第26話:ありがとう
ありがとうございます。
瑞穂たち小売業で働く者は、この言葉を一日何度も何度も口にする。
だが、あまりに繰り返しすぎて、そのうち呼吸をするかの如く言うようになり、時としてその言葉の意味を忘れてしまう。
ありがとう、それは感謝の言葉。
言った者は感謝の気持ちを相手に伝え、言われた方はその気持ちを受け取って心を豊かにする。たった数文字の言葉なのに人を幸せにする魔法の言葉だ。
(そうだ! 戻ったらお詫びよりも先に感謝の気持ちを伝えよう!)
動物病院を後にした瑞穂は、店に向かって駆け出しながらそう思っていた。
自分の不甲斐なさと、みんなに迷惑をかけた申し訳なさで、さっきまで瑞穂の頭の中は謝罪の意識しかなかった。
でもそれは罪の意識から逃れたいだけの、自分勝手な感情だと気が付いた。
もちろん、自分のミスで迷惑をかけたのは申し訳ないと思う。だけど人が自分の為に何かやってもらった時、真っ先に浮かぶ感情は感謝だろう。
だからまずはその感謝の気持ちを伝えよう。お詫びはその後だ。
ポニーテールを背中で揺らしながら、瑞穂はぐんぐんスピードを上げていく。
不思議と体が軽く感じた。酷い失敗をしでかした後なのに、何故だか心がすごく透き通っている。さっきまであんなに落ち込んでいたのがウソみたいだ。
(それもこれも全てあの子のおかげだね)
獣医の先生は「瑞穂が自分の命を救ってくれたのだと黒猫は知っている」と言っていたけれど、とんでもない、救ってもらったのは自分の方だ。
あの時、黒猫の感謝の気持ちが伝わってきた。それが瑞穂の冷え切っていた心や頭を温かくし、感謝の大切さを思い出すことが出来た。
(あの子が元気になったらいっぱい遊んであげよう。だけど今は)
緩いカーブを曲がると店が見えてきた。
瑞穂は気を引き締めて、だけどなんだかとても嬉しくなって、さらにスピードを上げる。
どんどんお店が近づいてくる。
駐輪場にたくさんの自転車が並んでいた。
窓の向こうに見える買取カウンターでは、守北がお客さんに深々とお辞儀をしている。
瑞穂は走って乱れた呼吸を整える暇ももったいないとばかりに、お店に飛び込んだ。
「えっ!?」
お店に
でも実際には自分でも間抜けだなと思うぐらい呆気に取られて、言葉を失ってしまった。
何故なら、そこには
「お、瑞穂ちゃん、戻ってきたッスね! 猫ちゃん、大丈夫だったッスか!?」
「おい、今浜さんが戻ったってよ!」
「分かった、今行く」
守北だけではない、本来なら今日お休みだったはずのスタッフまでもが制服を身に纏って働いていたからだ。
「あ、あの、これは一体……?」
「上笠店長からラインが来たんだ。瑞穂ちゃんが猫を撥ねたから不在で、山田も出張買取に行ってるから、もし手が空いていたらお店を助けて欲しいって」
皆草がスマホを取り出して、画面を瑞穂に見せた。
「え、そんなライン来てましたっけ?」
「瑞穂ちゃんに余計な心配をさせないよう、店長が気遣って瑞穂ちゃんを外したんだと思うッス」
「で、結局、今日休みの連中がみんなやってきた、ってわけだ。まぁ、瑞穂ちゃんがいない、山田もいない、となると店の指揮を執るのが、ほんの数時間とは言え守北になっちまうんだからな。そんなのさすがに怖すぎるから、みんな出てきたわけだよ」
「酷いッス、皆草さん! 俺だって店番ぐらいしっかり出来るッスよ!」
「どうかなぁ。お前、すぐテンパるじゃん。『万策尽きたー』とか言って」
「それは皆草さんに教えてもらったアニメの真似をしてるだけっスよ!」
「でも、俺たちが来た時はお前、今にも泣きそうな顔してたじゃねぇか」
これには守北もむぐっと言葉を詰まらせた。しかし、
「って言うか、本当は俺が頼りないから来たんじゃないっスよね!?」
「は? なんだよ、それ?」
「俺、知ってるッスよ。口ではそう言いながら、本当は店長代理の瑞穂ちゃんを助ける為に、出勤してきたんスよね?」
「なっ!?
