第12話 生態系の頂点②

 話は五日前に遡る。

「広げるまでも無い。リンドヴルムの脱皮した皮だ」

 イルクーツクから来た商人が防塞でその巨大な皮を広げる前に、ユーリは事も無げに言い放った。

 ユーリ、ヴァシリ、オリガ、アーニャ、レオニード、それに商人のザハールを加えた六人は暖炉を中心に椅子に座っていた。ザハールは広げるまでも無いと言われた大きな白い皮を広げてご満悦だった。禿げあがった頭、痩せぎすの体は暖炉の光に照らされて、影が不気味に揺らめいた。ザハールはヴィーチェ・ドラスクに魚(オームリ。鮭の一種)の燻製の納品に来る前に立ち寄ったクラスノヤルスクで地元民から物珍しさでその皮を買ったのだった。

「これもドラゴンか」

 ヴァシリが言った。

「蛇みたいね」アーニャが言うと「ぞっとしねぇな。俺、蛇は嫌いなんだ」と、レオニードが首を竦める。

「手ごわそうな奴だ」

 オリガが眉間に皺を寄せた。

「いや、実際には大したことは無い」

 ユーリが説明する。

「その皮は不完全だから全体像が掴めないだろうが、実物は体長十メートルの大蛇型のドラゴンだ。生まれたときは四本足だが、後足は次第に退化して成体になるまでに消失し、前足だけが残る。翼は無い。ようは足の二本生えた蛇だ。一日に必要な金属量が少ない分、こちらでの適応力は高いが熱に弱い。極端な話、夏場なら一時間地上に出るだけで死ぬ」

「じゃあ、夏の間はどうしてるの? ドラゴンの世界にも夏はあるんでしょう?」

 アーニャが質問した。

「夏の間は北へ向かうか、地下に潜って眠る」

「冬眠ならぬ夏眠だな」

 と、ヴァシリが言った。

「ザハールさん、クラスノヤルスク付近で被害などはありましたか?」

「いえ、聞いてないですなぁ」

 ザハールはドラゴンの皮を丁寧にしまいながら答えた。確かに人間がドラゴンに襲われたなら、ザハールもこれほど呑気にはしていないだろう。それにクラスノヤルスクはシベリアとモンゴルの玄関口、町全体が要塞化され、駐屯している兵の数も多い。そこがドラゴンの襲撃を受けたならこちらにも連絡が行きそうなものだった。

「何度も言うようだがドラゴンは基本的に人間を襲わない。リンドヴルムの活動は冬季だし、火を極端に嫌うから松明を持った夜警に巡回させるか、かがり火を絶やさなければ襲われる心配はないだろう。ただ、今言ったようにリンドヴルムが一日に必要な金属や食物は他のドラゴンと比較して少ない」

「というと?」

 ヴァシリが先を促す。

「『こちら』に定着しやすい。食物が少ないとはいえ、その量は他の動物に比べて莫大だし天敵もいない。この辺りの生態系は大打撃を受けるだろう。今はまだ何の影響も無くても、そのうち家畜に被害が出るかもしれない。最後はなりふり構わなくなって人間を襲うだろう」

