第13話 生態系の頂点③

 三日目の朝は、いつにもまして空がどんよりとしていた。寒さが一段と厳しいが、まだ凍傷の心配をするほどではない。ここからクラスノヤルスクまで、もうすぐそこだ。それまで昨夜、ザハールが言った通り、今日も気が狂うほどの木々の間を行くことになる。

 テントを畳み、たき火の始末をしてそりに乗る。森には、昨夜の雰囲気がすっかり消えていつも通りになっていた。木々の間を、小さな何かが動く影が見えた。正体が分かる前に森の奥へとかき消えて行った。

 この日は何事も無く二つ目の防塞へ辿り着いた。昨日の川で遅れた分を取り戻すために長く走ったから、辿り着くころには陽が沈みかけていた。

 二つ目の防塞は山小屋のような外観だった。壁を見ると、新しい部分とそうでない部分があり、何回か改築されたらしい。煙突もついていて煙を吐き出していた。納屋もついていて、馬が二匹繋がれている。先客がいるらしい。

「グレーフ、トナカイを頼む。ユーリ、来てくれ」

 ヴァシリは銃を手に防塞の扉をノックした。

「旅人だ、入っていいか!」

 少し間を置いて扉が空いた。髭を生やした男だった。年は中年を過ぎたあたり、身長はヴァシリよりも少し低い。顔つきはモンゴル風で、服装を見る限りはこの辺りの原住民のようだった。警戒した目つきもユーリを見ると和らいだようだった。子供連れの盗賊などいないからだ。

「あと三人いる。中に入ってもいいか」

「ああ、入れ」

 今回の防塞は一昨日のものよりもちょっぴり豪華だった。中は煤けていないし床には毛皮が何枚か引いてあった。空き部屋もいくつかある。

「助かります」

 ヴァシリが代表して礼をいい、皆が装具を解いた。

「礼はいらん。ここは誰のものでもないだろ」

「私はヴァシリと言います。あなたは」

 男は「デルス」とだけ言うと、デルスはそのまま暖炉の前に座った。

 ここまで書くとデルスは無愛想な奴だと思うかもしれない。しかし、ヴァシリが夕食の準備をし始めると「それは何の肉だ」とか、パンを食べれば「パンか、何だうまそうだな」と、何かとちょっかいをかけてくる。ウォッカを飲ませたらもう止まらなかった。

 デルスはクラスノヤルスク周辺に住んでいるモンゴル民族を起源とするブリヤート人だった。狩りで生計を立てていて、度々この防塞を使っているという。納屋の増築や補修もデルスとその仲間で夏にやったものらしい。

「お前らはどこから来たんだ?」

「私とグレーフはイルクーツクです」

 イザークが答える。

「ああ、バイカル湖か。あそこにゃ妹夫婦が住んでんだ。そんであんたらは?」

「ヴィーチェ・ドラスク」ヴァシリが答えると「悪いが知らんな」と、デルスが言った。

「ここから北に三日ほど行ったところです。まだ出来たばかりの町ですから、あなたが知らないのも無理は無いでしょう」

「北、北は怖い」

 デルスが頭を前後に揺らしながら言う。もうかなり酒が入っているようだった。

「どうして?」と、ヴァシリ。

「北には悪魔が出る。そら恐ろしい悪魔だ。俺がまだ子供だった頃に俺は一度だけ、父と悪魔を見た。老木のように大きくて、翼が生えて、口から火を出す悪魔だ」

 ヴァシリ達にはその悪魔に心当たりがあった。

「はっはっはっ、ご安心召されよ老人! そのような悪魔はこのオリガ・アントヴァナ・ペレスベータが退治してやるわ!」

 くわっ、くわっ、くわっ、とオリガが高らかに笑った。

「悪魔は本当にいる」

「まぁ、待ってくださいデルスさん。疑っているわけじゃないんです。実は私たちはあなたのいう悪魔に村を襲われました。ですが、ちゃんと我々で退治して今ではちゃんと平和に暮らせているんです。この子が―――」

