SCHOLAE

時雨薫

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 制度としての学校が廃止されて半世紀が過ぎた。教育は医療の下位分野になった。それにもかかわらず旧態依然の教育に固執するのはいわば狂気だ。父はまさにそんな狂気の人だった。6歳のとき、父は私に教育前検査を受けさせなかった。玄関で父が児相の職員と揉み合っていたことをよく覚えている。それから私たちの家族は京都へ引っ越した。父の崇拝する「学園」が左京区にあったから。私は「学園」に入れられて教育福祉から隔絶された。そこでの「教育」は部屋に詰め込まれた同年代の子供たちに向かって大人が口頭で教授するという前近代的なものだった。あそこで行われた「教育」には薬などなく、精神的な努力だけがあった。そんな様子だったから、あそこには学習障害も天才もありえなかった。同じ制服を着せられた私たちはあくまで均質とみなされた。「学園」で、子供たちは静かに虐待されていた。

 「学園」を卒業した年に父が死んだ。葬儀の帰りに線香の匂いをまとったまま保健所へ向かい、12年分の教育カプセルを飲み干した。劇的だった。「学園」で構築してきた曖昧で入り組んだ知識とはまるで違う、検索性に優れ体形的な知識が形成された。簡単な検査を受けて点数をもらい、その点数に見合う就職先のリストをもらった。私の点数は上位40%といったところだったから候補にはそれなりに魅力的な名前が並んでいた。もっとも私はそのリストにあった無数の名前をそのときに初めて知ったのだ。インストールした知識体系からまだ一度も引き出したことのない情報を検索する感覚は新鮮で気味が悪かった。思案する私に保健所の検査員が声をかけた。彼女――背が低く肥満体の女性。父の対蹠点のような人物――は私に実験考古学の研究員という職を提案した。リストには無い職だった。保健所で渡されるリストは就きうる全ての職業を網羅したものではなく、それらのうちで特に人材を必要としているものだけが提示されるのだと検査員は言った。カプセルで得た知識の中にその事実は含まれていなかった。私の生い立ちを聞いて笑わなかった人物はこの検査員とあとに述べるもう一人だけだ。

 実験考古学研究室は学問の研究と伝承を担った「大学」という施設を再現していた。私の狼狽は並大抵ではなかった。本物の学校を卒業した直後に学校の再現に付き合わされるとは、何たる不幸か。すぐにでも辞めてやろうと思ったが契約上半年はそこに所属しなければならなかった。「大学」の教育方式は「学園」とおおむね同様だったが、学生の管理はずっと緩かった。受講できる講義の内容は拡張知識として購入できるものとおおむね同様だ。本来極めて高額なそれらを無料で手に入れられることは間違いなく美味しい話で、そんなメリットがあればこそ、私は辛うじて腐らずにいることができた。

 6月になった。講義は猛烈なペースで進み法学もラテン語も予復習が追いつかなくなっていた。実験は教室の外でも行われた。「学生」役たちは鴨川デルタに集まり飲み明かすことを要求された。実験のわざとらしさに醒めてしまってぼんやりアオサギを見つめていた私を研究員の女の子が会話に誘った。彼女も「学生」役だった。私は仕方なく観念して、話題を繋ぐために自分の生い立ちを語った。父の話だけはする気になれず、巧妙に隠した。大ウケだった。12年間の「学園」通いが滑稽で腹のよじれる話であることを私はこのとき初めて知った。しかし私を会話に誘った女の子だけは口を一文字に結んでうつむいていた。朝になり「学生」役たちが帰り始めるころになってその女の子が私に言った。

「ごめんね。みんな同年代の子とこんな風に集まるのが初めてなの。だからあんな風に笑っちゃってさ。許せないよね。ほんとうにごめんね」

私にはその謝罪の意味が全く分からなかった。女の子はそれから付け足すように言った。

「私、カプセル嫌いなの。それで『学園』に憧れて」

私は猛然と立ち上がり振り返らず去った。この感情を検索にかけてみたが、サジェストされたものはどれもピントがぼやけていた。

 その女の子が「大学」へ現れないことがしばらく続いた。研究員たちは互いに連絡の責任を押し付け合い、仕方なく私がそれを引き受けた。電話はつながらなかった。名簿に記載されていた住所へ直接赴いた。彼女の家は北大路通の二本裏にひっそりとあった。堂々たる門構えが並ぶ中で彼女の家はただ古めかしいという共通項のためだけにそこにあるようだった。貧相で不調和だった。女の子が私を迎え部屋へ通した。新しい本や古い本が乱雑に積まれていた。これほどの読書家がこの時代にいるだなんて、私は考えてもみなかった。窓からは遠くの方に「学園」の時計台が見えた。

