摩天楼よ、星は見えているか

藤光

摩天楼よ、星は見えているか

 零 尭


治天下五十年、不知天下治歟 、不知歟、億兆願戴己歟、不願戴己歟。

問左右不知。問外朝不知。問在野不知。乃微服遊於康衢。

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰

「日出而作、日入而息、鑿井而飲、耕田食、帝力何有於我哉」




 一 船長


 船橋ブリッジから眺める宇宙は、その内に小さなランプがいくつもいくつも無数に提げられた闇黒の巨大な球体だ。赤いランプは赤色巨星、白いランプは白色矮星、ぼんやり輝くのは遥か彼方の渦巻銀河だろうか。わたしは目の前に広がる星々の大海に向かって白い船員帽を放り投げた。


 小さな子供の頃から思っていた。宇宙船の行く手に差し伸べれば、この手に星々を掬い取ることだってできるんじゃないかと。そんな星々でいっぱいに満たされた銀河を宇宙船は秒速三六〇〇〇キロメートルで突き進んでいる。わたしたちの船は失われた旧世界を離れ、異なる恒星系に新天地を求めて、何世代にもわたる旅を続けている。船員としてこの船の航行に携わることは、幼い頃からの憧れであり誇りだった。白い船員帽はわたしと同様、この船橋から船と乗員を導いてきた歴代の指揮官がその次の指揮官へと代々伝えてきたものだ。

 帽子は、広くはない船橋の中空をくるくると回転しながら放物線を描き、星々はおろか船橋前面の窓にも届かずに床に落ちた。足元に落ちた帽子を拾い上げた甲板長ボースンが驚いてわたしを振り返った。

船長キャプテン、帽子が落ちました」

 彼は有能で忠実な部下だが、性格が真面目なばかりで面白くないのが欠点だ。

「知っているよ。わたしが投げたんだ」

 そんなわたしの言いぐさに戸惑っている甲板長に向かって、わたしはたたみかけるように言い、船長席から立ち上がった。

「甲板長にあげるよ。きみが船長になるといい」

 そういって船橋から出て行こうとするわたしを、甲板長があわてて押しとどめようとする。

「席へお戻りください、船長」

 もううんざりだ。わたしはずっとここで船とその航路を見守ってきた。最初の二十年間は甲板長として、その次の三十年間は船長として。

「わたしはもう船長をやめたいんだ」

 船長はこの船の指揮官であり、統率者であり、最高権力者だ。その船長の座を放り投げようというわたしは、いままでにいなかったタイプの船長かもしれない。目を白黒させるというのは、このときの甲板長の表情をいうのだろう。ぽかんと半ば口を開いたままで間抜けなことこの上ない。

「わたしは十分務めを果たしたよ。本日ついに、わたしが船橋乗務となって五十年だ。この五十年間、わたしは甲板長や船長として未知の航路に待ち受ける脅威を排除し、航行の安全を確保してきた。もちろん乗員の命を危険から守り、その生活が豊かとなるよう心を砕いてきたつもりだ」

 いつになくわたしは饒舌になっていた。

「航海は順調だ。予定の進路も守られている。でも、それだけだよわたしに与えられた評価は。この船橋に閉じこもっている限り、それ以外の評価を知りようがない。甲板長、きみとふたりこの船の舵取りをまかされて以来、船室から船橋にやってきた乗員がひとりでもいたかい」

「いいえ」

 甲板長は目を伏せて残念そうに言った。

 そうだ。わたしが船橋で働き始めてからこの方、船室から乗員が姿を見せたことは一度もない。それどころか航海士、通信士、機関士、甲板部員や機関部員、わたしたち以外の船員をだれひとり見たことがない。

 この宇宙船の進路を決定し、航路に沿って操船し、船内の秩序を維持するため乗員を統率し、その生活基盤を構築し、生命活動に必要なあらゆる物の生産計画を策定するのは、船橋に乗務する船員の任務であり、宇宙船に乗るすべての乗員から負託された権限である。その船橋に乗務する船員は、わたしと甲板長のふたりきりなのだ。

 ふたりきりででも船は進む。それは宇宙機としての性能面においても、効率的な人員の配置活用面においても、この宇宙船と船内制度が素晴らしいことの証拠かもしれない。しかし、わたしの心は落ち着かないでいた。

「わたしはこの船の乗員が、この船の進路や目的地についてどう考えているのか、わたしや甲板長の職務をどう評価しているのか知りたい。そのためには乗員たちの元へ行かければならないんだ。彼らの方からやって来ることはないのだから」

