第2話


 次の日の朝、玄関のガラス戸を押し開けたのは大地くんだった。お姉ちゃんだけがおばあちゃんに行くのはずるいと、朝から駄々をこねたようだ。

 仕方なく、保育園を休ませて連れてきたらしい。

 そう説明した秋穂さんは、まだ朝だというのに、なんだか、げっそりしていて申し訳なさそうだった。

 そんな秋穂さんには悪いが、大地くんの登場は、わたしにとってはうれしいことだった。なぜって、美海ちゃんと二人きりの気まずさが薄れるから。   

 サンダルを脱ぎ捨てると、大地くんは、自分のバッグを持って居間へ駆けて行った。秋穂さんがそのサンダルを整える。

 大地くんは、最初は持ってきていた塗り絵をやっていたけど、それにも飽きると庭に出ていった。

 畑仕事をしているおばあちゃんと話をしたり、土をほじくったりして遊んでいるようだ。

 今も、セミをつかまえて興奮した声が聞こえる。彼は、外でアクティブに動きまわる方が好きなようだ。

 わたしと美海ちゃんは、黙って勉強をしていた。

 ペンの音とプリントをめくる音とセミの声だけが部屋に満ちる。

 うぅ、気まずい……。

 わたしは、もうそれだけで、心の体力が削られるのを感じた。


 昼ごはんの後、美海ちゃんが、一人で、壁に手をついて廊下に出て行った。少しして大きな音が聞こえてきた。

 何かが倒れたような音。

 わたしたちは、はっと顔を上げた。

 わたしが廊下に出ると、トイレのドアが開いていて、美海ちゃんの身体が、廊下に横たわっていた。

 転んだようだ。

 見るとひじをすりむいている。皮がめくれて白っぽくなっていた。痛そうだった。

 トイレをのぞくのはためらわれたけれど、わたしは遠慮がちに近寄った。

「だいじょうぶ?」

 声をかけると、美海ちゃんは、ゆっくりと起き上がった。どうやらトイレから出ようとして、ドアに顔を打ちつけたらしい。

 わたしって、ちょっと嫌な人間かも。

 これを利用して仲直りできるかもと思った。

 わたしは、美海ちゃんを助けようと、彼女の腕をつかんだ。

 だけど、その手を、美海ちゃんは強く払った。

 わたしの指先に、バチリと痛みが走った。でも手よりも、胸に鋭い痛みが走った。

 その痛みで、とうとう、わたしの心に怒りが弾けた。

「痛いな!なんで叩くわけ!?」

 思わず美海ちゃんをにらむ。

 すると美海ちゃんも、わたしを見上げるようにしてにらみ返した。

 その目は、少し赤くなっていた。

「いいって、もう!わたしにとってはいつものことだから大げさに騒がないでよ!」

「どこがいつものことなわけ!?実際ケガしてるじゃん!」

 小学四年生に、本気で言葉をぶつけた。

 騒ぎを聞き、おばあちゃんも様子を見に来た。大地くんも、廊下から、心配そうに首をのばしている。

「ほらほら、ケンカはダメよ」

 おばあちゃんは、少し驚いた様子だった。

「あら。ケガしてる。大変」

 美海ちゃんのケガに気づいて、彼女を抱き起こそうとする。

 美海ちゃんは、それも振りほどいた。膝立ちのまま、よろよろと行ってしまう。

 おばあちゃんは、驚いて口を開けたまま固まってしまった。

 ここまでくると、あきれる。

 わたしは、美海ちゃんの背中を見ながら鼻で息をついた。

 どうしてこんなに頑固なんだろう?手を貸そうとしただけなのに。助けようとしただけなのに。

 おばあちゃんが、棚の引き出しから救急セットを取り出した。小ムカデに噛まれたときにもお世話になったあの救急セットだ。

 美海ちゃんをソファに座らせると、消毒薬を含ませた綿棒で傷口を消毒した。

 傷にしみるのだろう。美海ちゃんは、口を強く結んで、痛みに耐えているようだった。

「手がすべったね?」

 バンドエイドを貼りながら、おばあちゃんが、優しく美海ちゃんにほほえむ。

「自分でできそうにないときは、声をかけてね。ばあちゃんも、若葉ちゃんもいるんだし」

 おばあちゃんの言葉に、わたしも口をすべりこませる。

「困った人を助けるのは、当たり前のことなんだからさ。遠慮しなくていいと思うよ」

 仲直りしようという気持ちを込めて、すごく優しい口調でしゃべった。

