第三章 風の大地に落ちて

第1話


 千代ちよおばあちゃんの家に来て一週間が経った。

 部屋着のまま一階に降りると、和室から、ふんわりと線香の香りが漂ってきた。

 わたしは、鼻の奥を閉じて通りすぎた。

 台所のテーブルに、小人用のテントみたいなのが乗っかっている。

 半透明なレース生地のテント。

 テントの中には朝食が入っていた。

 はじめは、これが何なのかわからなかった。ハエよけの食卓カバーというものらしい。おばあちゃんは「蝿帳はいちょう」って呼んでいた。

 ずいぶん年季が入っていて、あちこち茶色いシミができてたりほつれたりしている。

 汚れが入りそう。余計に汚いんじゃないかな……。

 なんて、内心では思ってる。

 今日の朝食は、目玉焼きにピーマンと輪切りソーセージの炒め物だ。

 トースターに食パンをセットし、冷蔵庫から、ココナッツバターとハチミツレモンのジュースを取り出す。

 おばあちゃんは、わたしと同じく甘いものが好きらしい。

 廊下のベランダ窓から外を見ると、庭木や植木鉢が、水に濡れて光っていた。

 ここ数日、わたしは彼女を観察している。

 おばあちゃんは、まず朝が早い。

 早朝から庭の木や花の世話と畑仕事。お昼ご飯の後に、少し昼寝をしてまた畑仕事。それで、夕方にテレビで相撲を見ながらちょっとくつろぐ。そのあとに夕食を作る。そんなパターンが多かった。

 どうやら、おばあちゃんは相撲が好きなようだ。居間の天井近くの壁にも、お相撲さんのポスターが飾ってあって、サインまでしてある。その横には、大きな手形が押されたサイン色紙も飾ってあった。

 片肘ついてスマホをながめていたら、トースターからパンがはねた。スマホをいじりながら、ゆっくりとパンをかじる。

 こんなだらけたわたしはって言うと、食事のとき以外は二階にこもりきりだった。参考書にも、ほとんど手をつけていない。スマホをいじって疲れたらベッドに横になるような時間の使い方をしていた。

 これじゃあ、家にいたのと変わらないな。

 そう思う。

 けど、何かを変えるためにここに来たわけじゃないもんな……。

 そうも思う。

 もうじき世間では夏休みがはじまる。ほかの人もみんなお休み。自分と同じ。そう思うと、少しだけ(いや嘘。ほんとはとても)気持ちが楽になる。


 夕方、わたしは、おばあちゃんから台所へ呼ばれた。

「ちょっとここに座って」

 あらたまった声だ。

「ここ何日か様子を見てたけど、若葉ちゃん、あんまり勉強に身が入ってないみたい。いつもお昼近くに起きてるし、毎日夜更かしもしてるでしょ?生活を乱すのはよくないよ」

 そう言われて、わたしはぎくりとした。わたしがこの人を観察していたように、彼女も、こっちのことを見ていたらしい。

「学校に行けないことは、別にいいさ。でも何もしないのはよくないよ。心がごちゃ~ってしてきて、息が詰まるからね。勉強だけじゃつまらんやろうし、家の仕事を教えるから分担しようで」

 その言葉に、わたしの中で、反抗心がむくむくとふくれ上がってきた。でも置いてもらっているわけだし嫌とも言えなかった。

 そんなわけで、わたしはさっそく、玄関と裏口の掃除と落ち葉はきを仰せつかった。

 話が終わると、わたしは無言で立ち上がった。おばあちゃんが、それからと呼び止める。

「ついでにこれも。玄関と裏口にいといて」

 渡されたのはパウダータイプの殺虫剤だった。何も言わないで受け取る。


 ああ、帰りたい。

 何度もため息をつきながら、庭で湿った落ち葉をかき集める。今日は、お昼から小雨が降っていた。今はもうやんでいる。

 背伸びするように身体を起こすと、雨雲の合間から夕日がのぞいていて、二階の窓ガラスが輝いていた。

 あの人も、あの窓から夕日をながめたりしてたのかな?

 なんとなく、そんなことを思った。

 秋穂さんは、あの人も木と会話ができたと言った。でもわたしは、それを知らなかった。秋穂さんが驚いたのも無理はない。いくらわたしが小さいときにあの人が死んだとしても、お父さんが、娘に伝えていないはずはないのだ。そんな不思議で特別なことを。

 お父さんは、このことを知っていたのだろうか?

