第3話


 長かった梅雨が明けた。

 夏空の下、緑一面の道を、わたしは、赤い自転車をこいで進んでいた。

 金曜日の夕方、見知らぬワゴン車が玄関前に停まり、中から、知らない男の人が下りてきた。

 たじろぐわたしを前に、そのおじさんは、車からこの自転車を下ろした。

「お義母さん。ごぶさたしてます」

 その人は、おばあちゃんを見ると軽く頭を下げた。

 秋穂さんの夫の大町おおまち圭介けいすけという人だった。

 自動車整備士として働いているらしい。青い整備服の胸ポケットに、会社名が刺繍ししゅうしてあった。

「ちょっと古いけど、まだ十分に使えるから」

 おじさんは、わたしを見てそう言った。

 秋穂さんが、わたしのために、知り合いから譲ってもらったらしい。

 前カゴと荷台のあるいわゆるママチャリ自転車だ。ガタピシャ自転車だけれど、それでも十分だった。

 今日は日曜。この自転車に乗って初めての遠出をした。美容院に髪を切りに行ったのだ。

 久しぶりに髪を切って気分もアガる。

 軽くなったわたしの髪の毛。透明な風のくしで後ろに流れていく。気持ちいい。

 ペダルも行きより軽い気がした。

 勢いよく家の敷地に乗り入れる。

 玄関前に、見覚えのある白い車が停まっていた。

 秋穂さんは、ダイニングキッチンでおばあちゃんとくつろいでいた。

「おっ、久しぶり。ママチャリ号の乗り心地はどうだった?」

 秋穂さんは、わたしがいつも座っている椅子の隣に腰かけて笑顔を向けた。

 わたしは、風に乱れた髪をなでつけながらうなずいた。

「乗り心地、いいです。自転車、ありがとうございました」

 テーブルには、ケーキ皿とグラスが乗っている。空いている二つの席にも、空になった小皿と小さいフォークが置いてあった。

「暑かったでしょ?なにか飲む?麦茶とアイスティーがあるけど」

 おばあちゃんが聞いてくる。

「麦茶にしようかな」

と、おばあちゃんに言うと、わたしは、空いている席を見て、

「もしかして、大地くんと、美海ちゃんも来てるんですか?」

と、秋穂さんに聞いた。

「うん。外で遊んでるよ」

 秋穂さんはそう言ったが、でも、庭に二人の姿は見えなかった。

 いよいよ美海ちゃんとご対面か。

 心の中で、わたしはそう思った。

 大地くんとはここへ来た日に会ったが、美海ちゃんとは、まだ会ったことがなかった。

 ケーキの箱を、秋穂さんがわたしの前に置く。

「チョコレートとモンブランが残ってるけど、どっちがいい?」

「ええっと、チョコレートで」

「そう?モンブランも嫌いじゃないでしょ?夜にでも食べてね」

「圭介さんに持って帰ってあげたら?」

 わたしのグラスに麦茶を注ぎながら、おばあちゃんが言った。

「あの人は、あんまり甘いの好きじゃないから、持って帰っても、きっと食べないよ」

 困ったように秋穂さんは笑った。そして、思い出したように声を上げ、隣に座るわたしを見た。

「おばあちゃんとも、いま話してたんだけどね。昨日から夏休みが始まったじゃない?」

 わたしは、いかにも「その通りですね」とうなずいた。でも夏休みがいつからなのか、正確には知らなかった。

 秋穂さんは、気にすることなく話を続ける。

「それでさ。夏休みの間、いつも美海をここで預かってもらってるの。来週から、少しうるさくなるかもしれないけど、よろしくね」

「そうなんですか。わかりました」

と、わたしはうなずいた。

 どっちかって言うとお邪魔してるのは自分だしな。

 そう思いながら。

 秋穂さんは、薬局で働いているそうだ。病院の処方箋しょほうせんを出す調剤薬局に勤める薬剤師らしい。夫婦とも外で働いているため、美海ちゃんは、普段は、放課後児童クラブで預かってもらっているらしい。わたしも小学生まではそうだった。