「心配させちゃったよね。ごめんね」

私は彼女の謝罪にいくらかいらつきはじめていた。彼女の謝罪の対象はぼやけていて掴みどころがない。

「『大学』、来ないの?」

「行くよ。行きたい」

一階から激しい物音がして彼女の声をかき消した。「今日こそはお前の紙くずを捨ててやる」とつんざくような声。女の子は怯え固まってしまった。激しい震え、止まらない汗、焦点の合わない目。人間がこれほどの恐怖に陥る様子を私は見たことがなかった。部屋の扉を開け老齢の女性が現れた。私はその女性の前に立ちふさがり、じっと睨みつけた。女性は困惑し、「この原始人ども!」と吐き捨てて退散していった。また二人きりになった部屋で私は途方に暮れて女の子を見守るほかなかった。彼女は泣きながら私の手を取り、突っ立ったままの私の足へ抱き着いた。私はされるがままに求められつつ、窓越しに「学園」の屋根を見つめていた。

 第一セメスターが終わり私はいつでも「大学」を辞められるようになった。夏季休業で私はすっかり暇を持て余していた。家にはいたくなかった。というのも家にいる限りは母や、仏壇に祀られてなお一層存在感を増した父と向き合わないわけにはいかなかったからだ。暑い京都を離れどこかの湖畔で秋を待とうと思った。何にせよ金銭には余裕があった。軽井沢での滞在を決めたことを私はあの女の子に伝えた。一応は友人と呼べる仲かもしれなかったからだ。彼女は出発の前に一度会おうと言った。場所はデルタだった。

「夏が終わっても『大学』に来てくれるの?」

彼女が聞いた。私は答えられなかった。暑く、蚊が無数に飛んでいた。飛び石の周りで幾組もの親子や恋人たちが遊んでいた。しぶきが眩しかった。

「もっと他にまともな仕事を探すよ」

そうだよね、ごめんね、と彼女はまた謝った。私はもう彼女の形式的な謝罪に何も思わなくなっていた。

「植物園へ行こうよ」

彼女が言った。私たちは神社を抜けて北へ向かい、幼い頃から何度くぐったかわからない植物園の門をまたくぐった。私は私たち二人が二人とも、この狭い京都で育ってきたことに今更気付いた。接点は全然なかった。いいや、デルタへ遊びに行ったときだとか、出町柳のハンバーガー店で人を待っていたときだとか、商店街の端のあの目が痛くなるほど色鮮やかな果物屋で西瓜を買ったときだとかに、私は彼女と何度も何度もすれ違ってきたはずなのだ。しかし私たちは遂に互いを知ることがなかった。私が「学園」に通う一方で彼女はそうでなかったからなのか。

 バラの季節は過ぎ、蓮と向日葵が植物園の主役だった。

「軽井沢はいい所?」

「わからない。初めて行くから」

「軽井沢なんて、夢みたいで、羨ましいよ」

意外にも、彼女は自分の感想について謝らなかった。しかしその目に妬みの色はなく、ただ純粋な憧れがあった。

「私が『学園』に行きたかったって話、したよね?」

「うん」

私はどぎまぎしながら頷いた。この話題のために植物園へ誘われたのだと悟った。この女の子がこんな風に強くものを言えることを私は知らなかった。

「私、カプセルを飲んで形ばっかりの知識を得るのがすごく嫌だった。18になって保健所から就職先を紹介してもらったとき、私は検査員さんに頼んで『大学』に就かせてもらったのね。本当にカプセルだけで育った人はそんなことができるなんて知らないよ。私は私の力で学んで、保健所の仕組みを理解したんだ。それで『大学』へ来てみたらさ、見慣れた『学園』の子がいるからびっくりしちゃった。よく制服を着てあちこちで遊んでたでしょ? 私、見てたんだよ」

「見られてたんだね」

「うん」

 私たちは沈黙した。私は無数の感情が湧きあがりのたうち回るのを感じた。

「私にはわからないよ」

女の子が言った。

「私がずっと欲しくてたまらなかったものを、あなたは難なく手に入れて、手放していってしまう。すごく、不思議」

 私は軽井沢へ来ていた。行きの電車の中ではあの女の子の声が頭の中で何度も響き渡り、陰鬱な気分だった。しかし三日も経つと軽井沢の気候と空気が私を健康にした。私は歩き、走り、知り合った若者たちや老夫婦とテニスを楽しんだ。ある晩、ホテルのレリーフに刻まれたラテン語が滞在者たちの話題になった。”NUDUS ARA, SERE NUDUS” 「裸で耕せ、裸で種を播け」、ヘシオドスの言葉だ。私が訳してみせると客たちは笑った。どうしてラテン語がわかるのかと問われ「大学」について話した。客たちはみな私の話を興味深そうに聞いた。「あなたのそんなに楽しそうな顔、初めて見た」と気品の良い老婦人が言った。

 その晩の夢にあの女の子が出てきた。夢の中で彼女は「学園」の制服を着ていた。笑顔だった。実のところ私が忌み嫌ってきたあの制服こそが裸だったんじゃなかろうか。夢から覚め、朝の光の中で私はそう思った。それでもあの不合理な教育を手放しに肯定することは、私の子供時代の記憶が許さなかった。私は「大学」へ戻るという選択肢を考え始めていた。秋が来る頃にはきっと答えも出るだろう。

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