第25話:黒猫③
駐車場から出ようとした瞬間、車が何かを轢いてしまった。
その瞬間、瑞穂の頭の中は真っ白になった。
そして今、はっと気が付けば何故か動物病院の廊下のソファに座っている。
霞がかかったかのような頭の中、山田から指示され、ぐったりと倒れこむ黒猫を抱えてこの病院へと駆け込んできた記憶が薄らぼんやりとあった。
(……ああ、私は一体何をやってるんだろう)
本当なら今頃は出張買取先へ出向いて今回のお詫びをし、自分の貯金から降ろした十万円を渡して穏便に終わらせるはずだった。
それが不注意で黒猫を轢いてしまい、お客様のところどころか、店で働くことすらもなく、こんな病院の廊下でぼんやりと座っている。
きっとお客さんは来るのが遅いと怒っていることだろう。お店の方へ催促の電話もかけているかもしれない。みんなにまた迷惑をかけてしまった。
(やっぱり私に店長代理なんて無理だったんだ……)
引き受けた時は大丈夫、ちゃんと出来ると思っていた。
だけど実際は色々とトラブル続きで、その度に何とか修復しようと自分では頑張ってはみたものの、なんだか上手く行かなかった。
そこに今回のこの大失態だ。きっとみんなも、それに上笠店長や速野さんも研修から戻ってきたら呆れかえることだろう。
これではとてもじゃないが社員にはなれない。だけどそれ以上に、速野たちの期待を裏切る形になったのが申し訳なくて仕方がなかった。
ブルブルブルブル。
ふとポケットの中でスマホが振動した。
取り出して画面を見てみると、そこには「速野さん」の文字。
泣き出したくなる気持ちをぐっとこらえて、瑞穂は急いで電話に出た。
「もしもし」
「今浜さん、山田君から話は聞きました。大丈夫ですか?」
「はい……私は、大丈夫です。でも」
「え? 轢いてしまった猫ちゃん、ダメだったんですか?」
「いえ、そちらはまだ手術中でまだ分からないです。……そうじゃなくて、その、私……」
瑞穂は声を詰まらせた。代わりに堪えている涙が溢れそうになってくる。
泣いちゃダメだ。泣く前にどうしても言っておかなくちゃいけないことがある。
「この度は大変申し訳ありませんでしたっ!」
震える声を必死に押さえ込み、瑞穂は廊下にも響き渡るような大声で謝った。
「うわっ。いったいどうしたんです、そんな大声をあげて」
「私……約束を破って……つい出張買取を……」
ちゃんと説明しなくちゃいけない。そう思っているのに どうしても声が途切れ途切れがちになる。
「ああ。そのことでしたか」
だけど速野はそんな瑞穂の言葉の切れ端だけですべてを理解した。
「大丈夫ですよ。問題ありません」
「ですが、きっと今頃お客さんカンカンに怒ってて……」
「だから大丈夫です。それについては先ほど、山田君に指示を出しておきました」
「え?」
「店の方に電話があったそうです。一体何してやがるんだ、って。で、電話応対した山田君が事情を聞きだして、僕に指示を求めてきたんですよ」
それを聞いて瑞穂は一瞬ほっとした。
時計を見るともう昼の3時。電話から既に3時間以上も経過している。それまで何の連絡もせず、今更電話したところでまた怒鳴られるのは火を見るよりあきらかだ。
加えて速野が指示を出したのなら、きっと上手く解決したことだろう。
「……すみませんでした」
だけどほっとしたのも束の間、次に瑞穂の胸の内へ去来したのは申し訳なさや惨めさといった負の感情だった。
「私……みなさんにご迷惑をおかけしてしまって」
「…………」
「私、店長代理なのに……もっとしっかりしなくちゃいけないのに……」
「…………」
「本当に申し訳ありませんでした」
「あー、今浜さん、それはちょっと違うと思いますよ」
「え?」
「僕もですが、きっと山田君も今浜さんに謝ってほしいとは思っていないと思います。それに今浜さんはそもそも大きな勘違いをしています」
「勘違い、ですか?」
「はい。今浜さんは立派に店長の仕事をしていますよ」
「そんなことない! 私、色々と失敗だらけで全然店長らしい仕事なんて」
「いえいえ。今浜さんは店長としての資質があります。それは僕が保証しますよ。でも、僕の言うことが信じられないというのなら、そうですね、この後、お店に戻ればきっと分かると思いますよ」
お店に戻れば分かる?