 そう言ってヴァシリがユーリの方を見やると、ユーリは既に毛皮にくるまってぐっすりと寝ていた。

「悪魔が現れたときはな」

 ヴァシリの言葉をデルスは無視して「トラに獲物を捧げて祈るんだ。俺たちは昔からそうしてきたんだ。トラは森の精霊なんだ。あんたらに精霊の加護が………」

 デルスはそう言って毛皮へゆっくりと横たわり、いびきをかき始めた。

「おいおいデルス」と、ザハールが声をかけたが返事は無い。

「まったくしょうがない奴だ」

 それを合図にみんなも寝ることにした。



 翌朝、ヴァシリが起きるとデルスの姿は無かった。一声かけてくれてもよさそうなものだが、自分たちを起こさないように配慮したのだろう。

 ヴァシリがそう思って朝食の準備に外へ出ると、

「ヴァシリ!」

 デルスがウサギを抱えてやってきた。昨日、仕掛けた罠で捕まえたという。

 朝食はデルスが捕まえたウサギでシチューを振舞ってくれた。

「今日は嫌な風が吹くな」

 シチューを食べながらデルスが言った。

「気を付けた方がいい」

 朝食を終えて、トナカイの準備をする。デルスにはお礼にウォッカとパンをわけた。彼はもう少しこの防塞を拠点、まだに狩りを続けるつもりらしい。

「じゃあな、デルス。元気でな」

「ああ、あんたらも元気で」

 デルスに別れを告げ、ヴァシリ達が出発した頃には随分と時間が経ってしまった。

「面白い奴だったな!」

 グレーフが言うと全員が笑い声で同意した。



 ザハールが言う所によると、防塞からクラスノヤルスクまでは目と鼻の先だという。到着まで四日の予定が今日で六日目になっていた。もっとも、その程度の誤差は最初から想定の範囲内だった。最悪、あと二日程度なら何とかなる。現場で誰かと待ち合わせているようなこともないので、そういった意味ではストレスの少ない旅と言えた。「この分だと昼前には着きますぜ」と、ザハールは言う。

 しかしヴァシリはデルスの言葉が気になっていた。天気も昨日から引き続いて怪しい。

 このヴァシリの予感は的中した。出発から一時間後、吹雪が始まった。更に風に積雪が舞い上がって視界が悪くなっていった。

 ホワイトアウトだ。

「ザハール!」

 先頭を走るザハールに呼びかける。少し前までは見えていたそりも今は完全に見えなくなっていた。

「ザハール! グレーフ! そりを止めろ!」

「聞こえてます! 大丈夫です! あんたのトナカイが見えてます!」

 ザハールの返事が返ってくる。

「ユーリ! 少佐!」

 ヴァシリが呼びかける。

「こっちもトナカイを止めた!」

 ユーリからの返事を聞いて、ヴァシリはそりを降りる。白い闇に囲まれて、方向は既に分からなくなっていた。この状況はどれくらい続くのだろうか。一時間か、半日か。いずれにせよ、そりの上で雪がやむのを待つよりはテントの中で待った方が体力も温存できるだろう。すぐに雪が晴れたとしてもテントを片付ける手間が増えるだけだ。