「ふむ、今こそ我らドラゴン対策部隊の出番と言うわけだ。」

 オリガ少佐が立ち上がり、勇ましく言った。

「たった二人に現地顧問一人の軍隊だけどね」と、アーニャが呟く。



「それで、まずは何から手を付ける?」

 ヴァシリ広間のテーブルにシベリアの地図を広げた。ところどころ空白で、距離も正しいとは言えないが集落の大体の位置関係と川の流れが記載されている。

「まずはあの商人が来たところから調べよう」

 ユーリが言った。

「確かクラノス………」

「クラスノヤルスクだな。エニセイ川を遡ったところにある町だ」

 ヴァシリが補足した。エニセイ川を辿っていくなら船が一番簡単だった。だが生憎、この時期では川が途中で凍っている可能性が高い。

 そこで移動手段に、そりをトナカイに引かせることにした。

 ヴィーチェ・ドラスクからクラスノヤルスクまでは、おおよそ約六四〇キロメートルほどの距離があった。トナカイは平時およそ時速八十キロほどのスピードで走ることが出来るが、そり、荷物、人員の重量を考えるとせいぜい時速五十キロと思われた。走行できるのは夜明けの午前六時から日没の午後四時までと考えると最低二日、道の状況によってはこれよりも長くかかることになる。事実、ザハールもトナカイぞりでクラスノヤルスクからヴィーチェ・ドラスクまで来ていた。ここまで来るのに四日かかったというから、その辺りが数字としては現実的だろう。

 あくまで天候次第だが、ザハールの予定では今日、明日を休養と準備に当てて明後日に出発するそうだ。彼らは来た時と同じく、クラスノヤルスクを経由してイルクーツクへ戻るというので、ヴァシリはザハールに帰るついでの道案内を頼むことにした。ザハールも人数が多ければ旅も安心だというのでこころよく引き受けてくれた。



 二日後。

 天候は晴れているが、厚い雲がポツポツと浮かんで時折、太陽を覆った。あまり太陽が出ていると光が雪に反射して目が炎症を起こす、いわゆる雪目なってしまう。ヴィーチェ・ドラスクとクラスノヤルスクまでの長い距離を考えると、出発の初日はまずまずの天気と言えるかもしれない。

「村の事は頼むぞ」

 ヴァシリはアーニャにそう言って、御者の席に着いた。

「気を付けて」と、アーニャ。

 レオニードがそりの後部で荷物をそりに括りつけていた。食料、水、燃料の薪、衣類に武器だ。トナカイとそりはそれぞれピトゥーフ農場から二つずつ用意され、トナカイ一頭につき一つのそりを引くことになっている。オリガはそりの一つに乗って、トナカイの手綱を握りながら船をこいでいた。もう一つのそりにはヴァシリとユーリが二人で乗る予定だ。力の強いトナカイでも荷物を載せて三人は厳しいし、かといって頭数を増やせば狭い森の中でコントロールが難しかった。

 彼らは村の外で出発の準備を整えつつあった。前方では既に支度を終えたザハールと付き人のグレーフが、朝の談笑を楽しんでいた。

「よし、こんなもんでいいだろ」

 レオニードが荷をそりに縄で括り終えた。それから「しかし、ドラゴンが途中で出るってことはないのかい」と心配そうに訊いた。

 その可能性は否定できない、が限りなく低かった。ユーリが何度も言うようにドラゴンは状況が切迫しない限り人間を襲うことはまずない。それにこの広いシベリアで偶然でもドラゴンに遭遇する確率が極めて低いことは目撃証言の乏しさからも分かるだろう。万が一、ドラゴンが近くに接近したとしてもドラゴンの方からそれを避けると思われた。

「すまない、待たせた」

 ようやくユーリが現れた。大きな革袋を背負っている。

「ああ、おはようユーリ」

 ヴァシリが言うとレオニードも気付いて「おお、ユーリ。おはようさん」と答える。「ん?」オリガも起き出して「おお、ユーリか」

 ユーリはヴァシリのトナカイぞりに乗り込んで、革袋から丸いものを取り出した。

「一応、一人一つこれを持っておいてくれ」

「これは?」と、ヴァシリが訊ねる。「導火線が付いているところを見ると爆弾のようだが………」

「ちょっと違う。龍火と言って、爆発はしない。どちらかというと閃光弾に近いな。こいつに火を点けると雪の上でもよく燃える。ドラゴンの火と同じ原理だ。この前のワイバーンの内臓から作ったんだ。これに火を点けて投げればリンドブルムを追い払える。危ないときに使ってくれ」