瑞穂は意味がよく分からなくてさらに詳しい説明を求めようとするも、速野は「あ、すみません。そろそろ僕も戻らなくちゃいけないみたいです」とだけ言って、あっさり電話を切った。
さらにはそこへ黒猫の手術が終わったらしく、部屋から出てきた獣医の先生が瑞穂を手招きしてくる。
速野の話も気になるが、当然、黒猫の手術の成否も知りたいところだ。
瑞穂は少し後ろ髪を引かれるのを感じながらも、ソファから立ち上がった。
「手術は成功です。診察の時お話ししたように大腿骨の粉砕骨折でしたが、車を発進させた直後だったのでダメージがそれほど大きくなかったのが幸いしました」
マスクを外しながら言った中年男性の獣医さんの言葉に、瑞穂はほっと安堵した。
診察で内臓や肺にダメージはなく、骨折だけだから大丈夫だろうと言われてはいたものの、こうして無事手術が成功したと聞かされてようやく心の底から安心するのを感じた。
「回復すれば歩行も問題なく行えるでしょう」
「先生、ありがとうございます!」
「でも、本当に良かったのですか? この子、野良猫なんですよね? お知らせしたように手術と入院費が結構かかりますが?」
「そんなの当たり前ですよ。私の不注意で轢いてしまったんですから」
手術前に提示された金額は、出張買取の男から請求された十万円よりも遥かに高額だった。
それでも瑞穂は何の躊躇いもなく、黒猫を救ってほしいとお願いした。
ニャア。
その時、麻酔から目を覚ました黒猫が、ベッドの上で弱々しい声をあげた。
小さな目が瑞穂をじっと見上げている。
その視線が「お前が轢いたんだな」と訴えかけているようで、瑞穂は思わずあとずさりした。
ニャアニャア。
また鳴いた。今度はさっきと比べて少し大きな声だった。
「どうやらあなたを呼んでいるようですよ」
「え? あの、一体私、どうすれば?」
「近づいて頭を撫でてあげてやってください」
「えええ? 大丈夫ですか? あの子、私に怒ってるんじゃ?」
「ははは。そんなことはありません。大丈夫。あの声は怒ってるんじゃなくて、あなたに甘えたがっている声ですから」
そうなのだろうか? 言われても半信半疑なまま、恐る恐る瑞穂はベッドに横たわる黒猫へと近づいた。
ニャアニャアニャア。
鳴き声がさらに大きくなる。視線は相変わらず瑞穂から外さない。
でも不思議なことに、なんだか喜んでいるように瑞穂には見えた。
躊躇いがちに手を伸ばす。
黒猫が身動ぎひとつしないまま、じっとその手を見つめる。
そして瑞穂の手が黒猫の頭の毛をそっと撫でた時。
にゃーあ。
嬉しそうな声をあげて、黒猫が目を細めて笑った。
「ね、言った通りでしょう?」
驚きつつも、その反応が嬉しくてついつい黒猫の頭を撫で続ける瑞穂へ、後ろから獣医の先生が声をかけてくる。
「はい。でも、どうしてなんですか? 私はこの子を撥ねちゃったのに」
「ははは。この子にとって自分を撥ねたのはあなたではなく、鉄の塊のバケモノなんですよ」
「あ、なるほど」
「それにきっとこの子は覚えてるんです。あなたがこの子を抱きかかえ、励ましながら懸命に走り、なんとかして助けようとしてくれたことを。あなたが自分の命を救ってくれたと分かってるんです」
獣医の言葉へ応えるかのように、黒猫がひときわ元気な声でニャンと鳴いた。
「……あの、先生。この子、私が飼ってもいいですか?」
「ええ。あなたならこの子を幸せにすることが出来るでしょう。それにこの子もまた、きっとあなたを助けてくれるはずです。お互いの愛情は通じ合うものです。あなたが苦しんでいる時、悩んでいる時、この子はあなたを励ましてくれるでしょう。それはとても幸せな関係だと私は思います」
助けてくれる幸せな関係……黒猫の頭を撫でながら、瑞穂はその言葉を何度も反芻する。
なんだか思考の視界が広がっていく感じがした。
「あ、あの、この子に助けてもらった時、私はどうすればいいんですか? 今みたいに頭を撫でてやればいいのでしょうか?」
「そうですね。それに声をかけてあげてください。この子たち、人間の言葉は話せなくても、簡単な単語ならちゃんと理解はしているので」
「言葉、ですか?」
「はい。ありがとう、って言ってやってください」
ありがとう――。
その言葉が瑞穂の心の中にすぅっと染み込んでいった。
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