第9話 ドラゴンの騎士道③

 ユーリがクエレブレと遭遇して数か月後、冬。

 ユーリは雪原を一人進んでいた。父親とは先のポイントで落ち合う手はずとなっている。雪原を酔っぱらいのように、時々八の字に回りながら進んでいく。こうして足跡を複雑に付けていけば、線で辿った際の距離が多くなり、それだけ時間を稼げる。追跡者は数キロ後方にいるが、着実にこちらへ迫っていた。風上へ風上へと向かって逃げているので、足跡をかく乱しても臭いでつけられる。これが普通のドラゴンなら風上へ逃げるところだが、今回の相手はそうもいかない。

 ドラゴンの種類はズメイ。カザン地方ではユランの名で伝わるこのドラゴンのブレスは致死濃度の硫化水素ガスだった。吸引すれば即死、皮膚粘膜から吸収すれば病気に罹ってしまう。原初年代記によると、十三世紀に起こったドラゴンシフトでは、このズメイと思わしき毒を吐くドラゴンが、数百万人の人間をその息で殺したという記述がある。

 ストロガノフ家は冬は滅多にドラゴン世界へ足を踏み入れることは無い。雪の積もったドラゴ・ドゥーマ山脈は一番楽なルートですら遭難の危険があったし、ドラゴンもこの時期に山脈に近づくようなことはない。近づいても越えるルートを見つけられることは更に少なかったから、大抵は放っておかれる。

 ただしズメイだけは別だ。ドラゴンがブレスを吐くのは攻撃のためだけではなく、体内の余剰熱エネルギーや老廃物を排出する意味もある。山脈の近くでブレスを吐かれれば、風向きによってはユーリたちの住む場所だけではなく麓の村まで影響を受けかねない。実際にそんな被害が起きた記録はない。

 が、しかし「多分、大丈夫だろう」と片づけるにはズメイのブレスはあまりに危険過ぎた。それに万が一にも山脈の外に出せば人間どころか、ズメイのブレスに対応できない西シベリアの生態系は壊滅的打撃を受けることが予想された。ずばりズメイはその存在そのものが災害だった。

 ダニールの作戦は、いつもドラゴンを山脈から遠ざけるように、わざとズメイに姿を見せて追跡させ、東へ東へ誘導するものだった。この時期のドラゴンは飢えている場合が多いので、夏場なら追いかけないような小さな獲物でも追いかける。姿を晒すだけで誘導は容易いだろう。

 長年、山脈西の地理を研究してきたストロガノフ家にとって、ドラゴンから逃げ切るのは難しくはなかった。むしろ、いかにして追跡を諦めさせないようにするかの方が重要だった。そのためには、まるで釣り針についた餌のように、定期的にドラゴンに姿を見せなければならない。

「はぁ、はぁ」

 ユーリの息が切れ始める。

 もう少し進めば、ユーリとダニールは獲物役を交代することになっていた。二人は同じような服を着て、ドラゴンになるべく同じ獲物を追いかけているように見せかけていた。一人が獲物役をやっている間に、もう一方が休息を取る。そして近道を通って先回りし、再び獲物役を交代することになっていた。

 ユーリは立ち止まって後方の様子を見た。まだズメイはこちらを追ってきているだろうか? 時間的に、この辺りで姿を見せてもいい頃合いかもしれない。風向きも当分変わりそうになかった。

 木の幹に隠れて水を飲む。雪が積もっていなければ、地面に耳をつけて足音を聞くことも出来たのだが。

 耳を澄ませても何も聞こえなかった。白銀の世界は無音だった。

 まさか諦めたか? と、ユーリが思い始めたとき、かすかな振動と鳥の鳴き声が聞こえた。体の大きなドラゴンが動くと、木に体がぶつかって鳥が飛び出す。それを目印にある程度、位置が把握できた。

 来たか。

 ユーリは立ち上がる。ただ音が西ではなく南から聞こえたことが気になった。どういうことだろう。可能性は二つある。ズメイがこちらを見失ったか、それとも新たに別なドラゴンが来たかだ。 

 ズメイがこちらを見失ったのであれば、誘導ルートを再検討するためにダニールと合流しなければならない。もし別個体なら、二種のドラゴンを一度に相手にすることは出来ない。山から完全に引き離したというわけではないが、撤退の必要があった。