「ほう」

 オリガが太陽にそれをかざした。

「ただ、普通の火薬よりも水と湿気に弱い。その点だけは気を付けてくれ」

「そろそろ時間ですが、出発しますか?」

 ザハールが言った。

 ユーリは「ああ、すまない」と頷いてヴァシリの隣に座る。

「こっちの準備は大丈夫だ! 行ってくれ!」

 ヴァシリが叫ぶと「分かった!」と、グレーフが答えた。手綱を引っ張ってトナカイに合図する。そりがゆっくりと動き出す。旅が始まった。

「待って待って待って待って」

 オリガのそりが、くの字を描いて大きく反転した。前途は多難だった。



 森の中をそりで走る。道はザハールの後に付いていくだけだし、そりは馬みたいに揺れないので、その点は快適だった。一方で少しカーブするだけで、遠心力でそりが木に激突したり、荷物ごと投げ出されそうで気が抜けなかった。

「でも、トナカイって思ったより早いな。馬よりも早いんじゃないか?」

 オリガが言うと「いつもと視点が違うからそう感じるんじゃないかな」とユーリが言った。どうもオリガはトナカイと相性が悪いらしく、出発してすぐにユーリがオリガの隣で手綱を握ることになった。

 クラスノヤルスクまでには防塞が二つある。防塞というのは敵の攻撃や侵入から身を守るための砦や柵のことを言うが、ここシベリアでは少し大きな山小屋と考えて差し支えない。初期のシベリア開拓は途中に防塞を作りながら行なわれ、今ある村や町は防塞を中心に発展してきた。ヴァシリたちの住んでいる防塞は後者を指す。

 だが今はそれより防塞が二つしかない点に注目して欲しい。

 クラスノヤルスクまで四日かかるとすると、残り二泊はどうしてもテントを張って野宿になる。ヴァシリも軍隊生活で野宿には慣れているが、シベリアの冬が不安でないと言えば嘘になる。

 まぁ、ザハールやグレーフが無事だったんだ。俺たちも大丈夫だろう。うだうだと考えても、今更どうにもならない。

 ヴァシリは思考を切り替え、手綱を握りなおしてユーリに大声で呼びかける。

「ユーリ! リンドヴルムは夏眠するんだろう? 夏まで待って、寝込みを襲うってわけにはいかないのか!」

「それもありだ!」

 ユーリが大声で答える。距離があるから大声を出し合わないと聞こえなかった。

「夏眠中に巣穴の入り口に油をかけて火を点ければそれだけでリンドヴルムは死ぬ!」「じゃあ、別に今、クラスノヤルスクへ行くことはないんじゃないか!」

「状況による! 冬の間に被害が出るかもしれない! どの道、調査は必要だ!」

「そうだな!」

 結局、俺たちはクラスノヤルスクへ向かう運命なんだ。そう考えるとヴァシリも諦めがついた。

 この日は何とか防塞に辿り着くことが出来た。この防塞は円形の小屋だった。中は煤だらけ、中央に暖炉があるタイプの造りだった。煙突は無い、古い建築様式はヴァシリの気をいくぶん滅入らせた。古い農家によくあるタイプで、煙突が無いから暖炉から立ち上る煙が家中に充満するのだ。だからといって夕食をつくるにも暖を取るにも暖炉を使わないわけにはいかなかった。

 そんな防塞でヴァシリたちは煤まみれになりながら一夜を過ごした。朝食は流石に野外にたき火を焚いて作った。雪を溶かして水を作り、顔を洗いキャベツのスープを作り、パンに焼いたチーズを載せて食べた。ザハールの持ってきた魚(オムーリ)の燻製は焼いたものと変わらず美味かった。食後には紅茶を淹れて、ベリーで作ったジャムをスプーンで食べながら飲んだ。

 食事が終わると、今度はトナカイに苔を食べさせに森の中を連れて行った。ヴァシリたちが出発したのは午前九時になってからだった。

 二日目の行程も順調に進み、川の傍で野宿を行った。そして三日目の午前中にエニセイ川の支流に出くわした。最初の支流は川幅が小さく、みんなで荷物を降ろし、抱えながら渡ることが出来たが二つ目の支流は川幅がどうみても五百メートル以上あった。水深も深い。

