第5話 干渉あるいは感傷
篠崎先輩の卒業の日。学位授与式の数日前、追いコンのつもりで先輩をピザパーティーに誘った。後輩たちは特に呼ばなかった。
ピザを買ってきて、コーラをお供に部室で食べる会だ。ビールも捨てがたかったけど先輩はお酒が弱いらしく、それならばとアメリカンにコークを飲んでポテチを貪る「最高に体に悪い会」にしようという事になった。
追いコンと言っても別に何か特別な事をすることは無かった。先輩には随分とお世話になったから、これからの事を聞いたり、ありがとうございましたと言ったり、そんな感じだった。
油っこいものばかり買ったことを後悔して、二人で近くのコンビニに向かっていた。もう日は落ちていた。春の夜風が頬を撫でて、自分の体温が高いことを自覚した。
「...安藤君。聞いておきたい事があって」
「なんですか?改まって」
「Block Box testのことだよ。古いPCに入っていた謎のファイル」
「あー、そんな事もありましたね」
「安藤君。君は嘘をついたよね」
「嘘ですか?」
「うん。安藤君が言っていたパスワードは、”blackboxtest”と”mike”だったけど、あれは安藤君が考えた嘘のパスワードだよね」
あの日。何の気無しに見つけたフォルダは、僕たちの関係を変えてしまう可能性のある物だった。
「なんで、そう思うんですか?」
「本当に「シュレーディンガーの猫」の中身を見ていないんだね」
「ええ。中を見ないで帰りましたよ」
「うん、そうだったね。あの後見に来ることもなく、私に聞くこともしなかった。せっかく見つけたのに、答え合わせをしないなんて奇妙だなと思ってね」
「それは篠崎先輩宛てだってことが推測出来たからですよ」
「それと、答えが簡単すぎた。実際、手紙が入っていたよ。出題者のクレアから私宛に。」
「そうですか」
「手紙には詳細な答え合わせが書いてあった。でも安藤君はそれに気づかなかったよね、中を見なかったから。」
「...」
「もしかしたら君は、答え合わせが入っていて、私がパスワードのことに気づいても良かったのかもしれないけどね。大事な事は、安藤君が見ていないこと。『観測していない事』が重要だった。そういうことだよね」
観測してしまうと、干渉縞は壊れてしまうから。
「パスワードのヒントの”journal”は、部誌じゃなくて論文誌のことだったんだよ。ひっかけ問題だったんだ。棚には洋書が入っていただろう。タイトルは”Parsing the Turing Test”。
これは昔クレアと私で買ったものなんだよ。なんでこんなに高い買い物をしたかわからないけど、悪ノリというやつだ。この本はいつでもここに置いてあるけど、部室に来ないメンバーはおそらく知らない。私に出題したつもりだったから、これはjournalの事を知っている人間にだけ解けるようにこのヒントにしたんだそうだ。
答えは、what’s this? は”turingtest”で、who am I ? は”claire”。一問目も二問目も、君は嘘をついた。turing testが何を指しているかも全て知っていて、見ないことを選んだんだよね」
「...」
「mikeが私だって、いつ気づいたのかな?」
「...」
「ヒントは常にありました。何度も見ていたはずでした。
まず僕が奇妙に思ったのは、mikeさんとの会話です。犯人をmikeさんだという証拠にするためにあの日僕は『話をそらした』という風に解釈して先輩に説明しました。でも話の流れからしておそらく素で『自分で書いたはずのまえがきの内容と、他人が書いたはずのあとがきの内容を間違えた』んだと思いました。
僕がそのことに触れた時、先輩、内心焦ったんじゃないですか?だって、自分でそれなりに時間を掛けて書いた文章と、数分間読んだだけの他人の文章を間違えるなんておかしいじゃないですか。
mikeさんは何かがおかしい。そう思って、色んな物を見返しました。
まずは名簿を確かめました。作成者は当然篠崎先輩ですよね。そして、名簿には所属とメルアドが記入されています。他の全員は大学のtochigi-uのメルアドなのに、乱場達郎のだけgoggle でだれでも簡単に手に入るものでした。
あとは、役職です。mikeが実在しなくても問題ないようなポジションになっている。そうですよね。
それに、記憶をたどってみても、僕は乱場達郎に会ったことが無いし、会ったと言っている人物は篠崎先輩しかいませんでした。
まさかと思いました。それで、部誌に乗っていたturing testのことを思い出しました。turing testというのは、ご存じでしょうが、要するに『コンピュータには人間の模倣をするだけの知能があるのか?』というようなお話です。篠崎先輩が得意な自然言語処理や機械学習、そしてアプリの知識があれば、乱場達郎という仮想の人間を作り出して、周囲の人間を騙せるかもしれない。
それで、ダメもとでパスワードに入力してみました。『これはなに?チューリングテストです』って。そして、どうやらそれは正しかったみたいでした。
本人はまだ気づいていないなら。こんなことをするのはクレア先輩しかいない。クレア先輩がなぜこんな事をしているのかはわかりませんでしたが、README2の内容からして、『あなたのチューリングテストは失敗に終わりましたよ』ってことを知らるためのリベンジだったんじゃないでしょうか、と思ったんです。どうやら当たっていたようですね。まぁ、そんなところです」
僕の演説を先輩は黙って聞いていた。
「気づいていたんなら、言ってくれたら良いじゃないか」
篠崎先輩はそういった。その視線は僕の方を向いていなかった。
「そうかもしれませんね。そうかも知れなかった、ですね」
「うん。言ってくれれば」
「言ったらどうだったかなんて分かりませんでしたよ」
「...」
「mikeと僕は今でも仲良しです」
「...そうだね」
「それに、篠崎先輩は頼れる先輩です。憧れの」
二つ上の先輩ってのは、結構遠い。下から見上げると、ずっと遠くにいるように見えて。隣に立つなんて考えられなかった。僕がビビってしまっただけだ。
先輩は一つ呼吸をして、
「mikeは憧れの先輩じゃないのかな」
と言った。いつもの、冗談を言う時の顔つきだった。
「mikeさんは愉快な先輩ですよ。憧れって程じゃないです」
先輩はふふっと笑い、僕もちょっと笑った。
結局僕は何も言わなかった。決定的な事は何も。
それで良かったのかは分からない。今でも時々胸が痛む。
あれから8年たった。会社にも慣れ、これからといった感じだ。先輩も都内で働いているらしい。いまでもTwotterで繋がっており、時折映画の話をする。
明日は先輩の結婚式だそうだ。
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[R.1] Editors: Epstein, Robert, Roberts, Gary, Beber, Grace (Eds.),”Parsing the Turing Test ”, Springer Netherlands,(2009).
あの日は先輩と不確定性原理の話をしたんだっけ 安藤啓太 @ketaando
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