第10話 ドラゴンの騎士道④
翌朝、湿原を監視していた駐屯兵から、クエレブレが西の湿原へ飛び去ったという報告を受けたヴァシリたちは、直ちに教会へ待ち伏せを行った。湿原を飛び立ち、川で魚を食べてから教会へ向かうのがクエレブレの行動パターンだった。
クエレブレが教会へ到着するまでに、網投げの班は教会の鐘へ、ヴァシリたち、突撃班とユーリは教会内部へ潜伏、足の健を切る係は雑木林の中へ隠れた。オリガとドナートは囮の意味もかねて教会の前で空を見張った。
ヴァシリは暑苦しい布を巻きながら二人を見守る。ユーリの話では、クエレブレを始めとした飛龍種が、鷹のように急降下して獲物を攻撃することはない。体が大きすぎてシベリアの地理では、再上昇する前に木に激突するからだ。また、理由は分からないが空中でブレスを吐くこともしない。だから姿が見えてから建物へ避難しても十分に安全を確保できる。
クエレブレの影が空を横切ったのは、時計の針が十時を指したときだった。
「来たぞ!」というオリガの大声で、半壊したステンドグラスが更に欠けた。
「今、教会の周りを大きく回ってる!」
「少佐、ドナート大尉、早く中へ」
ヴァシリの呼びかけで、オリガとドナートが教会の中へ入る。次はクエレブレが下りたタイミングで網を投げる番だ。
ヴァシリたちは教会の扉の影から確実なタイミングを見計らう。昨日と違って手信号で合図は出せないので、これもオリガ自慢の大声で知らせることになる。あの凄まじい声量なら確実に伝わるだろう。
クエレブレはなかなか降りてこなかった。ユーリの話では、あの大きさのドラゴンの滑空比(降下する際、移動する水平距離と高度の比)の平均は六だという。つまり百メートル降下する間に六百メートル動くことになる。ドラゴンの着陸は、体重が重いほどデリケートで、この比を下回って無理に着地すると足に怪我をする場合が多いそうだ。だからクエレブレは昨日、教会の周りを旋回しながら着地した。おそらく今日も同じように教会の周りを旋回しているのだろう。
ヴァシリがその様子を頭の中で想像していると、雑木林から足の健を切るはずの兵士が飛び出してくる。
「どうした!」と、ドナートが訊ねると兵士は「行ってしまいました!」と答えた。
「何だって?」と、ヴァシリ。
「ドラゴンの野郎が、着地せずに逃げてっちまったんです!」
ヴァシリがユーリを見る。
「感づかれたかな」と、ユーリはため息をついた。
結局、それから三時間待ってもクエレブレは現れなかった。今日は来ないだろうと全員が撤収の準備を始めて教会を離れたとき、再び巨大な影が教会に現れた。
「ドラゴンだ!」
ヴァシリたちは町へ走る。クエレブレに追跡する意思はないようだった。何とか町中へ入り、一息つく。
待ち伏せ作戦は完全に見破られていた。
教会から撤退して一時間後、トゥルハンスクの兵舎ではヴァシリ、オリガ、ユーリ、ドナートが次の作戦へ向けての会議を行っていた。クエレブレが教会へ降りてくるという前提が崩れた以上、一から作戦を練り直す必要があった。
ドラゴンの被害によってマンガゼヤからの流通も止まっている。これ以上、クエレブレを放置することはシベリア経済にも大きな打撃となるだろう。住民だっていつまでも家にこもっているわけにはいかない。夏の一日は貴重だ、この時間に畑を耕し、収穫を行わなければ冬を越せないからである。
ヴァシリは席に着きながら、兵舎の窓から教会方面を見やった。クエレブレはまだあそこにいるのだろうか。
