第7話 ドラゴンの騎士道①
ブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブン。
周囲を羽音が覆っていた。ヴァシリは農具を放り出し、たまらず両手で空気をかくが、どうにも多勢に無勢だった。
「前が、前が見えねぇ!」
「ヴァシリ、こっち!」
アーニャは遠くでたき火を焚いていた。ヴァシリが立ち上る煙に突っ込むと、黒い煙が蜘蛛の子を散らすように晴れて行く。
「やれやれ、モスクワの森より酷いぞ」
シャツ一枚、向き出しの両腕は赤い斑点でいっぱいになっていた。季節は五月の半ば、シベリアの夏を告げるのは、暑さではなく夥しい数の蚊だった。
「すーぐ慣れるさぁ」
そう言ってアーニャは木をたき火に放り込んだ。
大陸性気候を持つシベリアは、冬季は非常に厳しい寒さをもたらす一方で、夏季は三十度を超す猛暑になる。
「四月はあんなに肌寒かったのに、もう汗だくだ。体がおかしくなりそうだ」
「何だ大尉、もうへばったのか!」
涼しい風が吹く。煙が飛んで、森の中からシャツの袖をまくり上げ、まさかりを担いだオリガが現れた。その白い肌は浅く日に焼けていて、健康的な美しさがあった。そして綺麗だった。
そう、綺麗なのだ。
「少佐、蚊は大丈夫なんですか? 見たところ、全く刺された様子がございませんが」「確かにぶんぶんと騒がしいが、何故か昔から刺されんのだ。ま、慣れだな」
「慣れ?」アーニャが言うと「深く考えるな」とヴァシリが耳打ちした。
「それに引き換え何だ大尉、その腕は。蚊に刺されまくりではないか」
「そうですね、やっぱり人望があるからですかね」
あっはっはっ、と三人は笑った。ひとしきり笑ったところでオリガは、
「ん? どういう意味だ?」
「さて少佐、ちょっと休憩して飯にしましょう。もう日もあんなに高い」
「おお、そうだな」
「アーニャ、君はどうする?」
「あたしも行くー」
たき火に水をかけて、アーニャは二人の後に続いた。
ヴァシリとオリガが着任し、四月から農作業と並行して建設が進められた防塞は村人の惜しみない協力もあって着工から一ヶ月で完成した。ロシアの木造建築技術は十六世紀後半の時点で高度化と丸太木工の規格化が進み、組み立てるだけなら家一軒程度は数時間で建設できるのだ。
防塞には今のところヴァシリとオリガしか住んでいないが、前回のワイバーン襲撃の際に多くの避難民やけが人が出たことから、そのような人々を収容するための大きな部屋をいくつかと武器、弾薬の貯蔵庫を設けた。また、厳しい冬の生活の為に納屋や馬小屋も一つ屋根の下に収めたため、自然と兵舎の規模も大きくなった。
結婚前の男女が一つ屋根の下にいるのはモラルに反するかもしれないが、オリガはペレスベート家の長女でいずれ家督を継ぐか、どこかの貴族と結婚して、いずれこの地を離れるだろうことを考えると一人一人に家を作るのはいささか不合理だった。貧乏貴族の三男坊であるヴァシリにしても、いつまでもここにいられるとは限らない。
それにこの防塞は村人から二人への感謝であると同時に、シベリアの人々がドラゴンを退けた記念碑的な意味合いもあった。最初のワイバーンの襲撃でシベリアから去った住民も多いが、残った住民にとって、ここは自らの不屈の精神を象徴するものだった。
「うわっ」
着替えて汗をふくために、ヴァシリが自室でシャツを脱ぐと、腹回りも蚊に刺されて赤くなっていた。シャツの裾をズボンに入れていたにも関わらず刺されているということは、蚊の針はシャツを貫通してヴァシリを吸血したことを意味した。
「信じられん」
シャツを着替えて広間へ行く。刺されているのをみたら腹も痒くなってきた。アーニャの言う通り、この状況にいち早く慣れたほうが楽になれる気がした。広間のテーブルではオリガとアーニャがパンを齧りながら談笑していた。
「やれやれ、困ったよ。腹まで刺されちゃってるんだから」
ヴァシリはそう言って、棚からコップを出して、クワス(東欧の伝統的な微炭酸、低アルコール飲料)の樽を開ける。しかしそこには一滴のクワスも無かった。