 黙ったまま、甲板長は手元の帽子に視線を落としているが、まだわたしの前に立ちふさがったままだ。

「恒星間航行宇宙船『ちきゅう』の船長として甲板長に命ずる。そこを退きたまえ。そして、船室への通路を開けるんだ」

 わずかに躊躇したものの「イエス・サー」と甲板長は機敏に動いて道を開け、コンソールパネルを操作して船橋と船室を繋ぐ通路の扉を開いた。

 扉をくぐる前に船橋を振り返ると、前方の窓の向こう側、甲板の前方からゆっくりと赤くて大きな恒星が姿を見せるところだった。こうした光景も下層にある船室へ降りてしまうと見られないかもしれない。

「船長」

 見ると甲板長が扉の脇に直立不動の姿勢で控えていた。

「帽子はお預かりします。どこに居られても船長は船長おひとりですから」

 さっさと船長を引き受ければいいものを。長い付き合いだが、こんな堅物とは知らなかった。もっとも甲板長もわたしがこんな跳ね返りとは気づかなかっただろうが。

 じゃあいってくると手を差し出すと、お気をつけてとその手を握ってくれる。わたしと甲板長はよいコンビだった。そして望むらくは、これからもそうあり続けたいものだ。

 こうしてわたしは、甲板長とただふたりきりの船橋を後にし、はじめてこの船の船室に足を踏み入れた。




 二 警官


 その日は朝から忙しく、ろくに食事をとる時間もなかったが、日が落ちて立ち並ぶビルの窓に明かりがともり始める頃になると、ようやく仕事も落ち着いた。窓越しにたくさんの自動車が行き来する大通りが眺められる執務机の上に近くのコンビニで買ってきたカップ麺を出して、さあ今日の昼メシ兼晩メシにお湯を注ごうかと腰を浮かせたときだった。

 交番の出入口が開く音がして、女性がひとり執務室に入ってきた。なんとも間が悪い。

「どうかされましたか」

 ぼくが尋ねると、女性はチラリと机の上の蓋が半ば剥がされたカップ麺を見はしたものの、それについては何も触れず(当然だ)「酔っ払いが道端で寝ています」とだけ言うと、逃げ腰のまま名前も告げず交番を出て行ってしまった。

 あわてて女性を追って通りに出、酔っ払いがいる場所を聞き出すと早速そこへ向かうことにした。しばらくカップ麺はおあずけだ、少し湿気るかもしれないが仕方ない。

 女性から聞いた場所まで小走りに急ぐ。空梅雨ではあるが六月の夜気はわずかに湿り気を帯びていて肌に絡みついてきた。今夜も仕事は途切れないのだろうか、額ににじむ汗をぐいと拭うと制帽を被り直した。

 ぼくが警官となってから二度目の夏がやってきていた。大都会の小さな交番に勤務する巡査は、目が回るかと思うほど忙しい。地理案内や交通整理、迷子の保護から盗難の届け出と次から次へと仕事が舞い込んでくる。ゆっくりと食事をとっている暇もない。今度は酔っ払いか。早く片付けて晩メシにしないと体がもたない。

 しばらく行くと、大通り沿いのコンビニの前に掛かっている歩道橋の支柱にもたれかかってうずくまる男がひとり見えてきた。あれ?

 ――船長か。

『船長』は最近このあたりに現れるようになったホームレスのあだ名だ。ぼくはまだ会ったことはなかったが、交代番の先輩巡査から話は聞いて知っていた。

 あだ名の由来は、男が羽織っている船員服。濃紺のダブルブレストジャケットの袖に金色の四本線は、この船員服が船長のものであることを示しているとその先輩から教えてもらった。もっとも肝心の服は汚れ、擦り切れてほとんどまっ黒色になってしまっていだが。

 すぐそばにしゃがんで、船長――と呼びかけると男は薄く目を開けた。酒臭はかすかで、飲んではいても泥酔して倒れているわけではなさそうだった。

「こんなところで寝るんじゃない。ねぐらはどこだい」

 日に焼けて黒い顔、伸びた無精ひげには白いものが混じっている。擦り切れた上着とほこりにまみれたズボンは、つんと鼻をつく匂いがする。あまり近寄りたくはないがこれも警官の仕事、給料のうちだ。

「何かと思えば巡査か。はじめて見る顔だな」

「そこの交番から来たんだ、送っていくぞ」

「そうか、じゃあ。その交番まで行こう」

 なにを言い出すんだこのホームレスは。交番になど連れて行きたくはない。そう考えて言いよどんでいると船長が重ねて言う。

「わたしは酒を飲んだ酔っ払いだ。どうも足元がおぼつかなくて、ねぐらまで戻れるか分からない。警官はこんな酔っ払いを見つけたら、交番で保護しなければならないのではないのかね」