「餌とかで釣れんのか。教会の前に肉でも置いて」と、ドナートが言うとユーリは「そんな単純に行くとは思えないな。それにクエレブレの主食は魚だ。しかも生きたものしか食べない」と答えた。
「やはり湿地帯でしかけるか」と、ユーリが言うと今度はドナートは難色を示した。部下を失ったことで、湿地帯への攻撃には抵抗があるようだった。
オリガは熱心に二人の会話を聞くが、意見は思いつかないようだった。
「ヴァシリ大尉、あなたの考えは?」
ドナートがヴァシリに意見を募る。
「何やら教会にいたときも考え事をしていたようですが。どうでしょう、そろそろ打ち明けてみませんか?」
ヴァシリは腕組みを解いて両手をテーブルの上に置く。ドナート、ユーリ、オリガの順番に視線を移して言った。
「謎が一つあります」
オレンジ色の夕日が店の中を照らしていた。一日の中でこの時間だけ、太陽の光が店の奥まで入り込む。カウンターに座るヤーコフの影法師が店の壁に張り付く。影法師の前には、居酒屋らしくウォッカの入ったグラスがあった。ウォッカはグラスの縁まで注がれたまま、一向に減っていないようだった。現在の時刻は午後八時を回ったところだ。北極圏の夏日は長い。
玄関のベルがなって、男が一人店に入る。ドラゴンを恐れぬ酒飲みかと思い、
「今日はやってないよ」と言って振り返ると、そこにいたのはヴァシリだった。
「ああ、あんたか」
「減ってないな」
ヴァシリがグラスを指して言う。
「もらっていいか?」
ヤーコフが頷くと、ヴァシリはグラスをとって一気に煽った。喘ぐようにげっぷして、グラスをカウンターに置く。
「今日は残念だったな」と、ヤーコフが慰めると、ヴァシリは頷いて「次は仕留める」と言った。
「座ったらどうだい………」
椅子を進めるヤーコフを無視してヴァシリは言う。
「ヤーコフさん、俺が今からいうことはあくまで推測だ。証拠はない。今のところはだが」
「椅子を―――」
「そもそもクエレブレが何故、人を襲い始めたのか? クエレブレの主食は生きた魚だ。被害者にも捕食の痕はない。だから食うために襲っているんじゃないことは確実だ。では何故、人間を襲っているのか? 巣が近くにある? いや、根城にしている湿地帯はここより遠い。外敵の撃退にしたって執拗だ。手掛かりは襲われた人間にある。俺たちとクエレブレが最初に接触したとき、奴は向かってくるオリガ少佐を無視した。次に俺とユーリが追いかけられたが、奴はユーリを抱いていた俺を攻撃できなかった。奴の狙いは大人の男で、女と子供は襲わないんだ。事実、この村の被害者も五人中、四人が大人の男だ」
「じゃあ、俺の娘はどうして死んだんだ! 俺の娘は殺されたんだぞ! あの化け物に!」 そう言ってヤーコフは立ち上がり、ヴァシリを睨み付ける。ヴァシリは鉄のような表情でヤーコフの瞳を受けて言った。
「下手な芝居は止せ」
ヤーコフが殴り掛かる。ヴァシリはそれを避け、殴り掛かった腕をつかんでテーブルの上へ投げ飛ばした。テーブルが割れ、ヤーコフは椅子を二、三、道ずれにして床へ転がった。
「クエレブレの足では獲物を掴んで持ち上げることは出来ない! 仮に持ち上げられたとしても、子供の力でドラゴンの足から逃れることは不可能だ!」
ヴァシリは口元の血を拭うヤーコフへしゃがみ込んで続けた。
「村の人間からあんたとキーラの話を聞いたぞ。お前はしょっちゅうキーラを殴っていたそうじゃないか。雪が降る冬の日に、家の外へ放り出したこともあったとな。なぁ、ヤーコフ。正直に答えてくれ。キーラを殺したのは………お前か?」
「違う! 証拠はないだろ!」
床に這いつくばりながらヤーコフは叫んだ。
