第11話 生態系の頂点①

 雪が激しく吹き荒れていた。森の中は暗闇に沈み、分厚い雲に月光は無い。一七八六年十一月、シベリアの冬がその厳しさを増すこの時期にメスのシベリアトラ、オレーシャは痛む体を引きずり、鼻をひくつかせながらドラゴ・ドゥーマ山脈の麓にある縄張りへ向かった。そこには岩が割れてできた洞窟があり、オレーシャはそこを巣にしていた。オレーシャは慎重に空気の匂いを嗅いだ。『あいつ』は既に立ち去った後のようだった。

 洞窟の周辺は血まみれだった、といっても吹雪と暗闇でその様子は全く分からない。ただその中で立ち込める血なまぐさい臭いと、彼女が愛したものの匂いが一面に散乱していた。何も見えないのが逆に幸いしたかもしれない。オレーシャはトラだが、仮に人間の母親であれば正気を保てる光景ではなかっただろう。

 オレーシャは「ナーン」と低い、それでいてもの悲しい鳴き声を上げながら血だまりの中で座った。

 数時間前、オレーシャと五頭の子供たちは『あいつ』の襲撃あった。そして生き残ったのは母親のオレーシャだけだった。オレーシャは子供たちを守ろうと必死に『あいつ』へ飛びかかったが、太い尻尾の一撃に吹き飛ばされて逃げてしまったのだ。

 オレーシャは血だまりの中に散らばる我が子の臭いを嗅いで、今度は更に大きく鳴いた。生き残った子供がまだ近くにいるかもしれないと考えたからだ。応える声は無かった。オレーシャはうなだれ、しばらくしてからそこを後にした。



 オレーシャは縄張りを以前よりも北の岩場へ移した。数日間、彼女は何も食べる気が起きなかったが、結局は空腹に勝てず三日目の夜に狩りへと出かけた。そして東へ五キロほど行った先にジャコウジカのオスを水辺に見付けた。

 シベリアトラは、シベリアの生態系の頂点に君臨する肉食動物であるが、実は狩りがあまり得意ではない。十回に一回成功すれば良い方だ。

 しかしオレーシャはハンターとして素晴らしい才能を持っていた。オレーシャの瞬発力は他のシベリアトラと比較しても凄まじく、獲物に飛びかかった際の飛距離は他のシベリアトラとは一線を画していた。これは草木に紛れて獲物に飛び掛かる際に、大きな武器となった。ゆえに数回にわたってシベリアトラの襲撃から逃れ、彼らの間合いを把握している老練なシカなどはかえって目測を誤り、彼女の餌食になるのが常だった。

 オレーシャは姿勢を低くして、発見したジャコウジカに忍び寄った。一方、ジャコウジカも自分に近づく影に気が付いていた。ジャコウジカは水を飲みつつ、耳を立てて、逃げるタイミングを見計らう。

 オレーシャが飛び掛かる。

 ジャコウジカが逃げた。

 しかし次の瞬間、オレーシャの前足がジャコウジカのわき腹に鋭く入った。

 体勢を崩して転ぶジャコウジカ。前足の鉤爪がわき腹に深々と突き刺さっている。一緒に転がりながら、オレーシャはジャコウジカの首にかみついて窒息させた。そして獲物を咥え、安全な茂みの中でゆっくりと食事を始めた。

 引っ越してからのオレーシャの生活はそこそこ上手くいっていた。以前の巣に比べて水辺は遠く、気軽に水浴びは出来なくなったが獲物の数は多かった。

 ところが引っ越して四か月ほど経った一七八七年三月のある日の昼、オレーシャはまたしても縄張りの中で『あいつ』の咆哮を聞いた。

 オレーシャは藪の中で丸まって寝ていたところを文字通り飛び起きて、日が暮れるまで寝ずにじっとしていた。日が暮れてから縄張りをパトロールするためにソロソロと出ていくと、特徴的な足跡と犠牲者の亡骸を発見した。襲われたのはシベリアオオカミの群れのようだった。食い荒らされたものもあれば、手を付かずのものもいた。明らかに『あいつ』は食べるためと言うよりも殺戮を楽しんでいるようだった。オレーシャがとりあえず手つかずの死体を食料として自分の巣へ運ぼうとした時だった。小さな何かがメスオオカミの死体から這い出してきた。オレーシャはびっくりして、咥えていた死体を放り投げ、距離を取った。

 その小さな何かはシベリアオオカミのオス、まだ子供だった。生まれたばかりらしく目も開いていない。オレーシャの運ぼうとしていた亡骸に縋りついて「キーキー」と鳴いていた。

