陽の光

森きいこ

第1話

 私が生まれたところは、冬は雪に閉ざされて、肺が痛くて呼吸も出来ないような土地だった。村を歩けば、知らない人が全員私を知っていたし、私は「祖父の孫」であり「父の娘」だった。

 その息苦しさは、いつも、真冬に現れる雪の壁のように、私自体を押しつぶしてくる。

 ――東京に逃げたのは、形のない、けれどはっきりとした不安から、目をそらしたかったからだ。

 三鷹駅南口をバスで10分ほど、それが今の私の家。雪は降らない。私を閉じ込める雪の壁は、もうなくなった……はずだった。

「……暑」

 雪はないが日差しはある。

 東京の日差しは、痛い。

 こうして木陰のベンチに腰かけているだけで、じんわりと汗をかくなんて、信じられない。

「お嬢さん、そんなところに座ってると、具合悪くするよ」

 突然声をかけられて、ハッと顔を上げる。歩道に、にこにこと笑ったおばあさんが立っていた。真っ黒のワンピースは魔女のようで、総白髪を綺麗にセットしている。

 私たちは丁度、例の玉鹿石のあたりで見つめ合った。

 おばあさんは日差しが直接当たり、私よりよっぽど暑そうに見える。

「それに、なんだか太宰先生に魅入られたみたいだ」

「……どういうことですか、それ」

 思わず笑う。

「いやぁ、最近、なんていうのかね。桜桃忌じゃなくても、若いお嬢さんが太宰先生の住んでた辺りを歩いてるのを見かけるから」

 桜桃忌――作家太宰治の命日の近くになると、確かに、壇林寺や資料館のあたりにファンらしい女性の姿を見ることが増える。

「お嬢さんはこの辺りの人?」

「はい、上連雀ですけど」

 私が答えると、おばあさんは楽しそうに笑った。

「おばあさんも近所なんですか?」

「そう。ずーっと玉川上水沿いに暮らしてるよ」

 玉川上水に寄り添うように、三鷹駅から井の頭恩賜公園に伸びる『風の散歩道』で、私たちは世界に取り残されただ。おばあさんは日差しを浴びるところに立ったままで、私は日陰のベンチに座ったまま。

「この辺りでね、太宰先生は身を投げたんだよね。でも、フアンの子は、別にこの石を見に来ないから。どうしてお嬢さんが見ているのか、気になったんだよ」

「……私は、今、恨みを飲んでるんです」

「はっはっは、また面白いことを言うお嬢さんだ」

 そう笑って、私の隣に腰かける。

「玉鹿石は、太宰先生の出身地のあたりの石でね」

「知ってます……身を投げた地点だろうってところに、置かれてるんですよね」

「そうそう。どうしてそんなところ見てたの。死にたいの?」

「……私は別に。死ぬ必要はないんですけど」

 脳裏に、穏やかな笑顔が浮かんだ。じわりと視界が滲む。

「知り合いが……職場の先輩なんですが、その……」

「ああ、自殺したのかい」

「はい。もう二ヵ月くらい経つんですけど、どうしても、私は忘れられなくて」

「仲良かったの?」

「いえ、普通の同僚です。職場では挨拶するし、雑談もするけど、ご飯に行ったこともないし、個人的な連絡を取ったこともない」

「でも、その人のことを考えて、この石を見てたんだ」

「人は、誰かに認めてもらわないと、生きていてはいけないんでしょうか」

「あんたは小難しいこと考えるねえ、どういうこと?」

「亡くなる前の日、職場の飲み会だったんです」

 いつもの、単なる送別会だった。

 異動することになった社員を見送るための席で、恐らく、私以外の誰も、そのことを覚えていないと思う。ただただ、私も不快だったから覚えているのだ。人間は殴ったことを覚えていられないけれど、殴られた方は忘れない。

 ――しっかし、最近はさぁ、図々しいよな。セクシャルマイノリティっていうの? ホモだろホモ。

 元々、好きな人間のタイプではなかった、むしろ大嫌いで、同僚でなければ一瞬で人間関係を絶つレベルのソリの合わない男が、酔っぱらってそう言った。

 ――ゲイですよ。それに、男性以外にもいますし。

 ――何、矢沢ちゃん、レズなの?

 そう言って男は下品に笑った。冗談のつもりなんだろうけれど、私はクスリともしなかった。

 ――もう十分存在を認知されてるんだからさぁ、その上結婚したいだの、子供がほしいだの、何言ってんだか~って感じだよ。

 ――それって不自然っすよね。

 ノリで生きてるような後輩も加勢する。私はうんざりして、黙ったままジンジャーエールを口にした。隣では、先輩が枝豆を剥いている。

 ――贅沢言ってんなーって感じっすよ。

 ――贅沢なんですかね。私、引っ越しして思いましたけど、ふたり入居可って書いてても、男女じゃないと渋られるところ、結構多かったですよ。

 ――ああ、矢沢ちゃんは、カレシに捨てられて、いま友達とルームシェアだっけ?