「今はな。だがクエレブレを撃退し、キーラの死体を墓から掘り返せば分かる。キーラの傷が、クエレブレによって付けられたのか、そうでないか、ユーリなら鑑定できるぞ」
「違う………違うんだ………」
最後は消え入りそうな声だった。
「毎回、キーラを殴る度に、もう止めよう。明日から優しい父親になろう。そう思うんだ。だけど次の日になると、また元に戻っちまう。戦争中は、こんなことは無かったんだ。酒飲んで、突撃してな。あの時の方が酷かったのに、兵士を辞めたとたん、心の座りがおかしくなっちまいやがった。酒を飲んでも変な気分にしかならねぇ。女房を取って落ち着けば何とかなるかと思って、結婚もした。だが駄目だった! 相手が愛しければ愛しいほど、近ければ近いほど手が出ちまう」
「何だと? じゃあ、前の奥さんが死んだってのは」
「俺が腹を蹴り飛ばしたのが原因だ………やっちゃいけねぇ、頭では分かってたのに。破水して赤ん坊が生まれて、コロっと死んじまった。村の奴らが俺を憲兵に突き出そうとするんで、慌ててシベリアへ逃げた。キーラを連れて、今度こそ生まれ変わるんだと、そう思って」
ヤーコフは泣き始めた。ヴァシリはじっとその様子を観察する。嗚咽交じりに、告白は続く。
「信じられないかもしれないがキーラは………キーラは、ドラゴンにパンをやっていたようだった。教会に酒を取りに行かせて、あまり帰りが遅いんで、探しに行ったんだ。キーラはドラゴンと一緒に来た。俺はキーラを助けようと慌てて駆け寄った。ドラゴンは俺を見ると逃げていった。ほっとした俺は、なんでだろうな。つい癖で、キーラを殴り飛ばしちまった。どこをほっつき歩いてたんだってな。キーラはぶっ飛んで、木に頭を打ち付けた。やばい音がしたと思って抱き起したらもう………死んでた。そうしたらドラゴンが襲い掛かってきた。俺はキーラを抱いて村の中へ逃げた」
告白が終わるとヤーコフは子供のように泣き始めた。夕日が沈み、冷たい夜が来ようとしていた。
「信じるよ」と、ヴァシリはヤーコフの近くへしゃがみこんで言った。
「キーラを殺しただけじゃない。今の状況を作った原因はお前にある。クエレブレが一番憎んでいるのがお前なら、お前を囮にすれば奴を地上に引きずり出せるかもしれない」
壁の影法師は完全に消えた。星が山の上に瞬き始めた。月はここから見えなかった。
「責任は取ってもらう。嫌とは言わせない」
翌日、教会に再び駐屯兵たちが集結した。人員の配置も昨日と全く同じだった。違うとすれば、教会の前に立つのがオリガ、ドナート、それにヤーコフを加えての三人になったことだ。ヴァシリが事情を伝えてあるのはドナート、ユーリの二人だけ。オリガに伝えれば即座にヤーコフをサーベルで叩き切りかねないし、駐屯兵を通じて他の住民に広まれば私的制裁に発展する恐れもあったからだ。
「まさか自分から囮を買って出るとは、よっぽどドラゴンが憎いんだろうな」イリヤが感心したように言うと、アキムが同意するように「ああ」と頷く。
「親父さんだけは死なせないようにしないとな」と、シードル。
「誰も死なせん」
ヴァシリがそう言ったとき、上から「クケー」という鳴き声と風切り音が響いた。
クエレブレだ。しかし昨日と様子が違う。すぐに教会の周りを旋回し始めた。
「少佐、ドナート大尉、中へ!」
ヴァシリが言うと「駄目だ! ギリギリまで引き付ける!」ドナートがそう言ってヤーコフの襟首を掴み、いつでも駆けだせる体勢を取る。
