第二章 田んぼと空とおばあちゃん
第1話
世の中の中学生たちが夏休みに入る少し前に、わたしは、一人で飛行機に乗っていた。
窓の外は灰色の雲。
父の言葉に納得できなかった理由が、今になってわかった。
今後どうするのかを決めることと祖母の家に行かされることに、なんの関係性もないからだ。
『このままじゃいけないから』
などと一見正しいことを言いつつ、本心は、
『仕事が忙しいから』
なのだ。彼が自分でそう言った。
『仕事があるから、かまってやれない』
そうも言っていた。つまり、わたしが邪魔だったんだ。だから、厄介払いされて捨てられたんだ。
お父さん一人だと楽だもんな。
「お父さんは平気なんだね。一人で」
昨日、何気なく聞いてみた。
「うん。お父さんは、独りでなんの問題もない」
すると、お父さんは、あっさりと言い切った。
とてもショックだった。
わたしは、お父さんの家事の負担を減らそうと、掃除や洗濯なども、日ごろから手伝っていたつもりでいた。だから、なんの問題もないなどと言われると、
『あなたのしてきたことは役に立っていませんでしたよ。無駄でしたよ』
と言われたような気分になった。
確かに、お父さんはなんでもできる。父が一人で暮らす分には、なんの不自由もないのだ。
雲が薄くなり、景色が見えてくる。
空を映した大きな川と緑の大地。建物よりも緑色や茶色が多い。正方形の大きなパネルみたいにたくさん並んでいる。
あれは、多分田んぼというやつだろう。田んぼや畑は、社会の資料集やテレビでしか見たことがなかった。
空港に降り立ってわかったのは、空港の中で迷う心配はないってことだった。
都会の巨大空港とくらべると、その空港は、ミニチュアみたいだった。人もほとんどいない。迎えに来ている祖母を見つけられない心配もないだろう。
荷物を受け取り、わたしが一階到着ロビーへ出ると、小さなウェルカムボードを持つ人が何人か立っていた。外国からの観光客待ちの人たちらしい。
その人たちと並ぶように、小柄なおばあさんが立っていた。短いクルクル髪のおばあさんだった。
わたしは、思わず、その人のむき出しのおでこを、食い入るように見てしまった。
視線がぶつかる。
「若葉ちゃん?」
しわに包まれた目がこちらを見てくる。
わたしはうなずいた。首の骨がさび付いたみたいにぎこちなかった。
この人が、わたしの母方の祖母で、名前は
「大きくなったね~。元気にしてた?」
祖母は、わたしの肩にそっと手を置いてうれしそうに笑った。
「あ~、ハイ」
わたしは笑ってうなずいた。笑顔がかたかったように思う。なぜなら、大きくはなったんだろうけど、でも、多分今のわたしは、自分史上一番元気がない状態だろうから。
そう思うと、なんだか切なかった。
二人で外に出る。
目の前には広い駐車場があり、その奥は土手になっていた。
「車を取ってくるから、ちょっとここで待ってて」
祖母は、そう言い残して行ってしまった。
わたしがエントランスの雨よけの下で待っていると、古びた、でもかわいくておしゃれな空色の車がやってきた。
そして、目の前に停まった。
乗っていたのが祖母で、わたしは、その意外さに少し驚いた。
「お待たせ」
と、祖母が窓越しにこちらをのぞいて笑う。
わたしは、後部座席に乗り込むと、荷物を膝に乗せて浅く座った。
空色の小さな車が、土手を越えていく。
土手の向こうに待っていたのは、上半分が空で、下半分が空を映す水田だった。ずーっと奥まで緑の田畑が続いている。地平線にかすかに町並みが見えて、そのさらに奥には、黒い山が連なっていた。目に見える景色が全部そんな感じだ。
窓を開ける。
水気のある風が吹き込んでくる。
鼻の奥に、妙な臭いが広がる。
田に張られた水や土や泥の臭いだ。空気が濃密な感じだ。臭かった。
どこまでも続く田んぼ道を、車はまっすぐに進む。しばらく行くと町並みが近づいてきた。小ぶりなビルや建物の間を走っていく。
「長旅で疲れたでしょ?あ、そうだ。荷物もちゃんと届いてるからね」
信号待ちのときにそう言われた。
わたしは、バックミラーに写る祖母を見て、はいと小さく答えた。
町を抜けると、また、田んぼが多くなった。
遠くにあった山並みが間近に迫ってくる。
「もうすぐ夏ね~」
祖母は、濃い緑の山々とその上に広がる空を見ていた。
わたしもつられて空を見る。
梅雨明けはまだ先だけど、今は、灰色の雨雲は遠くに見えるばかりだった。久しぶりに見た青空は、夏のはじまりの色をしていた。
車は、大きな川に沿って進み、やがて左に曲がって民家を抜けた。
すそ野に田畑が広がっていて、小高い山のそばに、家が、ぽつりぽつりと建っていた。
車は、そんな小山の手前の二階建ての家の前で止まった。
祖母の車の趣味からして、わたしは、古いけれどもオシャレなヨーロッパの田舎の家みたいなのを想像していた。でも、そこにあったのは純日本家屋だった。