 亡骸はどうやらこの子の母親らしかった。奇跡的に『あいつ』の虐殺から免れたようだが、このままでは凍死するか餓死するか、あるいは他の動物に狙われて死んでしまうだろう。

 オレーシャはオオカミの子供を咥えると自分の巣に連れ帰った。そして不思議なことにオオカミの子供に自分の乳を与え始めた。純粋にオオカミの子を憐れに思ったのか、子供を失った代償行為か、それはオレーシャ自身にも分からなかった。オレーシャはまもなく適当な倒木の下を新しい巣としてこのオオカミを育て始めた。こうしてシベリアトラのオレーシャと、シベリアオオカミの子供ガブリール、二匹の奇妙な生活が始まったのである。



 雪が解けて春が来るころにはガブリールはやんちゃに蝶を追い回すようになっていた。トラとオオカミの体格では比べるまでも無いが、それでもガブリールはまだまだ小さかった。

 オレーシャはトラ流の方法でガブリールを育てていた。そろそろ狩の仕方を教える時期が来ていた。オレーシャはガブリールに声をかけると、ガブリールは巣である倒木の下へ身を隠した。そしてオレーシャは、そのままガブリールに留守番させて獲物を取りに出かけた。時間がかかるときは一日以上、縄張りを離れるシベリアトラだが、子供のいる間はそこまで長くは開けない。それでも獲物が見つからない時は一日かかることがあった。それでもガブリールはじっと倒木の下で待っていた。

 この日、オレーシャが持ち帰ったのは生きた白キツネだった。オレーシャはこの白キツネに致命傷を与えないよう、慎重に捕獲した。ガブリールが尻尾を振ってオレーシャを出迎えた。オレーシャはガブリールの前に獲物を投げ出すと白キツネは素早く立ち上がり、右後ろ脚を引きずりながら威嚇を行った。シベリアトラはこのように生きたまま獲物を子供に与えることで、狩りの仕方を教えるのだ。

 ガブリールはこのトラ流の教育に不安を示して獲物と義理の母親を交互に見た。オレーシャは鼻を鳴らした。それを見てガブリールは腰を上げて白キツネへゆっくり近づく。

「フッ!」

 白キツネが全身で威嚇した。ガブリールは後ろへ飛びのくが、またソロソロと近づく。二匹が目と鼻の先まで近づいたとき、白キツネはガブリールに飛び掛かる。後ろ足の傷のせいで思うように飛距離が出せなかったが、前足がガブリールの鼻先に命中した。

 ひるむガブリールに、思わずオレーシャは立ち上がり助太刀の体勢をとった。だがガブリールはこの一撃でオオカミの血が目覚めたのだろうか、逆に白キツネに飛び掛かって首に噛み付き、喉笛を噛み切ってしまったのだ。その光景をみてオレーシャは息を吐いて座り込み、ガブリールが食事するのを見守った。

 このようにしてオレーシャはガブリールを育て上げ、半年後には二匹で狩りをするまでになった。通常、トラは単独で狩を行うが、この二匹のコンビの狩りは見事だった。彼らの狩りは、風下からガブリールが忍び寄り、それから一気に風上に回り込んで獲物を風下に追い立てる。追い立てた先にはオレーシャがいて、逃げてきた獲物を仕留めるのだ。ときにガブリールは数キロにわたって獲物を追い立ててオレーシャのところへ誘導した。また、ガブリールが獲物に噛み付いてオレーシャが飛び掛かり止めを刺す場合もあった。

 一七八七年五月、シベリア南東部の町クラスノヤルスク近隣では、住民が仲良く獲物を分け合うトラとオオカミを何度か目撃したという報告がある。また同時期に二本足の蛇のような大型の生物が、鹿の四肢を食いちぎって遊んでいたという証言も存在するが、酔っ払いの戯言や幻覚として相手にされなかったという。



 オレーシャと出会って約十ヶ月、ガブリールは今や大きなオスのシベリアオオカミとして立派に育った。ガブリールは、今ではもう一匹でも狩りが出来た。獲物は小さいものに限られたし成功率も二匹でやるときよりはずっと低かったが、それでも獲物を仕留めた時は必ずオレーシャに見せに行った。

 ある日、ガブリールが一匹で縄張りをパトロールしているとシベリアオオカミのメスに遭遇した。グループの斥候らしい。普段なら威嚇して追い返すところだが、ガブリールは同じシベリアオオカミの臭いに対して懐かしいものを感じたのだろうか、少しだけ近づいてみようという気になったのだった。