「よし! 今だ!」と、三人が教会へ駆け出した直後、それまで三人がいた地点にクエレブレが着地した。青い鱗が体の躍動に合わせて艶めかしく動いた。蒸気腺から出る蒸気が、生臭い体臭と共にほのかに空気を濡らす。やはり牛とは迫力が比べ物にならない。
「少佐、合図!」
「網だ!」
オリガが叫ぶ。教会の上から網が投げられる。リハーサルの時と違って担当兵士も慌てたのか、途中で網がもつれてロープのようになってしまった。だが網は上手く背中に引っかかり、クエレブレは反射的にそれを外そうと翼を広げる。
「ウウウゥゥー! ラァァアアアー!」
ヴァシリは教会のドアを蹴って突撃を敢行する。ヴァシリとアキムが左翼、シードルとイリヤが右翼を担当した。思ったより翼の位置が高い。そのくせ重心が低いから懐が狭い。それでも中止は出来なかった。
四人は銃を撃つ。クエレブレの翼に穴が開く。赤い血が流れる。アキムが撃った弾は当たらなかったようだ。網を外そうともがくクエレブレの懐に入る。近くで見ると圧倒的、圧倒的な大きさだった。青く艶めかしく動く鱗に、巨大な翼が生み出す風圧は、僅かな上下でさえ空気をねとつく物質に変えた。
それでもヴァシリたちは怯むことなく、銃剣を翼に向けて突き刺す。翼に命中すると、突き刺しているこちらの腕が吹っ飛ばされそうなほどの衝撃を受けた。
ダメージはあまり確認できない。翼は動きが早く、風圧であまり目も開けていられなかったからだ。たとえ小さな切り傷しか作れなかったとしても、剣先には金粉が塗してある。ドラゴンにとって毒となるそれは、比較的皮膚の薄い翼膜なら、なお劇的な効果をもたらすという。
アキムも銃剣を翼へ向かって投げつけた。身長が低いから届かなかったのだ。銃剣は翼に弾かれて地面に叩き落された。刺さったかどうかは分からない。
銃剣を翼に突き刺したら、あとは銃剣を放り出して教会へ一目散へ逃げるだけだ。翼がヴァシリとアキムに襲い掛かった。突き刺さった銃剣を振り落として翼膜が迫った。ヴァシリはアキムを抱えて地面へ転がる。翼膜が二人の真上を通り過ぎた。ほとんどアキムを抱きかかえるように立たせたヴァシリは、次の一撃が来ない内に教会へと走った。右を見ると、イリヤが血の滴る顔を押さえて、シードルに肩を貸してもらっていた。
「アキム、お前は先に行け!」
ヴァシリが二人へ駆け寄る。イリヤのもう一方の腕に肩を回して、ほとんど引きずるように走った。
くそっ、足の健を切る奴は何をしている!
後ろを向く。こちらをクエレブレが追っている。だが同時にまさかりを担いだ駐屯兵も迫っていた。勢いよくクエレブレの右足にまさかりが叩き付けられる、がまさかりは鈍い金属音と共に弾かれてしまった。クエレブレの足には傷一つ付いてない。慌てて逃げる兵士に尻尾の一撃が炸裂する。兵士は人形のように吹き飛んで、体を回転させながら雑木林の向こうへ見えなくなった。
「くそっ!」
三人が教会へ辿り着く。
「ユーリ! どうする! 足の健は絶てそうもないぞ!」
足の健が絶てなければ、クエレブレの急所である喉をグロムで突くことも難しくなる。だがユーリは平然とグロムを構えて叫ぶ。
「作戦は続行だ、このまま行く!」と、次の瞬間、クエレブレが背中の網を振り払って教会へ向かって来るのが見えた。
「退避! 全員奥へ行け!」
ドナートが叫ぶのとクエレブレが教会に突っ込んでくるのはほぼ同時だった。破片、砂埃、悲鳴、目も耳も効かない状況に陥りながら、ヴァシリは自分のグロムを構え、
「負傷者を連れて裏口から出ろ! ドナート、あとはこっちに任せろ!」と叫んだ。ドナートは返事をする余裕もなく、ヤーコフを含めた兵士の退避を行う。