わたしは、自分のおろかな妄想を反省した。
古びた石垣。『川上』という石の表札。屋根瓦は、色がはがれて薄い灰色になっている。祖母の頭とよく似ていた。
玄関のガラス戸が引かれると、古い木の香りが漂ってきた。
奥にのびる廊下を見た瞬間、わたしの胸が、大きく動いた。普段は意識しない心臓が、ゆっくり一回どっくん、と。
ある光景を思い出したのだ。
廊下にひしめく黒い服を着た知らない人たち。漂う変な臭い。チーンという音。
母・美樹のお通夜の光景だった。
今は誰もいない。窓からの日差しに照らされた廊下は、白く浮き上がっていた。
祖母に案内されて、その陽だまりの道を進んでいく。
手前が居間で、奥は和室になっていた。障子が開いていて、その和室に仏壇が見えた。
仏壇には、あの人の写真が置いてあった。母親のはずなのに知らない人のように思えた。
隣には、知らない男の人の写真も並んでいる。わたしの祖父にあたる人物だろう。わたしが生まれるずっと前に死んだと聞いていた。
祖母は、その和室も通りすぎた。
和室とつきあたりの部屋(祖母の寝室らしい)の間にある階段から、二階へと上がっていく。
二階は、空気がなんだかもわっとしている。
「ここ、若葉ちゃんのお母さんの部屋。大学生のころまで使ってたんだよ」
二階の一室に入って、祖母がそう言った。
その言葉に、わたしの足が、ドアの前でぴたりと止まった。
立ちつくす。
部屋はすっきりと片付いていた。
あるのはベッドと小さな机だけだ。それと見覚えのある段ボールが一箱。先に送っていた荷物だ。塾の参考書やひと夏分の衣類が入っている。
誰の面影も、その部屋にはない。
それを確かめて、わたしはゆっくりと部屋に入った。
「掃除はすませてるからね。それと、こっちが押し入れね。衣装ケースが入ってるから、自由に使ってね。もしタオルケット一枚で寒かったら、廊下の納戸に掛け布団も入ってるから使ったらいい」
「わかりました」
「疲れたでしょ?お茶を用意してるから、落ち着いたら降りてきなさい」
説明を終えると、祖母は部屋を出て行った。
階段を踏みしめる音が遠のいていく。
祖母の気配が消えると、わたしは、すべり落とすようにして荷物を床に置いた。自然と大きなため息がもれる。やっと吐き出せた緊張が部屋の空気に混じっていく。
誰もいない部屋をぐるりと見渡す。
ベッドの上の窓ガラスを開ける。
新鮮な風が、蒸した空気を連れ去っていく。
さっき通ってきた道が見えた。田んぼが広がり、民家が見え、その奥に大きな木が立っていた。
タオルケットが敷かれたベッド。
手でそっと触れる。
ざらっともしてないし湿っぽくもない。
ちょっと安心して、わたしは深く腰を下ろした。
すると、とたんに忘れていた疲れが、身体に乗っかった。スマホをベッドに放る。足をベッドの外に投げ出したまま、ゴロンと横になってみた。
この家は、想像していたよりきれいだ。少しカビの臭いはするけれど、この部屋も小ざっぱりしてて悪くない。そして何より、恐れていたプライバシー皆無の状態ではないのがうれしい。
天井の木目を目でなぞっていると、一階から、電話の音が聞こえてきた。なのに祖母が、なかなか電話に出ない。不審に思い、一階に降りていく。電話は居間に置いてあった。
「あの……」
居間の奥を見る。ガラス戸があって、奥は台所になっていた。ダイニングキッチンで居間と同じくらいの広さだ。年季の入ったダイニングテーブルがあり、椅子が四脚置いてあった。でも、そこにもおばあちゃんの姿はなかった。
仕方なく、わたしは、受話器に手をかけた。
「はい、三日月です」
と、いつものように自分の名前を言ってしまった。
「えっ?」
驚いた女の人の声がする。
しまった!おばあちゃんとは上の名前がちがうんだ。ええっとなんだっけ!?
もうパニックだ。
「もしかして若葉ちゃん?」
焦りで黙っていると、相手が、そう聞き返してくれた。明るくて優しそうな声だった。
「あ。そうです」
「わたし、
「あ。どうも」
「おばあちゃん、いるかな?」
「それが、その。どこにもいらっしゃらなくて」
「もしかしたら畑じゃないかな。廊下から左奥に畑が見えるんだけど、いない?」
受話器を持ったまま、つま先立ちになって廊下のベランダ窓を見やる。
あ!いたよ。まったく。
「あの、呼んできます」
「うん。お願い」
にしても『どこにもいらっしゃらなくて』って、ヘンな言葉。
廊下の大きなベランダ窓を開ける。
「おばあチゃ~ん!秋穂さんからお電話でぇーす!」
久しぶりの大声。声が裏返っていた。
人の気も知らないで、おばあちゃんは、のんびり手を振り返した。
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