第四章 雨後に輝く露のせ双葉
第1話
「お寺にある梅の木が元気がなくて……。見に来ていただけないでしょうか?」
午前中、そういう電話がかかってきた。
ことづての仕事の依頼だった。
空色の車が、住宅街をゆっくり走る。
家々の間に埋もれるように、そのお寺はあった。
お寺の駐車場に入ると、頭をきれいに剃った男の人がわたしたちを待っていた。
「わざわざ、すいません。住職の
おばあちゃんに仕事の依頼をしたお坊さんだ。
おばあちゃんもうなずき返す。
「久しぶりね、白石さん。梅の木のじいちゃんの元気がないって?」
「はい。春先に、ほとんど花が咲かなくて。葉っぱも、元気がないみたいなんですよね」
案内するように前を歩き、白石住職は答えた。
「あの梅の木は、十年くらい前に、台風で幹が折れてしまったでしょ?そのときも様子を見に来たもんね。あのときは、なんとか元気を取り戻してくれたけど」
と、おばあちゃんは、昔を思い出すように言った。
「ええ。父が住職をしていたころですよね?聞いています。それで今回もお願いしたくて」
「お父さんは、今年三回忌だっけ?」
「ええ、今度法要があります」
本堂の横を通り抜け、わたしたちは裏手にまわった。
竹やぶに囲まれた広い庭園になっていて、古い古いお墓がたくさん並んでいる。わたしの背よりも高い石灯籠が連なり、石畳の細道がのびていた。
ここに、樹齢400年の梅の古木があるらしい。
細道を右に曲がると、誰かがわたしたちを待っていた。
千代おばあちゃんよりも年を重ねた車いすのおばあさんと、その車椅子に寄り添う女の人だった。白石住職のお母さんと奥さんらしい。
その二人の前に、梅の古木があった。
わたしは、さぞかし大きくて立派な木なのだろうと想像していた。
けれど樹齢400年にしては頼りなげで、わたしの想像よりとても小さかった。さっき台風で折れたと言っていたから、本当は、もう少し立派で、堂々としていたのかもしれない。
車椅子のおばあさんが、わたしたちを見上げる。祈るように手を合わせている。
「どうかよろしくお願いします。死んだじいちゃんが大切にしとった梅ですから」
このおばあさんが梅の精みたいだな。
なんとなく、わたしはそんなことを思った。
千代おばあちゃんは、うなずくと梅に声をかけた。
「じいちゃん、久しぶり!千代ばあですよ。元気にしてますか?」
すると鳥だけが、返事をするように鳴いた。
おばあちゃんは、近くの石段に腰かけた。少しの間、話を聞くように、木に耳を傾ける。
やがて小声で、ぽつりぽつりと、言葉を交わしはじめた。
ちょっとしてから、おばあちゃんがこちらを見た。その表情は、なんだか険しかった。わたしたちに向かって静かに告げる。
「もう十分に生きたし、もういいって言ってらっしゃいますねぇ。もう十分よって……。元気をなくされてます。梅のじいちゃん」
思いがけない言葉に、わたしは凍りついた。もう十分という意味を考えると恐ろしかった。
白石さんたちが、嘆くように息を漏らす。
おばあさんは、つぶらな瞳で梅を見つめた。悲しげな瞳だった。
「よかったら直接話されますか?」
千代おばあちゃんの言葉に、おばあさんの潤んだ瞳が揺らめく。
「あたしが、おじいちゃんの言葉を、そのまま伝えますから。直接話してください。木には、人の言葉は伝わりますから」
そう言われ、おばあさんは、深く一回うなずいた。
梅の木を見て、千代おばあちゃんは小さな声をもらした。
「あら、姿を見せてくださったですね。亡くなった住職さんでしょう。なつかしいねぇ」
そう言うと、車椅子のおばあさんに向かって、にっこりと笑った。
どうやら梅の木の精が、おじいさんの姿をして現れたようだ。
千代おばあちゃんは、隣に誰かいるような感じで横を見ている。
あの石に座ってるのかな?
わたしは、千代おばあちゃんの隣を見てそう感じた。
「梅の木が父の姿で?そんなこともあるんですね」
白石住職がひそやかに聞く。
「木が人の姿で現れることはめったにないです。でも大事な人に特別に思いを伝えたいときとかに、誰かの姿を借りることもあるんですよ」
それを聞き、妻の白石さんも小さく言葉をもらす。
「お義父さんは、この梅も庭園の草木も、最期まで大切にお世話されてましたから」
「じいちゃん。もうきついね?まだ元気ではいられないね?」
梅の木を見つめて、おばあさんは小さな声でたずねた。
「も~
千代おばあちゃんの口から出た言葉は、おばあちゃん本人の言葉ではなかった。口調も、いつもとはまるでちがっている。
わたしはドキリとした。
「ばあちゃんもさ、長く生きていりゃ。どこか痛むところがあるの?」
と、おばあさんは会話を続ける。
「も~俺ゃ十分に生きたし。も~思い残すこともないし、も~いいよ」
「そんなこと言わんで、元気になってくれないね。むか~し若かったころ、一緒にこの梅を見たじゃないね」
おばあさんは、いつの間にか死んだおじいさんと話しているみたいだ。
「知ってるさ。よ~世話をしてくれていたもんねぇ」
「そうよ。さみしいこと言わないで、ばあちゃんの生きとる間、もうちょっとがんばってくれないね」
おばあさんがそう言うと、千代おばあちゃんは、深く考えるように黙って、口をもぐもぐさせていた。
「え~くそねぇ!じゃあ、もうちょっと踏ん張ってみようかね~」
ここまで言うと、千代おばあちゃんが、我に返ったように顔を上げる。
「そしたら、何かしてほしいことはあるね?」
と梅の木にたずねた。
その後も詳しく話を聞くと、白石さんたちに言葉を伝える。
「ここの枝とあっちもね。この二本に支えをすりゃあ、ずいぶん楽になるらしいですよ。それとあそこの枝に、丸いのが、いっぱいくっついてるでしょ?あれカイガラムシて言って、梅の天敵だから。庭師さんか樹木医さんを呼んで、手入れをしてあげてください」
「わかりました!すぐに相談してみます」
住職は、うれしそうにうなずいた。
おばあさんは、最後に、千代おばあちゃんと、そしてわたしにも深く頭を下げた。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました」
自分は何もしていないから、わたしは、どう返せばよいかわからなかった。どういたしましてと返すのもちがう気がした。だから、ごまかすように笑った。そんな自分が嫌になる。
わたしたちは、おばあさんの車いすの歩調に合わせてゆっくりと引き返した。
古い墓地を抜ける手前で、わたしは、誰かに見られている気がして、後ろを振り返った。すると梅の木のそばに、人の姿がおぼろに見えた気がした。
お坊さん姿のおじいさん。
思わず足を止める。目をこすってもう一度、確かめるように見たが、もう人の姿は見えなかった。
「どうしたの?行くよ」
と、おばあちゃんが呼ぶ。
気のせいだったのかな?
わたしは、おばあちゃんの後を追いかけた。
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