「閃光弾を投げる!」
ユーリの声がする。ヴァシリは目と耳を塞ぐ。心の中で三秒数えて目を開けると、クエレブレの翼を、牙を、紙一重で避けながら喉への一撃を伺うユーリの姿があった。 当然だが、クエレブレがユーリを正面に捉えると、喉は地面の方へ向く。その状態ではグロムで喉を狙うことはできない。ユーリは先ほどの閃光弾でクエレブレの視線を破って、側頭に回り込もうとしたようだったが、上手く行かなかったようだ。閃光にひるまないほどに、クエレブレの頭に血が上っていたのだろう。ユーリのことも敵と認識している。
すると今、喉を狙えるチャンスがあるのは側面にいるヴァシリしかいない。ヴァシリはグロムを握りしめて立ち上がり、クエレブレの視界を避けてその左へ回り込む。右斜め後方を取り、一気に近づく。ユーリもヴァシリの狙いを察してクエレブレの視線を引き付けた。しかしヴァシリが喉までもう三歩まで来たとき、クエレブレは突如、ユーリからヴァシリへ向き直ってその牙を向いた。
「なっ!」
クエレブレの大きな口が迫る。鋭い歯並びがはっきりと見えた。避けられない。
そのとき、ヴァシリを横から突き飛ばすものがあった。床に転がるヴァシリが見たのは、クエレブレの口に収まっているのはヤーコフだった。クエレブレの牙がヤーコフへ食い込む。ボキボキと骨の折れる音がヴァシリの耳にもはっきり聞こえた。ヤーコフの口から血の泡が噴き出た。
「ウウウゥゥー! ラァァァアアアー!」
そのとき突撃の掛け声が響いた。甲高い声は女のものだった。いったい、どこから聞こえるんだ。ヴァシリが見回すと、オリガが巻き割り用の斧をクエレブレの左足首の裏に叩き込むのが見えた。渾身の力を持って叩き込まれと見えるそれは、健を切るどころか足首から下を両断してしまった。
「ゲエエエエエエ!」
クエレブレが絶叫して倒れる。血塗れになったヤーコフが床へ落ちた。
この隙を見逃さず、ユーリが虎のように、倒れたクエレブレの喉元へ飛びかかって、グロムを突き立てた。紐を引いて飛びのくユーリ。クエレブレが頭を起こし、ヤーコフを見るのをヴァシリははっきりと見た。その直後に、グロムが爆発した。首と口元から血をふいて、クエレブレの頭が再び落ちた。
「ヤーコフ! おい、ヤーコフ!」
ヴァシリはヤーコフの体を仰向けにする。その腹はかみ砕かれる寸前だった。内臓が体内から飛び出し、ズタズタに引き裂かれていた。まだ息はあるが、長くないのは明白だった。
「馬鹿野郎! 何故、ドナートと一緒に逃げなかった!」
だがヤーコフにはヴァシリの呼びかけは聞こえていないようだった。
「キーラ………キーラ………許してくれ………キーラ………」
「大尉」いつの間にかオリガがヴァシリの傍に立っていた。
「お前はそこにいろ。私はドナートへ知らせてくる」
いつになく優しい声で、オリガはヴァシリに命じた。
「はい」
ヴァシリはか細い声で答えた。
オリガが教会を出た後も、ユーリはクエレブレの顔をじっと見ていた。クエレブレもまた、死んではおらずユーリを見ていた。グロムの爆発は動脈までは破壊しなかったが、喉はつぶれて、もう息をすることは出来ない。窒息死するまで時間の問題だろう。
クエレブレは今、地獄のような苦しみを味わっているに違いなかった。しかしその目は、不思議と穏やかだった。
俺をキーラだと思っているのかい。
ユーリはしゃがんで、その鼻を撫でてやった。数年前にドラゴ・ドゥーマ山脈で出会ったあのクエレブレを思い出す。ドラゴンがみんなクエレブレみたいだったらいいのに、そう言った自分に対して、父親のダニールは答えに困った様子だった。今ならその理由が分かる気がした。人間もまた、皆がダニールのようにとはいかないのだ。