 さて、どうする。

 ダニールと合流して、ドラゴンが二体付いて来れば逃走が難しくなるかもしれない。ドラゴンの種類によっては、逃走経路を大きく変更する必要が生じてくるだろう。

 数秒、悩んだ末に、ユーリはドラゴンの正体を確かめることにした。どの道、姿を見せるつもりではあったし、もし別種のドラゴンなら慎重な決断が必要だ。ユーリは荷物を持って足音と、鳥の鳴き声のする方へ向かった。

 だがこの行動は悪手だった。

 足音はユーリが追跡を始めてからも東の風上へ向かい続けた。速度が速く、しばらく経ってもユーリは足音の主に追いつけなかった。

 どういうことだ?

 足音の主はユーリを完全に無視していた。ユーリは今まで風上に立っていたし、それならばドラゴンの鋭い嗅覚で大体の見当が付く。これがユーリたちの誘導していたズメイならば、獲物であるユーリの方へ向かおうとするはずだった。

 とするとやはり、足音は別種のドラゴンか?

 しかし目視で確認するまで決めつけることはできない。ユーリは追跡を続ける。

 これじゃ立場が逆だ。

 ユーリが苦笑しながらようやく足跡までたどり着いた。

 そしてユーリは戦慄した。

 それは確かに自分が今まで誘導してきたズメイの足跡だったからだ。しかしいったい何故ユーリを無視して風上へ? ユーリを追跡している途中で臭い足跡を見失い、見当違いな方向へ進んだのか?

 いや、違う。さっきも述べたように、ズメイはこっちの位置を足跡だけでなく、臭いでだいたいの位置を把握しているはずだ。

 これが意味することは、つまり。

 付かず離れずを繰り返す内に、こちらへの接近を完全に諦めたズメイは、風上を取って一気に決着をつけるつもりなのだ。

 ズメイの狩りは単純だ。硫化水素のブレスを吐いて、死んだ獲物を探して食べるだけ。

 まずい、まずい、まずい。

 ユーリは急いで風上へ向かって走った。

「ドラゴンは何をするか分からねぇ」

 父親の言葉が脳裏をよぎった。

「甘く見たか!」

 ユーリは思わず叫んだ。

 ドラゴンの知能は基本的に熊程度でしかない。しかし世界には頭の良い人間もいれば悪い人間がいるように、同じ動物でも性格や知能に個体差があるのは当然といえる。そして生き残るのはいつだってより知能の高い個体と決まっている。

 狩られる動物、例えばウサギが今も地球に生き残っているのは、オオカミを始めとした捕食動物から逃げる知能を持っているからだ。狩る側が飯にありつくには、狩られる動物の知能を上回らなければならない。知能、これほど恐ろしい能力があるだろうか。

 いつの間にか足音が近づいている。風向きの取り合いはいつの間に再び追跡に変わっていた。ついに木立の向こう側に、ユーリはズメイの姿を見た。

 ズメイは翡翠色をしていて、左右の首に何のためについているのか分からない突起があった。背中には翼があるが、飛行は出来ず主に広げて相手を威嚇するときに使う。あるいは―――。

 バサバサと音を立てて、ズメイが翼を広げた。

 あるいはブレスを吐く前の予備動作のときも翼を広げる。

「くそっ!」

 ユーリは両手にグロムを持った。

 だがストロガノフ家の歴史でズメイを討伐した例はわずか二例のみである。いずれも五人のチームで、必ず一人以上の死者が出ている。一騎打ちをするのは絶望的、この時点でユーリの生存率はかなり低い。

 閃光弾を使うか? いや、逃げ切るには距離が遠すぎるしブレスには無意味だろう。いっそのこと雪の中へ埋まってやり過ごす? 駄目だ、ズメイの吐く硫化水素は距離が近いとかなりの高温を持っている。よほど深くない限り溶かされてしまうだろう。なら近づいてグロムを頭に叩き込むことに賭けるか?