 このホームレスがそんなに酔っているとも思えなかったが、酔いの程度が外見から分かるものではないし、この男が言うことも間違ってはいない。むしろ放っておいてトラブルになりでもしたら、何もしなかったぼくの責任問題になりかねない。

 ぼくは、しぶしぶこのホームレス――船長を連れて交番に戻ることにした。振り返ってみると、彼はホームレスにあるまじき堂々とした態度、肩で風をきるような歩きぶりで後を付いてくる。その言うことには――。

「心配するな、朝には酔いも覚める。そうしたら出ていくさ」

 言われるまでもない。あんたが出て行こうとしなくても、ぼくが追い出すさ。

「あんた。船長って呼ばれてるんだろう」

 交番までは歩くと少し時間がかかる。どうして船員服を着ているのか興味があったので、話をそちらに向けてみた。

「そうだ。この船の船長だ。巡査ごときが気安く話しかけていい相手じゃあないんだぞ」

 男はにやにや笑いながらそう答えた。緩んだ口元から黄色い歯がのぞく。この船だって? どこにそんなものあるって言うんだ、この男ちょっと頭がおかしいのかもしれない。

「へえ。どんな船に乗ってるんだい」

 ちょっと調子を合わせてみることにした。

「だから、この船さ」

 わかるだろうと言わんばかりに、男は両腕を開いてみせるが、なんのことやらさっぱりだ。

「……。ぼくにはあんたの言う船は見えないんだけどね」

「見えないはずはない。きみの目の前にある」

 何もない。ぼくの目の前には、訳のわからないことを言ってぼくを混乱させる薄汚れた男がいるだけだ。

「だめだ。あんたが何言ってんのか分からないよ」

「無理もない。こんな星も見えない町に住んでいてはな」

 男がそう言うので空を振り仰いでみた。頭上に覆い被さってくるような高層ビルがひしめき合い、この辺りの空は狭い。おまけに都会の夜は明るく、コロナような地上光に遮られて星の光は人の目には届かない。

「だからなんだってんだ」

「続きは後にしよう、わたしは疲れた」

 そういうと男は口をつぐんでしまった。何を聞いても無言で先を促すばかり。

 ――勝手にしろ。

 男のことは無視して交番へ急ぐことにした。なにしろ食事がまだだ。用があるなら付いて来るだろう。

 歩きながら頭上を見上げる。林立するオフィスビルにはまだたくさんの明かりが灯っていた。不夜城という言葉があるが、まさにこの都会は夜がない。星を見たのはいつだっただろう、もしかしたらこの目で星を見たことなど一度もないのかもしれない、などと考えながらぼくは歩き続けた。




 三 ホームレス


 結局、船員服のホームレスは交番までやってきた。小さな執務室の椅子に腰掛けてじっとぼくの様子をうかがっている。ついて来たのならそれでいい、翌朝までいてもらって、酔いが醒めていようがいまいが、後は追い出すだけだ。そんなことより晩メシを食べよう。朝から何も食べないので腹ぺこだ。

 カップ麺にお湯を注ぎ、ラーメンが食べられるようになるまで待つ時間はなんだか間が抜けている。今夜のぼくはすぐそばにホームレスの視線を感じるからなおさらだ。

「手持ち無沙汰な時間だな」

 男に居心地の悪さを見抜かれたようで忌々しい。視線を合わせたくない。

「黙ってなよ。あんたと話すとなんだかおかしくなる」

 カップ麺の上に置いた重しの国語辞典を見るが、いくらこれを見つめたところで五分の待ち時間が一分になるわけではない。

「時間があるようなら、きみがおかしいと感じている事について、その理由を話してあげよう」

 そら変な方向に話が向いてきた。

「いいよ、どうせ分からないよ」

 訳のわからない話を聞かされるのはごめんだ。酔っ払いを交番で保護するまでがぼくの仕事の範囲だ。それ以上のサービスは勘弁してほしい。

「いいかい巡査――」

 残念ながら、ぼくの言うことは彼の耳に入らないようだ。

 ホームレスは話し始めた。


 古代中国の帝王にぎょうという人がいた、知っているかね。知らない? 巡査っていうのは意外と無学なんだな。とにかくずっと昔の中国の王だ。

 尭は王となって数十年たったとき、ふとこう思った。自分の治めるこの国は思ったとおりに治っているのかいないのか、人民は自分が王であることを願ってるのかいないのかと。


 ――尭は、さっそく側近に尋ねたが分からないという、役所の官人に尋ねても分からない、仕官しない在野の人にも尋ねたがついに分かるものはいなかった。

 すると尭は、身につけている衣服を庶民のものに改めて都の通りへ出かけていった。そこで尭が出会ったのはひとりの老人だった。彼は満腹のお腹を叩き、足で地面を踏み鳴らしながら楽しそうにこう歌って言った。

