第一章 灰色の岩に眠る
第1話
明日、わたしは旅に出る。
と言っても、楽しい旅行なんかじゃない。
今、荷造りをしているんだけど、何度ため息を漏らしたかわからない。
「はぁ」
また出た。
顔を上げると、視線を感じた。
本棚の隅で、ほこりをかぶった写真立てから、誰かがこちらを見ていた。
美樹というのは、わたしの母親の名前。
一緒に写っている小さな子は、わたしだった。
写真の中で、美樹という人はのんきに笑っていた。
顔をそむけて立ち上がる。窓に雨が打ちつけている。
わたしの旅の目的地は、母親の生まれた場所だった。九州にあるおばあちゃんの家だ。夏の間、そこですごさないといけないんだ。
そもそも、なんでわたしがおばあちゃんの家に行かなければならなくなったのかというと、それは少し前にさかのぼる。
わたしは、六月のある日をさかいに学校に行けなくなった。不登校というやつだ。
きっかけは、何気ないことだった。
その日も、今日みたいにどんよりした雨の日だった。
◆◆◆
あ~あ。天気予報じゃあくもりだったのに。
塾帰りのバスの窓際席で、わたしは心の中でため息をついた。
窓を転がっていくたくさんの雨粒。
黒と灰色を混ぜた空。
その空に、たくさんのビルがそびえていた。
わたしは、傘を持っていなかった。
靴下が濡れていく。不快だ。
坂道をくだる。上には高速道路がのびている。雨に濡れた高架下は鉛色の世界。巨大なコンクリート越しに、雨水をかきわける自動車やトラックの音また音が身体に降ってくる。
高速の先は住宅地になっていて、わたしの住むマンションもそこにあった。
エレベーターに乗り、③のボタンを押す。
七階建てのマンションの三階。ここでわたしは、お父さんと二人で暮らしている。
玄関を開けると、暗い室内から嗅ぎ慣れた空気が流れてきて、濡れた身体にまとわりついてきた。それを感じると、わたしはちょっとだけ安心した。
タオルを頭に乗せ、リビングに向かう。
お父さんからは、今日も遅くなると、スマホに連絡が入っていた。春に中学に入学してから、ずっとこんな日が続いている。
スマホ片手に髪をふきながら、そのままリビングのソファに座って、全身をもたれかける。身体が、少しずつ冷たくなってくる。
早く着替えないと風邪ひくかもな。
そう思いながらも、ごろんと横になった。身体が重い。
わたしはゆっくりと目を閉じた。
なんだか疲れた。
立ち上がりたくない。何も考えたくない。このまま眠っていたい。もうこのまま、ずっと。
「ただいま。
どのくらいたったころか、お父さんに名前を呼ばれてわたしは目が覚めた。目がゴロゴロする。のそりと起き上がった。
父の指にレジ袋が引っかかっていて、おにぎりとペットボトルが入っていた。時計を見ると夜の十一時をすぎていた。今日も仕事が遅かったようだ。
わたしを見て、お父さんは驚いている。そしてため息をもらした。
「ずぶ濡れじゃないか。ずっとここで寝てたのか?そんなかっこうで寝て、風邪でもひいたら大変だぞ?」
わたしは、仕方なく風呂場に向かった。シャワーを浴びて、脱衣所で髪を乾かすと、まっすぐ自分の部屋に入った。ベッドに倒れこむ。
すぐに部屋のドアが叩かれた。
「お~い。夕食も食べてないみたいだけど、本当に具合でも悪いのか?それから、制服、濡れてるけどどうするの?」
ドア越しに、ごちゃごちゃ言っている。
全部無視する。頭がズキズキする。のどもチクチクと痛い。
枕に顔をうずめ、わたしはそのまま眠ってしまった。
夢を見た。
あの人の夢だ。小さなころから時々見る、不思議で、とても怖い夢。
どこか知らない場所に、わたしはいる。
目の前には大きな川が流れていて、そばには大きな木が一本立っている。その木陰に、わたしは、あの人と一緒にいる。
あの人は、木の近くにいて、幹に手を置いて木を見上げている。