「空っぽじゃないか!」
樽を持ち上げてヴァシリが叫んだ。
「ごめーん、これで最後だわ」
アーニャが杯を掲げた。
「んもう!」
ヴァシリは荒々しく樽を床に降ろす。
「僕はこいつを飲むためにここまで来たんだぞアーニャ! 返せこの!」
ヴァシリがアーニャの杯を掴むとオリガが「大尉、民間人に暴行するのはやめたまえ!」と言う。「軍法会議にかけるぞ!」
「ちくしょう、買い付けだ! アントンの店へ買い付けだ!」
「昨日、売り切れちゃったって言ってたよ」
アーニャが言った。
「くそっ、こうなったら川に飛び込んでやる!」
「あー、それいいわ。うちの兄貴もよくやってるし」
「待てヴァシリ、今日の作業がまだ残っているだろ」と、オリガ。
「止めないで下さい!」
そう言ってヴァシリが玄関へ向かったその時だった。
「ちょっといいですかー」
という声と共に人影が現れた。エニセイ川下流、北の町トゥルハンスクから酒を卸している商人であり、アントンの従兄でもあるアントニー・ゲラーシエヴィチ・ドローニンだった。
「アントニーじゃないか。クワスは持ってきたかい?」
「ええ………今しがたアントンの店に卸したばかりです」
「よし、行ってくるぞ! でも何故、あんたがここに?」
「ドラゴン?」
アントニーは頷いて、体をどかすと一人の男が防塞の中へ入ってきた。
「娘が」
男が言う。
「娘がドラゴンに………」
そして泣き崩れた。
五日前、突如現れたドラゴンにトゥルハンスクの村は襲撃され、すでに五人の人間が犠牲となった。最初の犠牲者は居酒屋の娘、キーラ・ヤーコヴレヴナ・オストロスカヤである。わずか八歳の少女の死をきっかけとして正教会の神父、二人の農夫が殺された。トゥルハンスクの現地駐屯兵が撃退を試みるが兵卒の一人が死亡した。
犠牲者が増え続ける中、酒造家のアントニーが酒を卸し売っているヴィーチェ・ドラスクでドラゴンを撃退したという話を思い出し、キーラの父親であるヤーコフ・ペトローヴィチ・オストロフスキーと共にヴィーチェ・ドラスクへ卸売りに行く船へ同乗しヴァシリたちの下へ来たのだ。
ヴァシリたちは広間のテーブルに着き、アントニーから以上の経緯を聞いた。虫刺されの痒みはとうに消えていた。
「キーラはヤーコフの一人娘だったんだ………」
最後にアントニーが呟くように言うと、オストロフスキーはまなじりを拭った。
「オリガ、ヴァシリ、どうかこの哀れな男の頼みを聞いて、仇をとってやってはくれませんかね」
「トゥルハンスクには避難民を受け入れてもらったしな。よし、大尉」
オリガが命じる。
「ユーリを呼べ」
かくしてドラゴ・ドゥーマ山脈から連れて来たユーリも交えて、本格的な聞き取りが始まった。
「ドラゴンはどんな奴か見たか?」
ユーリが問うとヤーコフは「ええ」と首を縦に振った。
「体の大きさは?」
「家一戸分くらい………どうだったかなアントニー?」
「私は見たわけじゃないが、話によると牛くらいの大きさだったとか」
「足の数はどうだ? 二本か? 四本?」
「一瞬だけだったからわからん。あいつは空を飛んだかと思ったら、次の瞬間には地面にすどーん、って飛び降りてきて………」
「空を飛ぶんだな。ブレスは? 火を吐くか?」
「ああ、吐いた」
「色は?」
「赤………だったかな」
「ふむ」
ユーリはいったん、そこで話を切って考え込む。
「何かわかったか?」
ヴァシリが聞くとユーリは首を振って、
「いや、これだけの特徴ではオスのワイバーンか、グイベルかヴィーヴルかも分からない」
「ならば行こう! 行けばわかるさ!」
オリガが立ち上がって叫んだ。
「アーニャ、グロムの方はどうなってる?」
ユーリがアーニャへ訊いた。グロムはユーリの手作りで、一本作るだけでも資材と労力と時間が必要だった。そこでヴァシリとオリガは、自分たちのグロムをレオニードに作ってもらうことにしたのだ。
「それなら出来てるわよ。ヴァシリ?」
「ああ、これだ」
ヴァシリが自室から特注したグロムを引っ張り出す。基本的には鉄パイプを折って曲げて、先端を鋭くしたもので、鍛冶仕事に慣れている人間にとっては、作るのは造作もなかった。