 ガブリールに気が付いたメスオオカミは、耳をピンと立ててガブリールへ体を向けて見つめた。ガブリールは自分が軽い威嚇を受けていることを本能的に察し、体全体を縮こまらせて敵意が無いことを示す。

 二匹はしばらく動かないまま、やがてメスオオカミが恐る恐るガブリールへと歩み寄った。ガブリールが身を起こすと、メスオオカミは一瞬、体を震わせたが、結局両者は鼻を突き合わせて無事にあいさつを済ませた。

 するとそこへオレーシャが現れた。

 メスオオカミは驚いて臨戦態勢を取り、牙を向いて「グルルル」と唸り声を出す。

 メスオオカミの行動にガブリールは動揺するように、オレーシャとメスオオカミを交互に見た。

 オレーシャは毛の一本も逆立てずに様子を見た。『あいつ』を除けばシベリアの生き物はシベリアトラの餌なのだ。オレーシャはことの成り行きを見守っていた。ガブリールがいつまでも自分と一緒に生きていくとは、彼女自身も思ってはいなかった。

「ヴォウ!」

 メスオオカミが威嚇すると、ガブリールもメスオオカミに対して威嚇の姿勢を取り「ヴォッ!」と唸った。するとメスオオカミは慌てて逃げて行った。

 ガブリールはうな垂れた尻尾を引きずって巣へ戻っていった。オレーシャはメスオオカミの逃げた先を一度だけ振り返り、それから義理の息子の後に続いた。



 それ以降も、とにかく二匹は、種族は違えど幸せに暮らしていた。ところがシベリアに雪が積もり始める九月の下旬、再びあの禍々しい唸り声が彼らの縄張りを再び恐怖のどん底に叩き落とした。

 オレーシャとガブリールはその日も一緒に狩りをした。この日の獲物はヤクート馬の群れだった。いつも通り、群れの進行方向に対して斜め右、五百メートル後方の位置にオレーシャが付き、左斜め前方からガブリールが追い立てる方法を取っていた。まずオレーシャが木々の密集したところにあるやぶの中へ身をひそめ、ガブリールが体勢を低くしながら風下から大きくカーブを描いて群れの前方へひた走る。

 しかしこの日は何かが違った。ガブリールが風上に出る前に群れが大きくどよめいた。

 ガブリールはとっさに雪の中へ伏せた。そして風上から今まで嗅いだ覚えのない生き物の臭いを感じ取った。

 一方、オレーシャもガブリールの異変を感じ取っていた。この二人は今や不思議な絆で結ばれていて、どんなに遠く離れていてもお互いの気持ちを感じ取ることが出来るようになっていた。ガブリールはどうしたのか。追い立てに失敗したのか、それとも別の捕食者が獲物を横取りしたのか、ガブリールが危ない目にあっていないか、オレーシャは考えを巡らせながら寝転がる姿勢から立ち上がった。そして数秒後、忘れもしないあの恐ろしい『あいつ』の臭いを嗅ぎ取ったのであった。

 オレーシャは勢いよく藪の中から飛出し、ガブリールの下へ急いだ。そのときガブリールは雪と木の陰に隠れてじっとしていた。彼の目の前では全長十メートル、前足が二本生えた蛇のような生き物がヤクート馬をなぶり殺している光景が広がっていた。『あいつ』はまず長いしっぽ(と言っても胴体と尻尾の境がわからないが)で馬たちを吹き飛ばし、逃げた馬たちに対して口から音と光を放って倒した。ガブリールは驚いて雪にひっくり返った。

 周囲は馬たちの悲鳴で溢れかえっていた。あるものは足を骨折し、あるものは『あいつ』の口から出る光を浴びて倒れ、痙攣していた。『あいつ』は彼らの足を引きちぎり、あるいは内臓を引っ張って引きずった。悲鳴が大きければ大きいほど『あいつ』にはそれが面白く感じられるようだった。

 あまりにも凄惨な光景に、本来の襲撃者であるガブリールでさえ前足で目を覆う程だった。

『あいつ』はまだガブリールに気付いてはいないようだった。このまま隠れていればやり過ごせるかもしれない。そのとき、オレーシャの唸り声が辺り一帯に響いた。

「ウォー!」

 オレーシャがガブリールの下に駆ける。我が子を殺された心の傷が、彼女に冷静な判断血からを奪っていた。

 ガブリールも木陰から姿を現して吼えた。深い絆で結ばれた二人の行動は、しかし『あいつ』に自らの姿を晒す結果にしかならなかった。大きな黄色い動物と、小さい灰色の動物は、この邪悪な生き物の前には新しい玩具にしか映らなかった。

