第9話:不動心
「……ねぇ、今浜さん?」
「すみませんが今は話しかけないでください」
「いや、そうは言ってもですね。やっぱりここは僕が」
「ああ、もううるさい! 集中してるんですから、話しかけないでくださいよっ、速野さん!」
いつもの瑞穂からは到底考えられない怒鳴り声に、速野は自分の失敗を悔やまずにはいられなかった。
◇
2週間の告知期間を終えた後、イエローブック森泉店は営業時間が変わった。
平日は昼の12時から夜の8時まで。土日祝日は店長・上笠の強い要望で、朝の10時からの開店となった。
それでも元遅番だった人たちは遅くとも昼の2時には出勤してくれるので、ピークタイムを十分な人数で回すことが出来る。
しっかりと告知期間を取ったのに当初は営業時間を間違えてやってくるお客さんがそこそこいたりしたが、瑞穂たちが想定していたほどの混乱はなかった。
それよりも驚いたのは、人数が増えたことによる快適さだ。
以前は買取と販売が立て込むと、誰も商品加工や品出しが出来ないまま積み上げられていく買取商品の山を恨めしく見守るしかなく、次々と商品が売れていくにもかかわらず補充もままならない状況に忸怩たる思いを抱かなくてはいかなかったが、今はどんなに忙しくてもそれらの作業がストップすることはない。
さらには手が回らなくなると心の余裕のなさから強張っていた表情も、今は自然と笑顔を出せるようになっている。
本来あるべき姿で仕事が回ることがこれほどまでに心的負担を和らげるなんて瑞穂は思ってもいなかった。
そしてもうひとつ、驚いたことがある。
4時間も営業時間を減らしたにもかかわらず、本当に売上が伸びたのだ。
データを見れば一目瞭然で書籍の売り上げが伸びていた。
言うまでもなくこれはピークタイムに買い取った人気商品をすぐ店頭へ並べ、売れて抜けた棚をすかさず補充することで、これまで逸していた機会を取り戻した結果だった。
労働環境の改善と、売り上げの向上。イエローブック森泉店は確実に再生しつつある。
が、残念なことにそれでもまだ、赤字は解消されていなかった。
理由は簡単。
またまた買取が伸びてしまったからだ。
◇
「今浜さん、申し訳ありませんがこれからはお気持ちだけいただいておきます」
そう言って速野がライトバンの助手席の扉を開けた。
「運転は僕がやりますから、今浜さんは助手席へどうぞ」
「……はい」
しょんぼりとうな垂れながら、瑞穂は助手席へと身体を滑り込ませる。
しばらくして運転席の扉が開き、速野が乗り込んできた。
その表情はいつもと変わらなくて、なんだか瑞穂はますます申し訳ない気持ちになってきた。
速野が立案した新しい営業時間はピークタイムにスタッフの数を増やす他にもうひとつ、実は店を開ける前の午前中に出張買取をするという目的があった。
そして瑞穂はその助手……つまるところ速野が言い出した『従来通りの時間で働いてほしい』って提案は、午前中は出張買取を助けて欲しいということだった。まったく言葉足らずもいいところだ。
それでもすぐに誤解が解け、速野の元で買取をもっと学びたいと考えていた瑞穂は二つ返事で請け負った、
が、何日も手伝いとして同行しているうちに、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
と言うのも、出張先まで車を運転するのも速野なら、買い取った商品を詰め込んだダンボール箱を運ぶのも重いのは速野が率先してやってしまう。
瑞穂がやることと言えば、買取査定の手伝いと、軽いダンボール箱を運ぶぐらいなものだ。
なのでせめて運転は自分がやりますよと、とうとう決意を固めて速野に申し出てみた。
こう見えて瑞穂は免許を持っている。
早々に進学を諦めた瑞穂は、18歳の誕生日を迎えると学校とバイトの傍らで、車の教習所へと通い始めた。
別に車の免許が無くても生活に困りはしなかったが、それでもあれば今後の人生で何か役立つかもしれないと考えたからだ。
が、そこで瑞穂は18年間の人生でまだ知らなかった自分の欠点を知ることになった。
下手だった。車の運転が。壊滅的に。
学科はなんてことないが実技がともかく酷く、人の数倍は車に乗ったものの全く上手くならなかった。
それでも最後には教官も可哀相に思ったのか合格にしてくれたが、その頃にもなるとさすがに「自分は車を運転してはいけない人間なんだ」と瑞穂も自覚した。
なので最終試験以降、運転はしていない。免許証は高価な身分証明書だと思っている。
それでも、だ。
もしかしたらあの頃は単に不調なだけで、今運転すると上手くなっているかもしれない。絶対にそんなことはありえない……と言い切ることはできないんじゃないかな? と自分を騙しながら、速野に提案してみた。
結果、二度と運転しないでくださいみたいなことをやんわりと告げられてしまった。
一体自分は何をやっているのだろう?
瑞穂は助手席で猫背になって小さくなりながら、ちらりとハンドルを握る速野の横顔を覗き込む。
やはりいつもと変わらぬ速野がそこにいた。
怒ってはいない。そもそも速野が怒るところを瑞穂は見たことがない。
基本的にはいつも穏やかな笑顔を浮かべている。速野の表情が変わるのと言えば、例のあの強欲な笑顔を浮かべる時だけだ。
(でも、あの顔もなんか想像していたのとは違うような気がする……)
せどりの間で「強欲な仮面」と呼ばれていると聞いて、瑞穂はよっぽど業突く張りな人なんだと思っていた。実際、あの笑顔は相当に強欲そうだとも思う。
だけど、ただ強欲というわけでもない。
それは10円で買い取れるものを一万円で買い取った、あの時から感じていた。
自分が儲けることしか考えないせどりは安く買い叩いて、高く売り払うもの。相手が損をしようがそんなのはお構いなしのはずだ。
速野の行動はそんなせどりの常識から外れている。
それに強欲な笑顔は買取以外の場面でもたまたま見かけてきた。
最近だったら速野の営業時間短縮案に、瑞穂が賛同した時だ。
不意にニタァと厭らしい表情を浮かべるのでドキッとしてしまった。
(うーん、なんか上手く行っている時に自然と出ちゃうのかもね、あれ)
まぁ、強欲そうな笑顔なんて得てしてそういうものだとは思うけれど、それでも速野のアレは決して下卑た考えからくるものではなさそうだ。
そう、見た目が最低なだけで。印象がとても悪いだけで。
「速野さん……」
「はい、なんですか?」
「不動心って知ってます?」
「え? えーと、何事にも動じない心って意味ですよね? それがどうかしましたか?」
「大切ですよね、不動心」
そう言って速野ににっこりと笑いかける瑞穂だったが、内心は焦りまくっていた。
つい勢いで口に出してはみたものの、その意図をどう伝えるべきかは何にも考えていなかった。
いまだ成人も迎えていないのに、アラフォー男性にむかって「考えていることが丸見えの笑顔が最低です」と言える勇気なんて、瑞穂は持ち合わせていない。
「不動心……ああ、さっきの車の運転のことを言っておられるんですか?」
と、笑顔で胡麻化していたら、速野が何か勘違いしてきた。
「そうですね。車を運転する時はとにかく冷静になることが大切です。僕の場合はですね」
さらに勘違いしたまま、持論を展開していく速野。
その表情が次第に強欲な笑顔に変わりつつあるものの、「まさにそれだよ!」と言えるはずもなく、瑞穂はただただ愛想笑いを浮かべて話を聞き入るしかなかった。
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