ユーリがそれを借りて、振ってみる。
「確かに、俺が作るよりも出来がいいかもな」
ユーリは素直にレオニードの仕事を認めた。
「なら、今度はユーリの分も作ってもらうか?」と、ヴァシリ。
「ああ、次は頼む」
「将来的にはあたしなりの改良を加えようと思うの。銃みたいに引き金をつけて、先端を簡単に着脱させる機構を―――」
「アーニャ、その話はまた後で聞くよ」
設計の話になるとアーニャはすぐに熱くなる。
「アントニー、船は?」
「明後日の予定だが、明日でも構わない。船乗りは皆、トゥルハンスクの住民だ。ドラゴン殺しが乗ってくれるなら、みんな喜んで船を出してくれるだろう」
それから二、三、出発の打ち合わせをして準備を進めることにした。アントニーはいつも通りアントンのところへ泊まり、ヤーコフとユーリはヴァシリたちの防塞に泊まった。
翌朝、もやの立ち込めるエニセイ川の水辺にヴァシリたちはいた。目の前にはアントニーとヤーコフの乗って来た帆船が停泊していた。オリガは意気揚々と船に乗り込むが、ヴァシリは前回の船酔いを思い出してため息をついた。
「やれやれ、また船か」
「どうした? 乗らないのか?」
ユーリに声を掛けられて、ヴァシリは観念して船へ乗り込んだ。ヴィーチェ・ドラスクまでは約三二〇キロメートルある。エニセイ川の流速はだいたい時速一〇キロ、風向きが良ければトゥルハンスクまで二日で辿り着ける。少なくともクラスノヤルスクからヴィーチェ・ドラスクまでの道のりよりは短いはずだった。
見送りにはアーニャが来ていた。船が動き出す。
「気を付けてねー!」
アーニャの声援を受けて船が加速する。ヴァシリとオリガ、ユーリはアーニャに手を振って返した。アーニャの姿も岸も靄の中へ消えた。これから無限に続くと思われるかのような木々の間を進むことになる。そして、その先には火を噴くドラゴンがいるのだ。
まるでおとぎ話だな。
そう思いながらヴァシリは船べりに座って、ひたすら景色を眺めた。船酔いの方は大丈夫そうだった。
景色はすぐに見飽きた。見れるものといえば木、木、木、ばかりで、それらの違いは白いか黒いかだけだった。ふと、ヴァシリは船員の一人が自分を見ていることに気づいた。
ヴァシリが気づいて船員の方を向くと、船員は目をそらす。ヴィーチェ・ドラスクにドラゴンが現れ、それをヴァシリたちが(正確にはユーリだが)倒したことは、既に近隣で広まっていた。
この俺がドラゴン殺しか。
ふっ、と自嘲気味に笑って、ヴァシリは船の後ろで座っているユーリを見る。あの年端のいかない子供こそ、真のドラゴン殺しだと知ったらみんな、どう思うだろう。
一方、船の先端ではヤーコフが佇んでいた。何だか今にも身投げでもしそうな雰囲気がしたので、ヴァシリは心配になって声をかけた。
「大丈夫か?」
ヤーコフはヴァシリの声に少し驚いたようだった。それから小さな声で「何だか戻るのが怖くてな」と言った。
気持ちは分かる。誰だってドラゴンが出るような場所へは戻りたくない。
「あんたは元からここ(シベリア)に?」
ヴァシリは話題をドラゴンから逸らした。
「いや、元々はプスコフにいたんだ。農民だったんだが、どうも故郷とはそりが合わなくてな。兵士に志願して、黒海の近くでオスマン帝国と戦った」
「あんたもか! 俺も黒海で戦ったんだ。あんたが言ってるのは六八年から七四年の話だろう」
「ああ、六八年から五年ばかり参加してた。我ながら、よく生きてたと思うよ。最前線で突撃ばかりさせられてな。一度、槍で腹を刺されたこともあったさ」
「俺の方は一年こっきりだ。八十七年から今年まで前線にいた。農民と貧乏貴族の三男坊なら似たようなもんさ。でも、それでどうしてシベリアへ? 他にも行くあてはあっただろうに。ペテルブルグとか………」
「新天地で人生をやり直したくてね」
ヤーコフはそう言って、遠い目で水面を見つめた。
「ここに来れば、何か、変われると思ったんだ」
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