 日が昇れば仕事に出る、日が沈めば寝る。井戸を掘って水を飲み、畑を耕してメシを食う。帝の力など、どうしてわしらに関係あろう。

 これを聞いた尭は、自分の望んだとおりに国が治っていると気づいたという――。


 どうだい、よくできた人物じゃないか尭という人は。

 長い間骨を折ってきたのに、お前のやってきたことなど関係ない、わたしが楽しいのはわたしが楽しんでいるからだと面と向かって言われれば、為政者としては腹が立つのが当たり前だ。しかし、それをこそ良しとして、民に為政者を感じさせない統治こそ良い統治だと悟ったのが尭の優れたところだとされている。

 なんだその顔は。なに、なんのことを言ってるんだか分からない? よろしい話の先を急ごう。

 ――きみが暮らしているこの町は船だ。

 いや間違っちゃいない。実際、船なんだ。長い時間が経つうちに、きみをはじめ町の人たちは忘れてしまったようだが、ここは巨大な宇宙船の中に精巧に作られた大都会のイミテーションなんだよ。

 ここには二十世紀から二十一世紀の街並みが再現されている。立ち並ぶ高層ビルやこれらの間を縫うように走る高速道路、街角のコンビニエンスストアまですべてそうだ。

 建造物だけではない、人々の足となる自動車やオートバイ、身に付ける衣料品、摂取する食料品、マスコミなどを通じて流布する一過性のブームに至るまで、この町で起こることはすべて過去の模倣であり、かつて人類が消費してきた歴史をなぞっているに過ぎない。

 ずいぶん奇妙な表情をするじゃないか。信じる信じないはきみの自由だよ。

 ともかく、この宇宙船は腹に何百万人もの人々を町ごと飲み込んだまま、秒速三六〇〇〇キロメートルの速さで宇宙空間を疾走している。

 どこへって? きみは知るまいがケプラー1752という恒星系がこの船の目的地だ。二十一世紀半ばに複数の居住可能な惑星をもつことが確認された、人類にとっての新天地だよ。しかし、この船の速度をもってしてもケプラー1752へ到着するのは何世代も先のこととなるだろう。それほどまでに遠いところにある星だ。

 どこから? なんだね、わたしの話を信じる気になったのかね。

 もちろん母なる惑星『地球』からだと言いたいところだが、実際は太陽の惑星軌道上でこの宇宙船は建設され、銀河の深淵に向けて飛び立っている。

 本当だよ、嘘などつくものか。いや……、それは無理だ。我々のふるさとである地球はもうない。

 そう驚くこともないだろう。地球が無事なら、なにも不便な思いをしてこのような宇宙船で新しい恒星系を目指すことはないはずだ。すでに地球はない。太陽の爆発によって太陽系ごと宇宙から消滅している。もうずっと前のことだ。だからこそ、わたしたちは新天地を目指して旅をしているんだよ。

 さて、ここからが本題だ。きみはだれがこの船を動かしていると思うかね。そう。船なら乗組員がいるはずだ。彼らがこの船の進路を決め、操船している。


 ――ところで、わたしはだれだと思う?


 なんだ、はっきり口にしたらいい。船長――。そう、この船の船長かもしれないと思い始めたのじゃないのか。

 わたしは船長キャプテンだ。

 この船の進路を決定し、航行の安全を保障する義務を負った指揮官であり、船の安全を守る船員を統括し、数百万に及ぶ一般乗員の生命を守る統率者であり、この船のあらゆる機構、組織、それらの意思決定において絶対の権限を有する最高権力者であるのが『船長』だ。

 わたしがその気になれば、この船の進路を変えることすら可能だ。機首をブラックホールへ向けて地球同様、宇宙から消滅する道を選ぶこともできれば、銀河の辺縁へ抜けて暗黒物質に満たされた外宇宙を永遠にさまよわせることもできる。

 ただ、いまはそうしていないだけだ。

 考えてみたことがあるかね、自分が人類の生殺与奪を自由にできるということがどういうことなのかということを。何人も理解しえない重大な選択と残酷な決断を繰り返すことが、どう人の心を蝕んでいくかということを。