クエレブレが死ぬのとヤーコフが死ぬのは、ほぼ同時だった。次いで、ドナートがやってきた。騒ぎを聞きつけた町の住民も一緒に、恐る恐るついてきた。そしてクエレブレが死んだことが分かると、一斉に歓喜した。ヤーコフが死んだと分かると一斉に悲しんだ。しかし結局は、喜ぶ方が勝ったようだった。
ユーリたちは素早くクエレブレの遺体を運び出して、解体を行った。しかしとても一日では終わらず、兵士たちもそれより早く酒を飲んで酔っ払いたかったようなので、後に回すことにした。
夜では村を挙げての宴会が催され、ヴァシリたちや駐屯兵、ヤーコフを讃える歌が歌われた。
翌朝、オリガとユーリを除く全員が二日酔いで頭を痛めながら川の岸辺で別れを告げた。
「この度は本当に助かりました」
ドナートが代表してオリガへ礼を述べる。
「いや、こちらこそ協力に感謝している」と、オリガ。
「くれぐれも鱗の扱いには気を付けてくれ。お守り代わりに住民に持ってかれるな。骨くらいにしておけ」
ユーリの言葉にもドナートは丁寧に「ええ」と頷く。
「ヴァシリ大尉、今度来るときは是非、下の子に会いに来て下さい」
アキムと握手してヴァシリは「ああ、必ず」と言った。
「イリヤも大事にな」
イリヤは顔に包帯を巻いていたが、傷は思ったよりも深くは無かった。
「何、傷があった方が恰好が付きます」
そういって笑おうとすると、傷が染みるらしく痛がった。
「ヴァシリ大尉も、ドラゴンに食われないように気を付けて」と、シードルが言った。「ああ」
「では」
ドナートは咳払いして、
「捧げぇ、筒!」
駐屯兵が空へ向かって空砲を撃った。
船がヴィーチェ・ドラスクへ向けて出港する。住民が川岸を埋め尽くし、手を振ってこちらを見送る。おとといまで影も形も見えなかった住民だったが、いったいどこに隠れていたのか。ヴァシリたちも手を振って返す。やがて船が森に入って、その姿が見えなくなるまで、彼らはずっと手を振っていた。
やれやれ、とヴァシリは甲板の上にどっかりと腰を下ろした。どうやらもう既に船酔いをしてしまったようだ。それとも二日酔いが悪化したのか、揺れる世界の中で、その二つはどうにも区別し難かった。
ふとオリガの方を見ると、こちらは泣いていた。
たった二、三日いただけなのにな。
そんなことを思いながら、ヴァシリもゆっくりとヤーコフのことを思い出していた。結局、ヤーコフの真実は、誰がそう言うともなく墓の下へ持って行く事になった。トゥルハンスクの住民は、きっと後々までヤーコフをドラゴン殺しの英雄として語り継ぐことだろう。一方で、クエレブレは街を襲った悪魔として伝わって行く。きっと、それでよいのだろう。人間のことなど、クエレブレは知ったことではないだろうから。 奴の関心は最後までキーラにあった。罠があると知ってなお、仇を討つために教会へ降り、その命と引き換えに仇を殺した。それはヴァシリと、ユーリと、ドナートだけが知っている、ドラゴンの騎士道だった。
「ヤーコフとキーラは、今頃、天国にいるのだろうか」
唐突に、ユーリがヴァシリへ問いかけた。ユーリもヴァシリと同じことを考えていたようだった。
「いるさ、きっと。ついでにあのクエレブレもな」
その後、クエレブレの頭蓋骨は、ドナートによってこっそりとキーラの墓の隣に埋められたという。
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