 彼らはトナカイの手綱を手近な木に繋いで三つのテントを張った。テントにはそれぞれザハールとグレーフ、ヴァシリとユーリ、そしてオリガが入る。

「これは下手をするともう一日かかるか………」

 そう言ってヴァシリがテントに毛皮を放り投げて入ろうとしたとき「ヴァシリ」ユーリに呼び止められた。

「何だ?」

「オリガがいない」



 そりが止まり、オリガがまどろみから覚めると辺りは真っ白になっていた。

「何だ、着いたのか」

 オリガが言うとユーリがそりから降りて「まだに決まってるだろ。視界が効かないから一度止まったんだ」と呆れたように言った。

 決まってるだろ、とは何だ。オリガは憤慨した。この白い景色の向こうにクラスノヤルスクの街並みが広がっている可能性もあるだろう。まったくユーリはせっかちで困る。

「少佐、テント降ろしてください」

 ヴァシリが言った。白くて分かりにくいが彼はもうテントを小脇に抱えているようだった。

「大尉、どうしてテントを組み立てている? まさか今日はここで野営か?」

「わかりません。とりあえず吹雪が止むまで、行動は一時休止です」

「すぐ止んだらどうする?」

「すぐ止んでもテントを片付ける手間が増えるだけですから」

「うーん、めんどいのう」

 しぶしぶテントをそりから降ろしてオリガも組み立てる。視界はその間にも悪くなり、手元さえも見えなくなってきた。おまけにかじかんで指も動かなくなってきている。こんな苦労をするのであったら、そりも馬車のように天蓋をつけてはどうか。

「おお、名案じゃないか。帰ったらアーニャに相談してみるとするか」

 テントを組み立てる。中に布と毛皮を敷いて完成だ。故郷ニジエ・ノヴコロドの屋敷と比べて粗末で小さいが、一国一城の主! という感じがした。

「自分で作ると愛着が湧くなぁ」

 とりあえず中に入ってみる前にトイレへ行くことにした。白くて分かりにくかったが、運よく森へ辿り着き、用を足し、雪で拭いてテントへ帰る。だが中々テントに辿り着かない。

 行きは焦ってるから距離が短く感じたんだろう。そう思ってどんどん歩くが一向に辿り着かない。十分ほど歩いたところで「もしかして私、見当違いな方向に歩いてるんじゃないか?」と疑念を抱き、二十分ほど歩いたところで「いやいや、そんなはずはないだろう」と思い直し、三十分で「私、どうやら迷ったな」という事実をようやく認めた。

「ヴァシリ大尉! ユーリ!」

 大声で呼んだが聞こえるのは風の音だけだった。

「ふむ、まぁ歩いていればどこかへ辿り着くだろう」

 少なくとも何もない所で立ち往生しているよりはましだ、と森の中を進んで行く。次第にあたりは暗くなる。そういえば明かりになるようなものも持ってないな、と考えて愕然とした。兵士の癖として銃とドラゴン退治のグロムを持ってきてはいたが、食料を持ってないのだ。どこかに着くまで飯抜きか! 少しがっかりしてオリガは歩き続ける。

 次第に寒くなってきた。たき火の道具も毛皮も無い。

 ん? 待てよ、もしかしたら凍死の危険もあるんじゃないか?

 ここで初めて、オリガは事態の深刻さに気が付いた。

「誰か、誰かー!」

 森の中を走る。辺りは白一色で一寸先も見えない。おかげで「あでっ!」オリガは木に額をぶつけてしまった。雪上に倒れる。額に手をやるが、帽子のおかげか怪我は無かった。

 私が死んだら父は悲しむだろうか、悲しむだろうな。

 オリガは膝を抱えて考える。

 友達も悲しむだろう、乳母のナターシャやヴァシリやユーリ、レオニード、アーニャ、凄く盛大な葬式を上げてくれるだろう。でも死因が凍死か、どうせなら戦場で両手を広げてかっこよく死にたかったなぁ。死ぬ理由も友軍を逃がすためとかで、その前にイケメンのスパイとロマンスがあったりして、そういう風に死にたかったなぁ。そういえば今朝のシチューは美味しかった。葬式にはデルスも呼ぼう………。

 そのとき、吹雪が一瞬だけ止んで近場に洞窟が見えた。あそこなら一夜をしのげるかもしれない。オリガは立ち上がって洞窟へ入った。風も吹雪も洞窟の中までは入ってこなかった。

「うう、寒い」

 オリガは銃とグロムを置いて帽子を脱ぐ。そして洞窟に無造作に積まれた毛皮の山を発見した。

「助かった、何でか知らんが毛皮がいっぱいあるぞ。これも神の思し召しか」

 と言って帽子を脱いで、トラの毛皮へもぐりこんだ。

「おお、心なしか温かい………」

 さっきまで誰かが寝ていたのかな? 昼間の疲れもあってオリガはすぐに眠りに落ちていった。



 雪の上を五つの黄色いモコモコしたものが転がる。それは在りし日のオレーシャの子供たちだった。この光景を見るとオレーシャは幸せな気持ちになった。今見ているのは夢だ、彼女にもその自覚がある。だけれどこうしてみると、むしろあの悪夢のような現実こそが夢に思えてならなかった。