わたしがそれを見ていると、あの人はこっちを向いて優しく笑うんだ。
それでわたしは安心して、しばらくそのあたりで遊んでる。
遠くを見ていると、一羽の白い大きな鳥が飛んできて木の枝にとまるんだ。その鳥には矢が刺さっていて、血を流して苦しそうにしている。
驚いたわたしは、その鳥を指さし、あの人の方を見るんだ。
そしたら、どこかから飛んできた矢に、あの人も胸を射抜かれて、木の根元に倒れ込む。わたしは、慌ててあの人に駆け寄る。あの人は、わたしを見て何か言うんだけど、なんて言っているのかは聞こえないんだ。
気がつくと、あたり一面が炎で包まれていて、
いつも夢は、そこで終わる。
当然これは、現実に起こったことじゃない。と言っても、わたしは何も憶えてはいないけれど……。
母・美樹は、十年前に死んだそうだ。病気が原因だったらしい。十年前と言うと、わたしが三歳のときだ。だから、わたしにその人の記憶はほとんどない。
矢で射抜かれて死んだのは現実ではないだろうけれど、もしかしたら、夢の一部は本当の記憶なのかもしれない。もしそうなら、この夢は、わたしとあの人とのたった一つの思い出だった。
翌日、お父さんの予言通りわたしは熱を出した。
体温計が鳴る。
スーツ姿のお父さんが目の前にいて、急にわたしの指から体温計を奪った。
反射的にイラッとする。脇にずっと挟んでいたのだ。父親に触られたくはない。
お父さんが、無表情でデジタル表示を見る。
37.8℃。ため息。
「学校には連絡しておくから、今日は休むといい。ただ、もう中学生なんだから、少しはしっかりしてもらわないと困るよ」
困った表情でお父さんはそう言った。
もう中学生なんだから、というセリフ。春から何度聞かされただろうか。三年間で、あと何百回聞かないといけないんだろう?
それを考えると少し憂うつだったけど、わたしの心は安堵感に満ちていた。だって学校を休めるから。
お父さんが仕事に出かけると、家が静まり返った。一人きり。とても落ち着いた。
外では、今日も雨が降っているようだ。雨音が、耳の奥に心地よく響いてくる。
心が休まる。こんなに気分がいいのは久しぶりだった。
リビングに出ると、キッチンにお粥が用意されていた。それを見て、昨日から何も食べていないのを思い出した。
レンジで温める。お粥だけじゃ物足りなくて、ココアを飲むことにした。ココアの袋を開けると、鼻の奥に、いい香りが広がった。なんだかほっこりする。レンジでチンした牛乳をマグカップに注ぎ、ココアを入れてよく混ぜて一口含む。
「まずっ……」
と言うかビミョーな味だ。
実を言うと、ココアの香りは好きだけれど、味はそれほど好きじゃないんだ。
お父さんも、ココアがそんなに好きとは思えない。実際に、主に飲んでいるのはわたしだし。
なのにココアは年じゅう家にある。きっとお父さんは、娘がビミョーと思いながらココアを飲んでいるとは夢にも思っていないのだろう。
テレビをつけ、スマホをいじりながらお粥を食べる。天気予報によると、関東地方が梅雨入りしたらしい。
お腹がふくれるとまた眠くなってきた。部屋に戻って、再びベッドにもぐりこむ。
次に目を覚ましたのは、夕方の四時だった。ずしんと気分が沈んだ。今日が終わるのが怖かった。体温計で何度測っても熱はもうなかった。
夕食は、お粥の残りと冷凍食品のから揚げと野菜ジュース。
食べ物がのどに引っかかる感じがする。
「学校、行きたくないなぁ」
空っぽになったお粥の皿をぼーっとながめながら、本音を口に出してみた。
急に、涙がぽろっとこぼれ落ちた。
えっ!?なんで?
急いで涙をぬぐう。ビックリした。なんだか自分が変になったのではないかと思った。
ふうと息をはいて呼吸を整える。
これで、だいじょうぶのはずだ。
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