 ひとりを殺せば、もうひとりが助かるといったときに、きみならどうするだろう。かつて船内に深刻な感染症の流行が確認されたときのことだ。が五人だったなら? 百万人だったならどうだろう? 人の命というのものは、彼我の軽重を計ることができるものなのか。感染者のにためらいはなかった……。

 わたしはずいぶん長い間生きてきた。振り返ってみればよく分かるが、人生とは選択と決断の連続だ。そしてわたしの人生とは、この宇宙船を統治することと同義であり、それもまた選択と決断の連続であったと分かる。――それがより深刻で悩ましいものであったとしてもだ。

 古代中国の王、尭は老人が鼓腹撃壌こふくげきじょうするさまを見て、理想の政治を悟ったとされているが、わたしにはそうは思えない。事実として、老人のありさまが理想の政治を具現化したものであったとしても、わたしには受け入れられない。

 老人の太平楽が別のだれかの犠牲あってのものと知っているはずの尭は、それでもなお政治の理想をそこに見出したというのだろうか。

 わたしは、尭がこの後そのまま帰らなかったのではないかと思う。答えを探して町を、田を、野をさまよい続けたような気がする。

 奇しくもというべきか、案の定というべきなのか、わたしは今、尭の身に起きたことをどう評価すれば良いのかを考え続けている。

 この船の人々は、自分たちのなすべきことを忘れ、見失ってしまっている。船のことも、その目的のことも忘却して、目の前の安逸と虚構を貪っているように見える。

 きみは何者だ? ここは何処だ? 真剣に考えてみたことがあるかね。きみのその確信がどこの何に由来するものかを。そして、その基盤が揺らいだときの堪らない寄る辺なさを。

 言うまでもなかろうが、この町――われわれ船橋乗務員が船室と呼ぶ、何重もの隔壁によって過酷な宇宙環境から守られている人類の箱舟――の人々が、船橋からやってきたわたしの話に耳を傾けることはなかった。目も耳も偽りで塗り固められているからだ。そして、情けないことに彼らをそうしたのはわれわれ歴代の指導者であるのだ。

 これがあるべき人類の姿なのだろうか。この町へ来て以来、この問いがわたしを苛み続けている。われわれは正しかったのだろうかと。

 なあ、きみ。教えて欲しい。


 ――わたしたちがしてきたことは正しかったのか。そして、わたしは船長を続けてよいのだろうか。


 ホームレスが出て行った後の交番はなんだかがらんとして寂しくなった。すでにカップ麺の容器は空っぽで、執務室の窓ガラス越しに見える狭い空は、わずかに白々と明けはじめている。ずいぶん時間が経ったのだ。彼はもういない、どこに行ったのかも知らない。

 ぼくは彼のことをどう考えればいいのだろうか、少し混乱していた。

 彼の問いかけに、ぼくは答える言葉を持っていなかった。ぼくへの問いかけだけがここに――、ぼくの頭に残された。

 いや、混乱しなくていい。彼の言っていることは嘘だ。頭のおかしなホームレスでまかせに言っていることだ。

 まだ夜だから変な思いに囚われたりするんだ、朝が来れば、光が差して明るくなれば、いつものように忙しいけれど、愉快で楽しい一日が戻ってくるはずだ。いつもと同じ一日が。

 少し眠ろう。

 そうすれば面倒なことは忘れてしまえる。きっと。




 四 甲板長


 船橋の窓から眺められる星々は同じ場所に止まっているようでいて毎日僅かずつではあるがその位置を変えている。ここで流れる時間は緩慢だと、いつも船長は話していた。

 船長がここを出ていってどれくらいになるのか、数日なのか数年なのか定かではない。ここでは時の長さというものがあまり意味を持たないのだ。

 われわれが成し遂げようとしているこの旅は、人の一生に比して長過ぎるため、人間がその時間的、空間的な長短を実感することは不可能だ。

 結果、人々はいまが旅の途上であることを忘れ、同じような毎日を消費するように暮らしているという感覚しか持ち得なくなってしまう。

 確固とした意志を持ち、目標に向かって進むことができているのは、ただこの船だけなのかもしれない。

 なすべきことを見失い、彷徨っている何百万もの人間を抱えた宇宙船がまっしぐらに目的地を目指して宇宙空間を疾走している――。


 少し眠ろう。

 航海は順調だ。そして、なすべきことは多い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

摩天楼よ、星は見えているか 藤光 @gigan_280614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