以降、美海ちゃんは、もうここへは来ないらしい。
「若葉ちゃん」
ぼーっとしていると、秋穂さんが、わたしを呼んだ。
「今日は、ありがとう」
「いえ」
「若葉ちゃんが帰る日は、わたしたちも、空港まで見送りに来るからね」
「ありがとうございます」
三人を見送った後、いつものように、わたしは、おばあちゃんと夕ご飯を作った。
そして夕食前に、いつものようにお風呂に入る。
このいつもも、もうすぐ終わる。わたしは帰るんだ。
都会の自分の家に帰って、今までのように学校にも通いはじめたら、すべてが元通りになる。
お風呂の中で、わたしは、思い切って湯船に潜った。
浴槽に背中をつけて丸くなる。
ゆっくりと鼻から息をはく。
お湯に包まれた暗闇世界で、ぽこぽこと泡の音だけが耳の奥に聞こえてきた。
帰ったら。
自分の家に帰ったら、本当にすべて元通りになるのだろうか?ここであったこと、出会った人たち、輝葉姫たち、すべて忘れてあの場所に戻れば、すべてが元に戻るんだろうか?
そもそも、わたしは、あの頃に、戻りたいのかな……?
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