「えー? でも、これがもし瑞穂ちゃんじゃなくて速野さんのピンチだったら皆草さん、ヘルプ出勤したッスか?」
今度は皆草がむむむと唸る番だった。
「照れくさいのは分かるッスけど、こういうのは正直に言った方がいいッスよ? ね、他のみなさんもきっとそれがヘルプ出勤理由っすよね?」
守北の言葉に、皆草以外の今日非番だったスタッフたちが「まぁ、瑞穂ちゃん頑張ってるからな」「普段は俺、助けてもらってばかりだし、こういう時ぐらいしか恩返し出来ないし」と照れくさそうにはにかむ。
「ね? みんなそうっスよね? 俺だってそうッスよ! 確かに店長代理の代理という重役は、俺にはキツいッス。だけどそれが瑞穂ちゃんの助けになるのなら、俺はやってやるぞと自分に喝を入れたッスよ。瑞穂ちゃんは社員を目指してるんスよね? だったらこんなところで評価を下げるのは」
「ああ、分かった分かった。ひとりでカッコつけようとすんな! 俺もそうだ! 瑞穂ちゃんのピンチだから店に来た。守北のピンチなんてどうでもいい!」
「それはそれで酷いっスよ、皆草さん!」
守北と皆草のやり取りに、その場に集まったスタッフ全員が笑った。
ただひとり、瑞穂だけが身動ぎすることもなく、ただじっとみんなを信じられないと言う表情で見つめている。
「お、ようやく戻って来たな、嬢ちゃん」
そこへ意外な人物から声を掛けられた。
「出屋敷さん!? どうして?」
山田と一緒に連れだって歩いてくる出屋敷刑事の姿に、呆然自失としていた瑞穂も思わず我に返った。
「どうしてもなにも、先生から連絡を受けたんや。『警部、事件発生です』ってな」
どうやら上笠がみんなにラインを送っている間、速野は出屋敷に連絡を取っていたらしい。
「で、詳しく話を聞いたらなんや嬢ちゃん、悪ガキに色んな意味でハメられそうになっとるらしいやないか。ワイ、大急ぎでかけつけてやったわ」
「色んな意味でハメられるって……刑事さん、それはちょっと下品すぎじゃないですかね?」
「おおっ! 山田君、ナイスつっこみ、ありがとさん!」
ガハハと笑う出屋敷に、山田が苦笑しながらその先のことを説明してくれた。
なんでも電話でのやり取りをスタッフルームのパソコンに自動録音するシステムを速野がいつの間にか用意していたらしく、店にやってきた出屋敷は早速瑞穂と出張買取の男との会話を再生し、その内容を聞いて「おっけぇー」とにやぁと顔を歪ませて呟いたらしい。
「あの時の顔と言ったら、まるでヤクザでしたよ」
「おいおい、山田君、それはいくらなんでも失礼やで」
「あ、すみません」
「ワイらはヤクザを取り締まる方やで。ヤクザみたいなんて、そんな見くびられては困るわぁ」
「ヤクザよりえげつないわッ!」
「またまたナイスツッコミ炸裂! 山田君、キミ、才能あるな! 今度一緒にワイとコンビ組んで、署の年末忘年会に出てみぃひんか?」
「いやいや、刑事さん、さっきから話が脱線しまくりですよ」
ホントである。
「んで、後は悪ガキの家へ行ってお灸を据えてやったわけや」
「刑事さん、今度は話が早すぎです。えっとですね、持ち帰ったゴミの入ったダンボールを再びワゴンに積んで、僕と刑事さんのふたりで相手の家へ向かったんですよ。それでまずは僕だけが男の人と交渉し、予定通り相手が怒りだしたのを見て、刑事さんがワゴン車から次々とダンボールを運んできては部屋の中に中身をぶちまけていったんです」
「だってほら、返すんやったらちゃんと元の形にして返してやらなあかんやろ」
「勿論、相手は最初、突然現れた警察に驚いて呆然としてましたが、このやり方には怒りまして。でも、そこへ刑事さんがさっきのパソコンで確認した電話内容の話を持ち出しまして『脅迫罪で逮捕する』と手錠を取り出したところ、男は突然暴れだし」
「が、男・出屋敷、殴りかかってきた相手の腕を取ると、相撲取りのような巨体をもろともせず華麗な一本背負いを決めてやったわけや!」
ま、こういうのは言わんでおく方がかっこええんやけど、山田君が続けたもんやから仕方なく話しとるんやで、ホンマやでと出屋敷はまたガハハと笑った。
「ということで、この件は無事解決しました。安心してください、今浜さん」
その傍ら、山田はにっこりと、とにもかくにも瑞穂の不安を消し去ることを第一に考えたような笑顔を浮かべる。
それは確かに瑞穂の心に染みた。でも、同時に感謝とはまた別の感情が口から零れそうになってしまう。
「おっと、嬢ちゃん、『どうして?』とか言うのは野暮ってもんやで」
が、それまで他のお客様への迷惑になるぐらい大声で笑っていた出屋敷が、すっと声を潜めて言った。
「そんなん、言わんでも決まっとるやん。あんたは普段からそれだけのことをしとる。ワイはそれを知っとる。だから仕事だなんだ言う前に、ワイは感情で動いた。それはきっとワイだけやないやろ」
そして「あんた、いい店長になれるわ」と最後にそう呟いた。
……そうなのだろうか?
瑞穂にはよく分からない。店長としてはまだまだ力不足なのは明らかだし、今回も自分の判断ミスでこんなにも多くの人に助けてもらった。
だけど、それが今は不思議と惨めには感じない。むしろこれだけの人に応援してもらえているんだと思うと、俄然勇気が湧いてきた。
店長どころか、実際はまだ社員にすらなれていない。
今から店長を目指すなんておこがましいような気もする。
それでもみんなに助けてもらえるのなら……助けてもらえられる自分でいられるよう努力をし続けていれば、自信をもって店長を目指していいんじゃないか。そう思えた。
ふぅと息を吸い込んで、瑞穂は心持ち顔を上げた。
その表情は清々しく、迷いのない、澄んだ心をそのまま表している。
見れば、みんなが笑顔で瑞穂を見ている。
だから瑞穂もめいっぱいの笑顔を浮かべながら、
「みなさん、今回は本当にありがとうございました!」
店内に響き渡るぐらい大きな声でお礼を述べると、勢いよく頭を下げた。
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