第2話
わたしのお父さんの名前は
その優一は、今とてもイラついているようだ。なぜなら朝になっても、娘が部屋から出てこないから。風邪は治ったはずだから。
「まだ具合が悪いのか?」
ドア越しの声も、普段とは感じがちがう。
「わかんない。でも、ほんとに気分が悪いの」
それは本当だった。はき気と腹痛とめまいもひどくて、天井がぐるぐるまわっている。横になって目をつむっていないとどうしようもない。
出勤前の短い時間。お父さんに、わたしとゆっくりと話す時間などなかった。大きくため息をはき、お父さんは仕事に行った。
わたしは、ベッドの中で丸く小さくなった。心のどこかで、お父さんが学校に休みの連絡をしてくれると確信しながら。
これが、はじまりだった。
スマホに表示された曜日が一巡りしているのを見て、わたしは、自分が完全に不登校になったのだと自覚した。
明日こそは、ちゃんと学校に行こう。
そう思うけれど、本当に本当に、気分が悪くて朝起きられないのだ。そして毎日、ただ時間がすぎるのを家の中で待つだけの生活を送りはじめた。
じゃあ、いつまで待てばいいのか?そもそも何を待っているのか?それが、自分でもわからなかった。それを真剣に考えることは、とても恐ろしいことだった。
「原因はなんだ?」
お父さんにしつこく問われても、わたしは答えなかった。
なぜなら自分でもわからないから。嫌なことがあったわけじゃない。嫌いな先生がいるとか、イジメられているとか。そんなんじゃないのだ。理由があれば、どれだけ楽かと思う。けれど本当にないのだ。
カーテン越しに夕日が差しこむ。
雨の日が続いていたけれど、今日外は久しぶりに晴れていたみたいだ。
情けなくて自分が嫌になる。でも、きっと明日も明後日も同じことを繰り返すだろう。だって、昨日も一昨日もそうやってすごしたんだから。
頭の中では、早く学校に戻って、いろんなものを取り返さないといけないと考えていた。
友だち。クラスメイトや先生との関係。勉強。
そして休んでいた理由も考えないといけない。
軽くて笑える感じのがいい。それを、できるだけ自然な感じで、軽いノリでみんなに伝えるんだ。
頭の中でずっとシミュレーション。繰り返す。
そのためにも、一日でも早く学校に行かないと。そうしないと手遅れになる。だけど、そう思って焦れば焦るほどに、身体は言うことを聞かなくなった。
こうして、わたしは、眠ったように六月をすごした。塾も、やめた。
六月最後の日、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。
お父さんがまだ家にいた。
なんでだろうと思ったけれど、その日は日曜日だった。
「起きてる?部屋、入ってもいい?」
久しぶりのお父さんの声。
わたしが小さくうんと言うと、ゆっくりとドアが開き、お父さんが部屋に入ってくる。
「調子はどう?」
お父さんが顔をのぞきこんでくる。わたしは、顔をそむけて、だいじょぶと言葉を返した。あんまり近くで顔を見られたくなかったから。
お父さんは、少しためらうように目を伏せて口を開いた。
「ちょっと考えたんだけどさ。若葉、しばらくお母さんの家に行ってみないか?」
一瞬、思考が停止する。
あまりに思いもよらないことだったから、なぜ?という言葉以外浮かばなかった。
戸惑いと同時にわたしの心に生まれたのは拒否感だった。
「ヤダよ。お母さんのって、九州のでしょ?」
「うん。お父さん、今は仕事が忙しいけど、もう少ししたら落ち着くから。そしたら学校と相談してみるから……。もし今の学校が嫌なら転校するでもいいし。今は、フリースクールっていうのもあるそうだし。そういうこと、ゆっくり考えてごらん」
お父さんは、わたしの「ヤダよ」という言葉を完全に無視してそう答えた。
転校。フリースクール。死んだあの人の家。
目の前が真っ暗になる。
どうにか崖の手前で踏みとどまっていたのに、突き飛ばされて転げ落ちる気分だった。
「なんで?九州なんてめっちゃ遠いじゃん。わたし、憶えてさえいないよ」
母・美樹の生まれ故郷。
つまり、わたしとは、一切関係ない場所。
「実はもう、おばあちゃんとも話したんだ。若葉を預かっていいって言ってくれてる。千代おばあちゃん、憶えてるか?」
わたしは、すばやく首を横に振った。おばあちゃんなんて、他人だ。
わたしにとっての親せきは、
「幸子おばさんとこは、ダメなの?」
そう聞いてみた。
まったく知らない場所より、おばさんのところの方がよっぼどマシだ。
「おばさんとこはダメだよ。お仕事とかいろいろ、忙しいからさ」
「……家にいちゃダメなわけ?」
かすかな願いで、わたしがそう言うと、
「このままここにいても、ダメになるだけよ」
と力なく、お父さんは返した。
ダメってなんだよ!わたしのことなのに何も相談しないで勝手に決めてさ!
そう思ったが、文句を言う気力もなかった。なんか、どうでもよくなった。
「若葉。どうするにしても、今のままじゃいけないってのは、わかるよな?」
優しげな父の言葉をわたしは無視した。彼は、かまわずしゃべり続ける。
「まだ少し先だけど、じきに夏休みだろ?お父さんも仕事があってかまってやれないし、夏の間、一人で閉じこもってすごすより、おばあちゃんに
その後も父の話は続いた。
祖母のところに行く日程のこと。必要な荷物を段ボールに入れて先に送ること。
要するに、この人の中では、すでに、何もかもが決まっていたのだ。
わたしは、それを、スマホをながめているような感覚で聞いていた。自分とは直接関係のないできごと。もう何もかもが、どうでもよくなった。
「離れた場所で、ゆっくり休むといい」
父が、そっとわたしの肩に手を置く。
手の温もりを感じて鳥肌が立った。
わたしが無感情でうなずくと、彼は、ほっとした表情を見せた。
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