 おばあちゃんが口を挟む。

「だけど、いつも大変ね。朝は道が混むでしょ?遠回りにもなるし、一時間くらい余計にかかるんじゃない?」

「児童クラブも定員があるからさ。夏休みは、利用者が増えるんだよ。近くに使える親がいる人は、そっちを利用させてもらわないとね」

 秋穂さんはにっと笑った。

「使える親だなんて、あんた!」

とおばあちゃんも笑う。

「じいちゃんばあちゃんを頼れない人もいるからさ。お互い譲り合わないとね」

「そうね。いい いい」

 二人の顔を、わたしは黙って見ていた。

 いつか……。いつか自分も、この二人と同じくらいの年になったときに、あの人とこんな会話ができたのかな。

 考えたところで意味のないことだし、たとえあの人が生きていても、こんなふうにおしゃべりしている姿は、全くイメージできない。

 壁掛け時計を見上げて、秋穂さんが眉を寄せる。

「それにしても、あの子たち遅いな」

 おばあちゃんが、わたしに声をかける。

「若葉ちゃん、ごめんけど、二人を呼びに行ってくれない?」

「え?いいよ。どこに行ってるの?」

「神社。輝葉の姫さんところ」

 一瞬、息が詰まった。あまりあそこには行きたくなかった。なぜだかは、自分でもわからないけど、多分、あの怖い夢のせいだろうと思う。

 秋穂さんも、眉根を寄せてわたしを見る。

「ごめんね。四時には戻れって言ってたんだけど。多分ゲームに熱中して忘れてるんだよ」

 秋穂さんは、腰に手を当てため息をついた。


 足取り重く、わたしは神社へ向かった。

 境内から河川敷へ下りていく。

 大地くんと女の子の声が耳に届く。

「ちゃんとアイテム持たせて送ってよ?」

と、女の子が、念を押すように言っている。

「わかってるさ。姉ちゃんも、すばやさ35以上のやつを送ってよね?」

と、大地くんの声もする。

「すばやさ、そんな大事?」

 女の子が、くすりと笑った。

「知らないの?レベル上がったらメッチャちがってくるよ?」

 なるほど。ゲームに夢中になっているようだ。

 わたしも、くすりと笑った。

 二人は、木陰に並んで座っていた。

 かわいい従姉弟いとこたちのやり取りを、わたしは、ほほえましくながめた。

 しかし、二人のそばに、もう一人、別の人がいて足を止めた。

 その人は、ぱちりとした目元を、楽しげに細めていた。

 その人の横顔を見た瞬間、わたしは、その人以外の何もかもが見えなくなった。

 なぜなら一瞬、ほんの一瞬、わたしは、その人をあの人と思ってしまったから。

 息が、止まる。世界から、その人以外のすべてが、消えた。

 わたしに気がついて、その人も、こちらに顔を向ける。

 揺らぐ二人の視線が、ゆっくりと結ばれる。

 胸の芯が熱くなる。それは感動、というより不安や恐怖に近くて、逃げ出したい気分になった。

 多分この人は、人ではない。

 そう直感した。

 わたしを見ていた彼女は、我に返ったように明るく笑った。

「もしかしてあなた」

と言って、こちらに駆け寄ってきた。

「やっぱり!わたしのこと、見えているのね!?」

 わたしは、びっくりして素早くうなずいた。

 黒くて長い髪の人。

 わたしを見つめる黒目の縁は、緑を帯びている。

 白と薄い緑の衣を羽織っていて、その服装は、どこか遠い時代から来た人のようだった。帯状の羽衣が、風にたなびいている。

「見えるようになったんだ。聞こえるようになったんだね!」

 この人はテンションが高めで、わたしは、その圧に少し押されぎみだ。

 写真の母・美樹よりも若く見えた。

 だけど、あの人は、こんなにテンションが高かったのだろうか?勝手に物静かなタイプだと思っていたけど。

 と言うより、この人の顔は、近くでよく見ると、あまりあの人とは似ていない。なんで見まちがえたのか自分でも不思議だった。

「わたしは楠の輝葉姫。よろしくね」

三日月みかづき若葉わかばです」

 わたしたちは、あらためて自己紹介をしあった。

「あ!若葉姉ちゃんだ!どうしたの?」

 大地くんが、立ち上がってこっちを見ていた。不思議そうにしている。

 その後ろから、女の子も、座ったまま首をのばしていた。繊細せんさいで柔らかそうな髪が、ふわりと肩に乗っている。

「美海ちゃんだよね?はじめまして。若葉です」

 わたしがそう言うと、女の子も立ち上がった。

「美海」

と、その子は、大地くんに身体半分隠したまま緊張しているように返した。

 一瞬、ちらっとこちらを見て、すぐに目を伏せた。人見知りなのかもしれない。

「若葉姉ちゃん、木と話せたの?」

 大地くんが、わたしを見上げて聞く。

「いや、それが実は今はじめて」

「そうなんだ。じゃあ姉ちゃんと一緒。姉ちゃんもこの木が最初だから」

 大地くんが、美海ちゃんに笑顔を向けた。

 美海ちゃんは、小さくうなずくと、お尻をパタパタとはたく。

 輝葉姫は、わたしたちに向かって、にっこりとほほえんだ。

「うれしいよ。これからは、若葉ちゃんとも、おしゃべりできるね」

「ずるい!姉ちゃんたちばっかり!」

 大地くんは、ちょっとばかりすねたみたいだ。

「大地くんも、仲間外れになんかしないよ。四人でお話ししよう」

と言った輝葉姫の声は、大地くんには聞こえていない。

 わたしは、小さく横に首を振った。

「いや、それが。二人とも帰る時間だから呼びに来たんです。秋穂さんがもう帰るからって」

 美海ちゃんが、ゲーム機の時刻表示を見て、げっと声を出した。

「やばい、四時すぎてる。忘れてた!」

 そう言うと、大地くんの前に歩み出た。

 彼女の全身があらわになる。

 その姿を目にした瞬間に、わたしは、それまでの表情を見失った。

 目が、美海ちゃんの足に釘づけになった。

 彼女に気づかれないように、わたしは、慌てて、今までと同じ表情を顔に貼りつける。

 目の前に立つ美海ちゃんの、その右足。スカートの下からのびていたのは、金属の棒だった。

 義足というものだ。病気や事故で足がない人が身につけるもの。

「大地、早く帰ろ。輝葉ちゃんも、またね」

 美海ちゃんは、輝葉姫に手を振ると、弟の手を握った。

「うん、バイバイ」

 輝葉姫も手を降り返す。美海ちゃんと大地くんが、わたしの前を横切る。

「あ。それじゃあ、わたしも行きます」

 ぎこちなく、わたしも輝葉姫にそう言った。

「うん、またね」

と輝葉姫はうなずいた。

 わたしは、急いで二人の後を追った。

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