『あいつ』は雪の上を滑るようにして移動し、尻尾を一振りしてガブリールを隠れていた木ごと吹き飛ばした。ガブリールはとっさに跳んで尻尾を避けようとしたが、雪に足を取られて尻尾を避けきれずに後ろ足が尻尾に当たった。

 回転しながらガブリールはオレーシャの前まで吹き飛ばされた。オレーシャはガブリールを庇うように彼の前に立つ。『あいつ』は次にオレーシャに狙いを定めて口を広げた。そのときである。『あいつ』の斜め後ろから、一頭の熊が木陰の中から現れ『あいつ』の首に飛び掛かったのだ。

「シャアアアー!」

 蛇に似た咆哮を上げ、『あいつ』が首を振り回す。熊は爪と牙で熊にしがみ付いた。『あいつ』の血が飛び散る。オレーシャはその間にガブリールを咥えてその場を離れた。

「フシュウウウ!」

『あいつ』が熊を振り落とす。熊は雪の上に一回、バウンドして着地した。『あいつ』と熊が睨みあう。一拍置いて熊が再びドラゴンに飛び掛かった。前足でそれをあしらった『あいつ』は、蛇のように熊へ絡みついた。

「ガアアア!」

 熊が『あいつ』に爪を立て、噛み付く。堪らず『あいつ』はからみつきを解いて森の中へ姿を消した。後には倒れ込む熊だけが残った。オレーシャは木陰からその様子をじっと見守っていた。やがてオレーシャは熊に近づき、臭いを嗅いだ。熊は生きているようだった。するとオレーシャはいったんガブリールを地面に降ろして、熊の下の雪を掘り始めた。彼女は熊の下に空いた隙間に頭を捻じ込むと、器用に背中に背負い、更にガブリールを咥えて数キロ離れた巣へ帰った。いつの間にか雪が降り始め、やがて吹雪になった。



 巣へ戻ったオレーシャはとりあえず外傷の無いガブリールを自分の腹の下で温めながら熊の傷を舐め始めた。この熊がいなければ自分たちはドラゴンに殺されていただろう、ガブリールのときとは違う、彼女なりの恩義だろうか。オレーシャは熊の傷と言う傷を舐めてあげた。熊はときおりピクピクと動きながら甘んじてオレーシャの看護を受け続けた。



 熊の名前はボリスと言った。ボリスはとても大きなオスの熊でかつては大きな縄張りを持つ熊の王であった。若い頃はシベリアトラとも戦ってこれに打ち勝ったこともある実力者である。

 彼を王の地位から引きずり下ろしたのが『あいつ』だった。数年前のある日、東の山脈から突如として迷い込んだこの蛇のような生き物はよりによってボリスの縄張りの中に縄張りを築いたのだ。しばらく臭いを上書きする縄張り争いを経て、ボリスと『あいつ』は対決に至った。結果はボリスの敗北だった。足に傷を負って縄張りを追い出されたボリスは彼の地位を狙っていた他の熊たちにいじめられながら北へ追いやられ、そこで傷を癒しながら『あいつ』に対する復讐を誓ったのだった。

 足の傷も回復し、『あいつ』の臭いを辿って復讐の機会を伺っていたボリスは、オレーシャとガブリールが『あいつ』に遭遇したその瞬間にそれを決行した。しかし『あいつ』は強かった。倒す糸口さえ掴めないままボリスは二度目の敗北を味わうこととなった。

 彼は今、全身の傷をシベリアトラに舐められながら洞窟に横たわっていた。このような温もりは小熊の頃以来だった。

「クーン」

 オレーシャの毛皮の下からガブリールが心配そうな声を上げた。オレーシャは一生懸命にボリスの傷を舐めた。力尽きるまで舐め、そして彼女も眠りに落ちた、まさにその時、彼らが巣としている倒木に第四の動物が現れたのである。

「うう、寒い」

 帽子を被り、軍服をきたそれは荷物を投げ出すとオレーシャたちをみるなり「助かった、何でかしらんが毛皮がいっぱいあるぞ。これも神も思し召しか」と言って帽子を脱いだ。綺麗な金髪の髪がその下から現れ、それはオレーシャの長い毛の下に潜り込んだ。

「おお、心なしか温かい………」

 こうして第四の動物はまんまとオレーシャの毛皮に潜り込んだ。誰も気が付くものはいなかった。

 その動物は人間と言い、名前をオリガ・アントヴァナ・ペレスベータと言った。

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