第3話

 あいをんさまを久しぶりに見かけた一週間後。

 またもバスが遅れて皆がイライラしているその日に限って、あいをんさまが居た。

 あいをんさまは皆の感情を読まずに、待っている人々に話しかけているように見える。

 こらえ、つとめて皆は気づかない振りをしている。

 しかし、一番前に居る中年の禿げあがったスーツ姿の人にあいをんさまが話しかけた時、それは起こった。


「いちいち煩いんだよ」


 男の怒りのボルテージが凄まじく上がり、持っていた鞄であいをんさまを殴りつける。


「昔からお前らの事が気に入らなかったんだ! 何があいをんさま、だ。こんな奴らを飼う為に俺たちの税金が使われてる事がむかついてたまらん! 国は一体何を考えてやがる、クソっ! クソっ!」


 何度も何度も、鞄をあいをんさまの頭に叩きつけている。

 書類がいくつも入っているであろう鞄は重く、その分痛いだろう。

 しかしあいをんさまは早智子が見た過去のものとは違って、ずっとしゃがみこんで頭を抱えて守っていた。

 足下から少しずつ、体は赤色に染まってきている。

 あいをんさまにもそれぞれの違いがあるだろう。

 かなり我慢強いように見えた。

 必死で衝動を抑え、堪えている。

 人からの攻撃を、甘んじて受けているのだ。

 だがそれでも、男は叩くのを止めようとしない。

 あいをんさまは体の半分まで色を赤く染めている。


 止めるべきじゃないか。

 今ならまだ、祖母のようにならずに済む。

 早智子は迷っていた。

 あいをんさまの力は凄まじい。

 ちょっと叩かれただけで、祖母の腕は千切れてしまったのだから。

 しかし、向かい側に行くにはバス停から離れた陸橋を使って渡らなくてはならない。

 遅れたバスももう少しで来ようとしている。

 その間に、ようやく男の周囲の人がやりすぎだと止めに入ろうとした。


「縺ゥ縺?@縺ヲ縺シ縺上r縺溘◆縺上s縺?縲?縺ェ繧薙〒縺ェ繧薙〒縺ェ繧薙〒縺ェ繧薙〒」


 その時、あいをんさまは跳ね起きるように突如として立ち上がり、黒い穴から凄まじい音を発し始めた。

 明らかに、我慢の限界を超えた様子だ。

 周囲の人間はあいをんさまから離れ、叩いていた男も思わずその手を止めてしまった。

 やがて叫び終えると、あいをんさまは叩いていた男の顔を同じように、平手で叩いた。


 ごぐりっ。


 鈍い音が周囲に響き渡った。

 いつか見たウルトラマンの怪獣のように頭は胴体に埋め込まれ、男はそのまま倒れる。

 手と足をばたつかせながら。


 それでもあいをんさまの怒りは収まる様子を見せず、目についた周囲の人たちにも襲い掛かり始める。

 顔面を殴られた人は円を描くように拳の範囲で顔を抜かれ、胴を蹴られた人は上半身と下半身が真っ二つに千切れてしまう。

 体当たりを受けた人は粉々に砕け散り、地面に血だまりが広がる。

 

 突然、阿鼻叫喚の地獄が展開された。

 バスはやってきたが、騒ぎでそれどころではなくなっている。

 車は止まり、あるいは走り抜け、渋滞が形成されてしまった。

 渋滞にはまった車を破壊しながら、あいをんさまはこちらに向かってくる。

 動いている人間がまだいるからだ。

 ここにいる人間たちが全て動きを止めない限り、あのあいをんさまの怒りと怯えは収まらないだろう。

 

 早智子は真っ先にバス停から逃げ出していた。

 鳥肌が体じゅうに立っている。

 とにかく距離を取って目につかない所に行かないとと思い、陸橋の方まで走っていく。

 今のあれに見つかったらおしまいだ。

 しかし、既にあいをんさまは周囲の人間をあらかた殺してしまっていた。

 あいをんさまは遠くに逃げた早智子の事を見てしまっており、物凄い勢いであいをんさまは早智子の方へと走っていく。

 とてつもなく速い。鈍そうな見た目なのに、俊敏さは陸上選手にも劣らない。

 

 陸橋の階段を昇り、ちょうど橋の真ん中まで来た所であいをんさまに追いつかれてしまう。

 早智子は自分がヒールを履いている事を心の中で呪った。

 パンプスならまだ走りやすいのに、と後悔する。

 とはいえ、あの速さではいずれどこかで追いつかれていただろう。


 あいをんさまは赤を通り越してどす黒い色に変わっている。

 顔の黒い穴からは蒸気機関車のような黒い煙を吐き出し、そのたびに耳をつんざく音を発している。

 

「縺翫∪縺医b縺シ縺上r縺溘◆縺上?縺九??縺溘◆縺上?縺」


 早智子に向かって煙を吐き出しながら、あいをんさまは両手を突き出して迫って来る。

 いつの間にか柵を背中にしていた早智子は、咄嗟にしゃがみ込んだ。

 掴まれたら終わり。

 その意識が早智子にその行動をとらせた。


「縺ェ縲√↓?」


 勢いあまってつかみ損ねたあいをんさまは、背の低い柵を超えてしまった。

 なんとか足を柵に引っかけて落ちる事だけは逃れたものの、足首だけではあいをんさまの重い体は支えきれそうにない。

 徐々にずるずると落ち始めている。


「蜉ゥ縺代※縲?蜉ゥ縺代※」


 あいをんさまの色はいつの間にか黒から青に変わっている。

 口から必死に怯えた音を出しながら、早智子の方に首を向けていた。


 早智子は落ちかけているあいをんさまの近くに寄った。

 あいをんさまは叫び続けている。

 誰が見ても助けを求めているのはわかった。


 早智子はそのまま、あいをんさまに何もせず陸橋を降りた。

 

「縺ゥ縺?@縺ヲ??シ」


 やがて足首が限界に来たあいをんさまは、そのまま落下して道路に叩きつけられる。

 それでもまだ生きてはいたが、あいをんさまの前に貨物トラックがやってくる。

 トラックは急には止まれない。


「縺ゥ縺?@縺ヲ??シ」


 流石にあいをんさまでもトラックの質量には勝てなかった。

 あいをんさまはトラックに轢かれ、ぺちゃんこに潰れてしまった。


「……あいをんさま、血は赤いんだな」


 早智子は独り言ちながら駅に向かう。

 道路がこれだけ混乱していると、もはやバスでは職場に間に合わない。

 多少歩く事にはなるが、電車で行く事にした。

 次の列車が来るまではもう時間がない。

 早智子はヒールで駆け出した。


 

 何とか遅刻しない時刻の電車に駆け込みで乗りこめた早智子は、あっと息を呑んだ。

 あいをんさまの集団が、車両の窓に張り付いて外を眺めている。

 一番前の車両に乗ってしまったのだ。

 

「鬧?¢霎シ縺ソ荵苓サ翫?縺翫d繧√¥縺?縺輔>」


 あいをんさまの集団は早智子が駆け込みで入って来たのを見て、白から赤にみるみる変わっていく。

 周囲には早智子以外の人間は誰も居なかった。


 早智子は咄嗟に電車から出ようとしたが、既に扉は閉まっていた。


「次は、御徒町、御徒町。お出口は左側です。都営地下鉄、大江戸線は、お乗り換えです」

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あいをんさま 綿貫むじな @DRtanuki

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