「ウウウウラアアアアア!」

 両手のグロムを握りしめ、ユーリは突撃する。死ぬならせめて一撃くらい叩き込んでやるつもりだった。だが一歩遅い。ズメイが大きく息を吸い、硫化水素のブレスを数十メートル前方から吐き出した。

 そのとき、空中から大きな影が木々を蹴散らしてユーリの前に降り立った。それは夏にダニールとユーリが介抱した、あのクエレブレだった。

「ケケー!」

 クエレブレは雄叫びを上げると翼をズメイへ向けて羽ばたかせる。数百キロの体重を浮かせる風圧が、ズメイの硫化水素を押し返し、木の枝や、木そのものを吹き飛ばす。ユーリは頬に暖かい風を感じた。それがクエレブレの飛行する秘密だった。クエレブレは巨大な翼から高圧水蒸気を噴射して体を浮かせるのだ。

 ズメイのブレスを吹き飛ばしたクエレブレは、次は走って飛びかかる。圧倒的なブレスの力に戦闘力の大部分を頼るズメイは、ドラゴン対ドラゴンの格闘戦には分が悪い。踵を返して逃げるズメイに、クエレブレは大きく息を吸って火を噴いた。体内で水蒸気を生成する際に発生する余剰熱と老廃物を利用した、火のブレスだった。ズメイはブレスに驚いて体勢を崩し、そこをクエレブレが鉤爪の付いた足で蹴った。野生動物の攻撃は容赦がない。しかしズメイはなんとか体勢を立て直し、東へ逃げ去って、見えなくなった。

「ケケケ」

 おととい来やがれ! とで言う風にクエレブレは鳴くと、立ち止まっているユーリに鼻を寄せた。

 ユーリが鼻を撫でるとクエレブレは「クー」と鳴いた。

「ユーリ!」

 遠くからダニールがやってくる。それを見たクエレブレは「もう大丈夫だろう」とでもいうようにユーリを見ると、歩き去っていった。



「ああいうドラゴンもいるんだ」

 帰り道、カヌーを漕ぎながらダニールは言った。

「現実的に考えるとな、ユーリ。俺たちにあいつらを全滅させることなんか出来ないんだよ。お互いにどっかで折り合いをつけなきゃならねぇ」

「全部のドラゴンがクエレブレみたいだったらいいのに」

 ユーリがそういうと、ダニールは困ったように頭を掻いた。

「そうだな、だけど………」

「だけど何?」

「いや」

 ダニールは頭を振って「そうだな、クエレブレみたいだったらいいのにな」と言った。



 そのクエレブレがこのトゥルハンスクでは既に五人もの人間を殺していた。生後一年三ヵ月程度だから、ユーリを助けたあのクエレブレとは別個体だろう。

 だが何故だ? トゥルハンスクの気候のせいか? それともたまたま凶暴な性格をした個体なのだろうか?

 ユーリはかぶりを振って迷いを消す。どのような理由にせよ、人が殺されている事実は曲げられない。個人的な私情をはらむ余地は、もうどこにも無かった。

 もー、もー。

 居酒屋前の通りで牛が悲しげに鳴く。牛は馬のつなぎ棒に繋がれ、身動きが取れない。

 牛はこの後、自分に降りかかることが分かっているのだろうか。いや、分からないだろう。木造の家々が立ち並ぶ通りには、牛とユーリと駐屯兵以外に誰もいなかった。クエレブレを恐れて家から出ない人々も、家の中から興味深そうに彼らを注視している。

 ユーリは元より、ヴァシリを始めとした駐屯兵たちの表情は真剣だった。オリガが手を挙げる。すると牛の前にある建物、ヤーコフの居酒屋の屋上からもう一人の駐屯兵が姿を現して網を投げた。エニセイ川で漁船が使うのをわざわざ買い上げたのだ。網の四方には鉄のおもりが付いていて、投げたときに網が綺麗に広がるようになっている。

 もー!