 お父さんは、自分からあの人のことを話すことをしない。母親が写っている写真もわたしが持っている写真立てだけで、アルバムは、どこかにしまわれている。場所は、知ってる。確かリビングにある大きな本棚の、その一番下の収納棚の左奥だ。

 でも見たことはない。いや、あったっけ?忘れた。

 だけど、ここには、あの人を知る人がたくさんいる。


 掃除の後、信じられないことに、わたしは、晩ごはん作りまで手伝わされた。

「キュウリのを作ろうか。作り方教えるから」

 わたしの顔に?が浮かぶ。

 まずキュウリを、薄く輪切りにして塩もみする。つぎによく水を切って、ゴマと醤油であえる。それを、ごまあえごまじょいと呼ぶらしい。

 キュウリを切っていたとき、わたしの右足の甲に、ムズムズするような変な感触がおこった。

 何気なく、足元に視線を落とす。

 その瞬間に、チクリと強烈な痛みが走った。

 数センチの毛糸くずみたいなのが、足の甲に乗っかっていた。

 で、動いてた。

 後で知ったけど、それはムカデという生き物だった。小さなムカデが、わたしの足に噛みついていたのだ。

 わたしの引きつった悲鳴に、おばあちゃんも、何事かとわたしに顔を向けた。

 わたしは、足の痛みよりもムカデという生物にドン引きして、身体を固めていた。

「ありゃっ!こりゃいかん!」

 おばあちゃんが、あわてた声を上げる。

 それからのおばあちゃんは素早かった。

 はし入れから割り箸を取り出すと、小ムカデをつまんで小窓を開け、小ムカデを外へ放り投げた。

 割り箸をゴミ箱に捨てながら、

「噛まれた!?」

と、おばあちゃんが早口に聞いてきた。

「うん。痛い。ビリビリしてる」

「毒があるからね。こっちに来なさい」

 そう言うと、わたしをお風呂場へ連れていった。

 シャワーから熱めのお湯を出し右足にかける。

「熱い!やけどしちゃうよ!」

「我慢して。お湯で毒が死ぬらしい。ちょっと時間経ってしまったけど、何もしないよりいいと思うよ」

 おばあちゃんは、わたしの足を、石鹸で洗うと、きれいにタオルでふいた。足の甲に、噛まれたあとが、赤い点となっていくつか見えていた。

 おばあちゃんは、電話が乗っている棚の引き出しから救急セットを引っ張り出すと、その中から塗り薬を取り出した。

 相葉くんがCMしてるやつだ。

 おばあちゃんが手にした薬を見て、わたしは、なぜか、そういうどうでもいいことをふと思った。

 塗り薬が、すうっと赤い点を濡らす。足の裏に水滴が転がった。

 応急手当の後、おばあちゃんは、殺虫剤片手に、わたしを台所の裏口へと呼んだ。

 裏口を見て彼女はあきれた。

「やっぱり。ちゃんと撒いてない」

 わたしは、玄関には殺虫剤を撒いたけれど、裏口には、撒くのを忘れてしまっていた。

「ここは、裏口が主な侵入経路だから、しっかりと裏口にも、これを撒いとかないと。これを撒いとけば、ムカデだけじゃなくて、ゴキブリもあんまり入って来ないの。家の中で見たくないでしょ?ゴキブリ」

 ムカデ事件後、夕食作りを再開したのは、二十分くらいしてからだった。

 最初は割と平気だったけれど、少しずつ右足の痛みが増してきた。ジリジリとする熱い痛みだった。

「ところで家の仕事のことだけど」

 今その話するの!?

 おばあちゃんの言葉にわたしは面食らった。

 足の痛みに耐えながらも、話を聞く。

 結局わたしは、掃除と庭の水やりを交代でするのと夕食作りの手伝いをするはめになった。それと、遅くとも朝八時には起きるようにも約束させられた。


 二階の仮住まいに入るなり、わたしは、ベッドに倒れ込んだ。ムカデショックで疲れきった。それに、久しぶりに人から怒られて少しヘコんでいた。

 反省した気分になって机に向かう。

 参考書を開く。

 ペンをカチカチと鳴らす。

 まったく頭が働かない。

 ショックだ。勉強を忘れている。

 先のことを考えると不安でいっぱいだ。

 働き者のおばあちゃんと比べて、何もしていない自分。

 今日も一日をがんばった中学生に対して、何もしていない自分。

 今度は、いつの間にかそんなことを考えはじめる。

 引きこもりの日々に、毎日嫌というほど考えていたことだ。心だけがタイムスリップする。こうなると、焦りとか罪の意識で身も心も憂うつになってしまうんだ。逆に何も手につかなくなるんだ。

 でも今日は、いつもと様子がちがった。それを、無理矢理断ち切るものがあった。 

 それは、今へと心を引き戻す身体の痛みだった。

「痛い」

 右足を見る。

 白い足に、小さな赤い点々がいくつか見えた。

 小ムカデの噛みあと。

 ずっと抱えている不安とか焦りとか……。押しつぶされそうなときもあるというのに、あんなに小さな生き物のその毒のほうが今は勝っている。

 切ないというか悲しいというか。

「小さいムカデでよかったね~。大きいヤツに噛まれたら、それくらいじゃすまないよ。こんなして腫れるから!」

 夕食のときに、おばあちゃんが、ジェスチャーを交えながら話していた。目を大きく見開いて、大げさに、ムカデの大きさを両手で表していた。

 思い出すとなんだか笑えた。でも、その大きなムカデを想像すると全身に鳥肌が立った。布団の中やベッドの下や押し入れも開けて、入念にムカデチェックしてから眠りについた。

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