 いちいちデリカシーがないな。この男、今すぐ頭をぶん殴ってテーブルに沈めてやろうか、という心は表に出さない。社会人のマナーだ。

 ――そうです。男女でも結婚を前提じゃないと、とか色々言われましたよ。

 ――でも、どっかの区とかは認めてくれてるんじゃん? 証明書とかさぁ。そういうのがあるんだから、これ以上何か求めるのは違くね? って俺は言ってるわけ。分かる? 少子高齢化なんだから、そろそろ矢沢ちゃんも結婚しないと。

 ――先輩だってまだ結婚してないじゃないですか。

 ――俺はまだ三四、男はこれからだから。でも、女の子は年齢制限あるじゃん?

 こういうとき、私は自分の周りには雪の壁がまだまだ存在するのだと実感する。

 あの雪国を出たら忘れられると思っていた閉塞感。私を監視する、『私の果たすべき役目』たち。

 ――誰かに認めてもらわないと、結婚も出来ないって、不思議ですよね。

 先輩がそっと言葉を挟んだ。

 いつの間にか枝豆を剥く手は止まっている。

 ――矢沢さんもさ、別に焦って男を捕まえて失敗するくらいなら、好きに生きた方がいいよ。

 誰も見ずに、先輩はそう言った。

 ジンジャーエールの炭酸がゆるやかに抜けていく。

 下品な男たちは、「嫁に求めるもの」なんて私から見たらよっぽど架空の世界の、図々しい贅沢な話に移って行く。

 私の取り囲む雪の壁を思い出させたくせに、あいつらは気軽にどこかへ行った。

 黙り込む先輩と、その横でぼうっとする私だけが、この世界から少しだけずれているようで。でも、私はあんな世界に飛び込みたくないと、ビールを飲みながらゲラゲラ笑う男たちを見ていた。

 その翌日のことだ。先輩は出社してこなかった。自殺したのだ、ひっそりと。

「私、何度もあの飲み会を思い出すんです。黙ってたことが、先輩を傷つけたんじゃないかとか、色々……」

「ふうん」

「あのあと、先輩の私物を取りに来た人は、同居人だっていう男の人でした。家族と疎遠だってことは聞いたことがあったんですけど、その人のことは先輩の会話から全部丁寧に抜き取られていて……」

 知らなかった。

 私は知らなかった、先輩がそこまで悩んで苦しんで、結局命を絶つまで。何も気づかなかった。

 あいつらは結局、自分が最後に背中を押したことに気付かず、その内に忘れる。笑い話みたいに、「同僚が自殺してさぁ。後始末大変だったんだよ」とか言うんだろう。

 先輩の抜けた穴も、もうすべてなかったように会社は回っている。

「あんた、それは、悲しいんだよ。理屈ばっかりこねてるけど、その先輩が死んで悲しくて、しかも、あんたが反発してきたものに先輩が殺されたみたいで、納得できないんだ」

「……私、女らしい格好は好きだけど、女として生きたくはないんです」

「そうだろうねえ」

「私は私だし、結婚してもしなくても私でしかないのに、足りないように扱われたくない」

 雪の壁。

 私を閉ざして、動けなくする壁。

 先輩はその壁が崩れて、雪に埋もれてしまった。何もなくなったように降り積もる雪は、音もなく、気が付けば視界を埋めていく。

「昔々、ある青森県の御屋敷に、玉のような女の子が生まれました。その子は蝶よ花よと愛されて育ちましたが、十五歳のころです。突然お腹が大きくなったのです」

 おばあちゃんはまるで読み聞かせのように話し始めた。

「お腹が大きくなった女の子は、怖くて怖くて仕方がありませんでした。そして、当然ですが、お家も大きな騒ぎになったのです。議員の娘さんだった女の子は、座敷から一歩も出してもらえなくなり、泣きながら事の経緯を母親に話します。

 女の子にはとっても優秀な兄がいたのですが、兄の友人のひとりが女の子に乱暴していたのです。女の子は怖くて誰にも言えず、友人もかたく口止めをしていました。でも、お腹が大きくなっては黙っていられません、ふたつの家は……特にもめることもなく、あることを決めます」

「結婚……ですか?」

「女の子の、中絶手術です。秘密裏に中絶させられ、女の子は、家族からも相手の家からも『不良娘』と呼ばれ、逃げるようにして集団就職の汽車に乗ったのです。同情してくれたねえやや使用人たちがこっそり逃がしてくれました」

「……酷い……」

「女の子は、それから、一生懸命働きました。結婚できない可哀相な女と言われ、職場では出世もせず、それでも一生懸命働きました」

 おばあさんはにやりと笑って、私を振り返った。

「人間はね、かわんないんだ。普通をふりかざす人間が、どれだけ残酷なことを強いているかなんて、考えないのさ」

 返事が出来ない私に、おばあさんは肩を竦めた。

「それでも、きっと十数年後はもう少し生きやすくなってるんじゃないのかね。だって、太宰先生が亡くなったのだって、あたしが生まれた頃の話だ。なのに随分前のことみたいだろう?」

「そうですね」

 玉鹿石を見ていると、あの日の先輩の背中を思い出す。先輩が剥いた枝豆を食べたか、私は覚えていない。それでも、別れ際の背中が、少し丸まっていたことははっきりと覚えている。

 先輩の苦痛を、私も正確には理解出来ないだろう。

 おばあちゃんの苦労も。

 でも、想像することは出来る。

 日差しはまだまだ、陰りそうもない。



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陽の光 森きいこ @morikiiko

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