 牛が驚いたように叫ぶが、その割には身じろぎしない。つなぎ棒に繋がれては全ての抵抗が無意味だと分かっているのだ。

「ウーラー!」

 ヴァシリを含む四人の駐屯兵が、銃剣で牛の前方から突撃し、牛の真上の空間を突く真似をした。彼らとは時間差を置いて牛の後方から一人の駐屯兵がまさかりを持って突撃し、牛の足を切る真似をする。最後にユーリが突撃して、グロムを牛の下あごへ振り上げる振りをする。以上が、クエレブレに対する攻撃リハーサルだった。

 クエレブレを教会におびき出すことを前提としたこの作戦は、まず建物の屋上から網をかけることから始まる。網をかければ、クエレブレは網を外そうと翼を広げる。クエレブレの鱗は毒性がある上に堅いが、翼膜には鱗がなく、柔らかい。発砲しながら突撃をかけ、翼膜を攻撃することで飛行能力を封じる。その上で、まさかりを持って足の健を切り、地上での移動能力を封じてクエレブレを完全に拘束する。最後にユーリがグロムで喉を一撃して倒す。喉を攻撃するのはクエレブレの頭蓋はドラゴンの中でもとりわけ強固で、グロムが通らないからだ。だが可動性を確保するためか、喉の周辺には鱗がなく、グロムの一撃で周辺を通る動脈ごと爆散させることが出来るはずだ。

 はずだというのは、ストロガノフ家の歴史において、クエレブレと交戦した記録がないからだ。前述した喉の弱点や翼の蒸気噴出腺、鱗に含まれる毒性は、自然死で得られた遺体を解剖して得られた知見である。実際に戦った際にどう出るかは、ほとんど出たとこ勝負だった。

「こんなもんか」

 ヴァシリが顔中を覆った布から口元を引っ張り出していった。顔だけはなく、体全体に厚手の布が巻かれてエジプトのミイラみたくなっていた。突撃する駐屯兵の全員が同じ格好をしていた。翼から噴き出す高温の蒸気に対する対策だ。着陸直後で蒸気を使い切っているとは思うが、クエレブレが体内でどれだけの蒸気を、どれだけの時間で充填できるかは未知数だから、万が一の備えは欠かせなかった。気温三十度の炎天下、四度目のリハーサルでさすがのヴァシリも堪えてきた。

「よし、休憩とする。プラトーン、牛さんに草を食べさせに連れて行ってやれ」

 オリガの一言で突撃隊は体中から布を取っ払い、ついでに上着を脱いで居酒屋へ駈け込んでクワスを煽った。

「こんなんで大丈夫なのか?」

 部下に聞こえないことを確認して、ドナートは居酒屋の玄関前でユーリに問うた。リハーサルの滑稽さはともかく、この規模の人員でクエレブレを討伐すること自体に、彼は大きな不安を感じていた。

「現状、これが思いつく最善の手だ。あとはやってみなければ分からない」

「うーむ」

 ドナートは渋い顔をして居酒屋へ入る。仮に援軍を要請したとしてもオスマン帝国と戦争をしている現状、いつになるとも知れなかった。自分の質問が、ただ不安を吐露しただけであると自覚して、ドナートは少し自己嫌悪に陥りながら部下の後に続いた。



 居酒屋に入ると当然だが、酒の匂いがぷんと漂っていた。店内は薄暗く、十人に満たない駐屯兵が入ればそれだけで満員になった。軋む床板、椅子に座れば右側がやけに傾く。何、文句は言うまい。辺境では酒が飲めるだけありがたいのだ。

「ヴィーチェ・ドラスクには居酒屋がないんですか?」

 シードルが驚いて言った。

「教会も無い、市場も無い、無い無い尽くしの村さ」

 ヴァシリはそう言ってクワスを煽った。事実なのだから仕方がない。認めることから発展は始まっていく。

 相席になったのは三人。猫みたいな顔をしたシードルと、目が細くて顔が四角いアキム、それから顎が異様に長いイリヤという駐屯兵の男たちだった。いや、男というよりまだ少年というところだろう。

「君たちはいくつなんだ?」

 試しに聞いてみると数え年でシードルは十八、アキムも十八、イリヤは少し年上で二十二歳になるのだそうだ。シードルが言うには三人ともこの村の出身で、幼馴染ということだった。

「昔はもう何人か友達がいたんですけど、一人は溺れて死んで、三人は病気で死にました。隣に住んでたヴィタリーって奴は八歳の時に『神の啓示を受けた』つって修道士になりに西へ行ったきりそれから」