 オレーシャは目を覚ます。腹の下でガブリールがもぞもぞと動いた。もしかしたら寝ている間にのし掛かってしまっていたのかもしれない。姿勢をずらすとモゾモゾと黄色い毛並みをした知らない動物が這い出してきた。

「ウガア!」

 驚いたオレーシャは天井まで飛び上がり、頭をぶつけ、受け身を取るのを失敗して地面に背中から落ちた。落ちた先には運悪くガブリールの尻尾があった。

「キャン!」

 ガブリールが悲鳴をあげた。

「おっ、何だ何だ? 毛皮の持ち主か? すまないが一晩借りたぞ」

 オリガが起き上がる。

「しかし何だってこんな場所に毛皮を保管してるんだ? 誰かに盗られたらどうする」 オリガが起き上がる。まずオレーシャを見て、ガブリールを見やり、最後にボリスを見た。

「いかん」オリガが言う。「猛獣に囲まれた」

 トラ、オオカミ、クマ、この三匹に取り囲まれてはさしものオリガも身動きが取れなかった。しかしうかつに動けないのは三匹も同じだった。オレーシャとガブリールは威嚇するタイミングを失い、新参者のボリスは状況が把握できなかった。

 しまりの無い緊張感の中で睨みあう一人と三匹、この中途半端な睨みあいを終わらせたのは巨大な足音だった。洞窟全体を揺らすほどの足音に、オリガは猛獣に囲まれていることも忘れて外へ飛び出した。オレーシャとガブリールも後に続いた。ボリスは体の痛みにまだ動けずにいた。

 昨日の吹雪は既に止んでいた。足跡のない雪の原、その向こうを一匹の動物が向かってくる。周囲の木々と比較しても巨大な体は蛇に二本の足を生やした姿をしていた。蛇型のドラゴン、リンドヴルムである。執念深いこのリンドヴルムは昨日、ボリスにつけられた首周りの傷の恨みを晴らすべく追跡を行ってきたのだ。

「グルルルル」

 オレーシャは唸り声をあげた。これがリンドヴルムとオレーシャたちの決戦となるだろう。今度こそ、逃げ場はなかった。リンドヴルムは邪悪な笑みを浮かべ、どうやって獲物を嬲り殺そうかと思案しているに違いなかった。リンドヴルムが巣の五メートル前でその速度を増した。動物特有の、相手の力を測る威嚇もにらみ合いもない。絶対強者であるが故の余裕、しかし今日は違った。

「ふわっ、はっはっはっ! 現れたなドラゴンめ! このオリガ・アンヴァナ・ペレスベータが成敗してくれよう!」

 オリガはユーリからもらった竜火に黄燐マッチで火をつけてリンドヴルムに投げつける。マグネシウムと酸化鉄で出来た竜火は、テルミット反応を起こして激しい閃光と共に最大一千度を超える温度域にまで到達する。熱を忌避するリンドヴルムは慌てて急停止するも雪に滑って間に合わない。この恐ろしい武器を胴体へまともに食らってしまった。

「ギャアアア!」

 リンドヴルムがのたうち回る。体を雪にこすりつけるが、マグネシウムと雪が反応して激しく燃え上がるばかりだ。胴体を燃やしながらリンドヴルムが逃げていく。

「くっ、逃げるか。あの速さは追えんな」

 オレーシャはこの不思議な生き物が放った火で、リンドヴルムが逃げていくのを見た。そしてこの生き物はどうやら自分たちをいじめる気配はなさそうだった。一晩、自分の毛皮の下にいるだけで何もしてこなかったのだから、味方になってくれる公算は高かった。

「くーん」

 文字通りオレーシャはオリガに擦り寄った。

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