「困ってないし、遠慮してない」

 美海ちゃんは、ぶっきらぼうに返した。

「でも、さっきみたいに危ないこともあるじゃない?できないことは助けてもらえば?恥ずかしいことじゃないと思うけどな」

「そういうの、嫌だ」

 ため息混じりのその声は、とても冷たかった。

 美海ちゃんが、顔を上げ、わたしの目をまっすぐに、とらえる。

「若葉ちゃんって不登校なんでしょ?学校に行けなくて、かわいそうだね」

 それは、予想もしていなかった言葉で、わたしは心臓が止まりかけた。

「それに、小さいときにお母さんも死んだんでしょ?お母さんがいなくて、かわいそうな人だね」

 かわいそう……?

 わたしは一瞬、言葉の意味がわからなかった。

 息が、のどの奥で詰まる。

「美海ちゃん!」

と、おばあちゃんが、小さい悲鳴のような声を出した。

 でも、美海ちゃんは、おばあちゃんの声を無視して言葉を続ける。

「こんなふうに言われたらどう?嫌でしょ?そんなこと言われたくないでしょ!?それといっしょさ!」

「どう言うこと?わたし、かわいそうなんて一言も言ってないけど!?」

 わたしも、ムッとして言葉をかぶせるように言い返す。

「でも思ってたでしょ?」

「は!?思ってない!勝手に決めつけないで!」

「やめなさい、二人とも!」

 わたしたちを叱りつけるように、おばあちゃんは言った。

 それで、二人とも黙った。

 おばあちゃんが美海ちゃんに顔を向ける。

「美海ちゃん。どんなにひどいことを言ったかわかってる?謝りなさい」

 おばあちゃんの横顔は、今まで見たこともないほど強張こわばっていた。

「謝りなさい!」

 黙ったままの美海ちゃんに、もう一度、謝れと強いる。

 美海ちゃんは、口をきゅっと結んだまま、わたしに頭を下げた。ほとんど聞こえない声で、ごめんなさいと言った。

 わたしは、なんだか心が締めつけられた。


 この事件が落ち着くと、おばあちゃんは、また畑に出ていった。

 美海ちゃんは、むすっとしたままソファに座っている。大地くんも、少し離れたところで、ぽけっとテレビを見ている。

 わたしは、この空気に耐えられず、また二階の部屋に逃げ込んだ。

 ベッドに倒れこんで天井を仰ぐ。

「なんなんだよ、もう!」

 不登校のことを真正面からきっぱりと言われたのははじめてだった。

 心に立った大波が、まだ静まらない。

『お母さんが死んじゃって、かわいそうな人だね』

 その言葉が、心の中を、ボールのように跳ね回っている。

 しかも、卓球の球くらいの小さくて軽いやつじゃない。バスケットボールだ。あの重くて硬いボールが、跳ねまわる。跳ねるたびに、心にずんと響くのだ。

 でも冷静に頭で考えてみると、わたしは、自分自身を、特に不幸ともかわいそうとも思ってはいない。

 わたしのような父子家庭は珍しいけど、母子家庭の子はそんなに珍しくもない。だから、自分が特別だとも、ましてかわいそうとも思っていなかった。

 つまり、美海ちゃんも、自分のことをかわいそうとも不幸とも思っていないってことなんだよね?て言うか、わたし、そんなこと一言も言ってないんだけどさ……。

 でも、美海ちゃんのような障害を持つ人のことをかわいそうと感じることは、いけないことなのかな?悪いことなのかな?

 テレビなんかで 身体が不自由な子ががんばったりするのを見て、偉いなと思うしすごいなと思ってきた。そういう感じで放送してるし。それに、学校でも、そういう人を見ると助けましょうと教えられた。

 それなのに、美海ちゃんは、助けようとすることさえ拒絶した。助けようとすることさえダメなのだろうか?よくわからない。

 ケンカ、しちゃったなぁ……。

 心が晴れない。かわいそうと言われたことが原因ではない。

 美海ちゃんのことが、理解できなかった。

 胃のあたりに、様々な感情が渦を巻いて溜まっていく。それは、とてもドロドロとしたものだった。言葉一つにはしぼれない。カオスだ。

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