 ザハールにどうすると聞くと「カヌーはありませんか?」と言い出した。

「こうときは適当に、そこらにあるカヌーを使うんです」

「適当に、そこらにあるものなのか?」

 ヴァシリが訊ねると「往来が頻繁だとね。まぁ、洪水で流されちまうこともよくありますが」と、ザハールは答えた。

「あれじゃないか」と、ユーリが指差したのは対岸だった。確かに二つのカヌーが対岸に留まっていた。

「先に誰かに使われちまったようですね。しょうがない。グレーフ!」

「はい」

 ザハールの御者、グレーフがそりから斧を取り出す。ここで船を作ろうというらしい。

「本気か? ここで?」

「まぁ、見ててください」

 ザハール達は手近な木を一本切り倒し、根を頭を切って半分に割り、刃物で削ってあれよあれよという間に簡単なカヌーとオールを作ってしまった。その見事な手際にヴァシリたちは息をのんだ。ザハールとグレーフはまず出来立てのカヌーで対岸へ渡り、ザハールが向こう岸の別なカヌーへ乗り込んで、グレーフと再びこちら岸へ帰って来た。次に、この二つのカヌーをそりの足につけて渡し、トナカイは手綱を引いて泳がせた。対岸を渡ったカヌーからそりを外し、トナカイの手綱を適当な木に結んでザハールと従者が戻ってくる。これを何回か繰り返してヴァシリ達は無事に川を渡ることが出来た。

 川を渡りきる頃には既に日がとっぷりと暮れてしまった。川辺にテントを張ってたき火を囲みながら、彼らは三日目の夜を迎えた。

「しかし船ってアッという間に作れるものなのだな」

 オリガがお茶を飲みながらしみじみと言った。ヴァシリとユーリも同じ感想だった。「大したことじゃありません。ここらの人間はこれくらい出来なきゃどこにも行けませんよ」

 ザハールの従者、グレーフはそう言って謙遜した。

「カヌーにしたって、この川を渡りきれれば十分って程度のもんですからね」

「旦那たちは、シベリアには?」

 ザハールがたき火に枝を放り投げて言った。

「今年の四月からだ」と、オリガが答えた。

「ここは森ばかりでしょう」ザハールが言う。「私はかれこれ十五年前に、両親と共にイルクーツクに来たんですがね。幼心に、いや今でも時折こんな木々の間をずーっ、と進んで行くと、進んでも進んでも、進んでいないようで気が狂いそうになるんです」

 どこかでオオカミの遠吠えが聞こえた。ヴァシリは手元の銃を取って立ち上がった。「遠い、大丈夫だ」

 ユーリが冷静に言った。それでもヴァシリは銃を肩にかけたまま座った。じっとたき火の火を見ていたせいで、森の向こうが闇の中に全く見えなくなっていた。雲が出て来たのか、星の光も無かった。今にもあの暗がりから、今まで見たことも聞いたことも無い、ドラゴンですらない何かが飛び出してきそうだった。

「人間はね、自然の中に住むことなんて出来ないんです」

 ザハールが言った。

「我々があの森へ戻るには、きっと歴史だとか文明だとか、一切合財捨てなきゃならんでしょうな。あの暗闇の奥で正気を保つ自信は、私にゃないね」

「暗闇の向こうには何があるんだ」

 オリガがたずねた。

「恐怖って奴さ」と、グレーフは笑って答えた。

「恐怖」

 ヴァシリは口の中でその言葉を飴玉のように転がすと、再び背後の闇へ目を向けた。あの向こうに感じるものは恐怖なのか、いや違う。きっとそれを現す言葉は、人間の中にない。

 ユーリは小さな枝をたき火に放り投げる。火の粉が夜を背景に、妖精のダンスを踊った。

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