「あっ、俺はヴィタリーに会ったぞ」

 と、イリヤが言う。

「ソロヴェッツキー修道院で修道士見習いやってるって」

 その修道院の名はヴァシリも知っていった。

「ソロヴェッツキー修道院というと、アルハンゲリスクか?」

 アルゲリハンスクはペテルブルグの北にある町で、マンガゼヤから来た毛皮がヨーロッパへ取引されている。

「はい、俺、画家になりたくて十五のとき、ペテルブルグを目指して家を飛び出しまして。そのときに」

 なるほど、トゥルハンスクからならマンガゼヤから船に乗って、アルハンゲリスクを経由した方がペテルブルグは近い。

「それがどうして兵士に?」

「いや、それがですね。マンガゼヤからアルハンゲリスクまで貨物船に紛れていこうとしたら、見つかっちまってイングランド人の密航者と間違われちゃって。危うく縛り首になるところでしたが、漁船の船長が身元の引受人になってくれまして。すると今度は船長が『てめぇを保釈するのに金がかかったんだぞ』というわけで奴隷同然にこき使われまして。だいたい三年、そこで働いたところで解放されて帰ってきたわけなんですよ。ここで漁師をやっても良かったんですが、アキムが駐屯兵を募集してるってもんだから」

「こいつ、どんくさい俺でも兵士やれるなら、俺も出来ると思ったんですよ」

 アキムがここで口を開いた。

「君がどんくさい? さっきの突撃は中々の走りだったが」

「昔はちょっと………ぽっちゃりしてて」

「今では一児の父親だもんな」と、シードルがそう言ってアキムの肩を叩くので、ヴァシリは驚いた。

「結婚してるのかい!」

「二人目の子供も生まれるそうです」

 そういってイリヤはクワスを煽る。

「おいおい、駄目だ駄目だ。そんな奴に危険な突撃はさせられんよ。なんで役割決めのときに、そういうことを言わないんだ馬鹿! ドナート大尉に言って他の奴に替えてもらわなきゃ」

「いやいや、いいんです」と、アキムは配置換えを断った。それから真剣な顔で「こうやって、俺がドラゴンを退治することで、自身を持ちたいんですよ。夫として、父親として。大きくなったら子供にも自慢できますしね」

「え? 何を言ってるんだ、酔ってるのか?」

「アキムを尊重してやりましょうヴァシリ大尉」と、シードルが言う。「だいたいみんな似たような奴らですよ。俺たちは若くて体力があるんだ、そういう奴らがね、頑張らないでどうするんだって話ですよ」

「似たような奴らって、君たちも結婚してるのか? 子供がいるのか?」

 シードルとイリヤは首を振った。結婚もしていないし、そんな予定もないそうだ。

 やれやれ、何にせよアキムだけは死なせないようにしなくてはな。

 ヴァシリはそう思いながらクワスを煽った。

「お子さんはいくつくらいなんだ?」

「三歳の娘です」

 アキムが答えるとシードルが慌てた。

「ああ、大尉。ここでそういう話は………」

 と、目くばせする。シードルの視線の先には、兵士たちにクワスを注いで回るヤーコフの姿があった。

「ああ、そうだな」

 娘を失ったばかりの父親の近くでする話では無かった、とヴァシリは反省する。

 ヤーコフはヴァシリが相談すると、快くリハーサルに居酒屋の屋根を貸してくれた。彼は今までヴィーチェ・ドラスクへヴァシリたちを探しに行ってたから、ひょっとすると娘を失って以来、この居酒屋で飲み物を飲んだのは、ヴァシリたちが初めてなのかもしれない。店の中が暗いのは、未だ娘、キーラの喪に服しているせいなのか。なるほど、一歩間違えればアキムもヤーコフのようになっていたかもしれない。そんな共感が、彼を突撃隊に駆り立てているのだろうか。

「ヤーコフの妻はどうしてる?」

「キーラを出産した際に亡くなったそうです」

 シードルが声を潜めて答えた。ヴァシリはなおさらヤーコフが気の毒になった。

「俺はあの親父さんを見直したよ」と、イリヤが空のグラスを置いた。

「娘のためにドラゴン殺しを呼んだり、居酒屋貸してくれたり。この飲み代だってタダなんだろ? やっぱりなんだかんだで、キーラが可愛かったんだな」

「うん? ヤーコフはキーラとうまくいってなかったのか?」

「おい! イリヤ!」

 アキムがイリヤを肘で突いた。それでヴァシリも何となくこの話に関して詮索することをやめた。

 作戦の決行は翌日だった。

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