真夜中の向日葵

@canopus8

第1話

 まただ...

 腕を伸ばして枕元の時計を取り上げる。

 午前1時40分。

 北風の音に乗って時折、舞い上がったり、かき消される子供達の矯声。

 パタパタパタパタ、パタパタパタパタ、階下の遊歩道を走り回る音。

 どこからか帰ってきたのだろうか?

 5、6人はいるようだが、小声で窘める大人の声はきこえない。

 

 関西からこの武蔵野の社宅に移ってきたのはまだ暑さが残る9月。

 北風が吹く季節になってこれでもう三度。真夜中、子供たちの燥ぐ声や足音を聞いた。

 初めはさすがは武蔵野・・・風の音が違う。と感心していたが、あれは確かに子供の声だ。


 めずらしく喉が乾いた。水を飲みに起きてゆくとダイニングのカーテンが開いていたままになっているのに気づいた。

 カーテンを引こうと窓辺に立った時

、中庭を挟んで面したK棟の301号室の滑り出し窓から数人の子供達が顔を寄せ合うようにして私に向かって元気に手を振っているのが見えた。

 私達の部屋は最上階三階の端にあり、晩秋まで南側にある中庭の桂がその美しい葉色の移ろいを楽しませていたが、今ではすっかり葉を落とし庭を挟んだ向かいのK棟の三階がいつのまにか現れていた。

 ちょうど雲間からの月明かりに、よく日に灼けたヤンチャそうな男の子たちが弾けるような笑顔で、盛大に手を振ってくれている。

「あの子たちね・・・」

 思わず振り返しそうになった右手の人差し指を口に立て、しーっ!と大袈裟なジェスチャーをしてカーテンをしめた。


 水を飲んだグラスを空の水切りかごにかけると部屋に戻り冷えた体をベッドに押し込んだ。

「ヤンチャでもいい、あんな元気な男の子が一人いても楽しいかなあ」

 さっきみた屈託のない笑顔を思い出しながらいつの間にか眠りについていた。


         *

 

 翌朝ダイニングのカーテンを開いて、えっ?と思わず声がでた。

 向かいのK棟301号室はどの部屋もカーテンがかかっておらず冬空を映す窓ガラスを通して向こうのL棟まで、家具のない寒々としたがらんどうの部屋を見せていた。

 そうだ。私達が越してきた時から空き部屋だったのだ。今まで桂で見えなかったので忘れていたのだ。


 昨日の子供達は空き部屋で遊んでいたのかしら?

 朝から不審な顔をしていたのだろう。

「どうかした?」

 起きてきた夫が聞いた。

「昨夜夜中に子供達が騒いでいたでしょう?」

「そう?気づかなかったけど」

「向かいの空き部屋にも入り込んでいたわ」

「まさか」

「だってあのパントリーの滑り出し窓から私にこうして手を振っていたのよ」

 夫は一瞬私の目を不安げに覗いたが次の瞬間、突然胸を押さえて咳き込みながらヒーヒー笑い出した。

「あーそれ夢!」

 笑い転げるように顔を洗いに行った。

 夢?夢見てただけ?

 洗面所からまだ笑いながらむせている夫の声が聞こえる。

そんなに笑わなくてもいいじゃない。

ふてくされながらキッチンに行くと


 グラスが一つキッチンの水切りかごに朝日を受けながら掛かっていた。


 昨夜私が夢の中で?水を飲んだグラス?


        *


夢ではなかったのだ!

管理人さんに話しておくべきだと昼前訪ねた。

広い敷地に12棟106室の社宅を管理するのは小久保さんという小柄な60歳くらいの男性で一度定年退職をしたものの、誠実で責任感も強く人当たりもソフトなことから入居者にすこぶる評判が良かったため再雇用されたと聞いている。


 昨夜のことを伝えると、笑いながら

そんな事はあり得ない。今も巡回して来たところで、鍵はかかっていたし、中も子供達が中でいた様子などなかった。という。それでも納得しない私を見て

「今から見に行きますか?」とさすがに気分を害したようだ。


「どうですか?」

 小久保さんは笑って私を振り返った。

 K棟301号室の玄関から一通り部屋を見せてもらった。

 どの部屋にもうっすら埃が積もって小久保さんと私の足跡だけがくっきり残っている。 

 昨夜子供達が入り込んだ様子はなどどこにも見当たらない。

 人の良い小久保さんは、申し訳無かったと恐縮する私に、慣れない関東に来られてお疲れが出ているんじゃないですか?と気持ちよく水に流してくれた。

 それでも消化しきれない何かを抱いて自室に向かって歩いている私の横を

「学級閉鎖になった!」

と何人かの子供達がランドセルをカタカタ鳴らしながら嬉しそうに走りすぎて行った。

 そのとき、はっと、思わず振り向いてK棟のあの窓を見た。

 そうだ。昨夜見た子供達は、真冬というのに皆ランニングのようなシャツ姿だった。

 それにさっきの子供達のようにサラサラの長めの髪ではなく皆クリクリの、ぼうず頭だった。


「こんにちはー。どうかされました?」

 後ろから自転車を降りて声をかけてきたのは同じJ棟の一階に住む小泉さんだった。

 何やら思案顔で歩いている、社宅ではまだ一番新参者の私を何か困っている事でもあるのか気遣ってくれたのだ。

「あっ、いえ...」

 昨夜のことを、もう誰にも話す気になれなかった。

「よろしければ、うちによっていかれませんか?今朝、北海道の実家から荷物が届いたんです。トラピストのクッキーもあります。お茶しませんか?」

 年下だけど、すこぶるやんちゃな園児の男の子ふたりを育てながらいつも穏やかでおおらかな雰囲気の小泉さんには敬意を持っていた。

「いいんですか?」


        *


「どうぞ、どうぞ散らかっていますが」

 小泉さんはドアを開いて私を中に招き入れた。

ふわあっと甘い、小さな子供のいる家庭の匂いがした。

  廊下には幼稚園で描いたと思われるインデックス付きの絵が何枚も飾ってある。ちょっとヘンテコだけれどもエネルギーが凝縮してビッグバンが起きそうなものばかりだ。

 中でも、ショッキングピンクとブルーとブラックで描かれた「たいよう」は秀逸で買い上げられるものなら買い上げたいくらいだ。


 窓が切り取る景色も冬枯れの木の先々の向こうにK棟の3階と空が広がる私達の部屋と違って、一階のこの部屋は葉を落とさない南の植栽で、やや暗い。それでも子供のいる部屋は、ボールやおもちゃ、子供用の小さな椅子、傘、レインコート、リビングのテレビの横に子供用タンスなどいろんなものが、時には意外なところにあり、雑然としているけれど、暖かく澄んだ空気に満ち溢れている。

「三階は明るくて暖かいでしょう?うらやましいです」

「そうですか?このお部屋、森の中にいるみたいで開放感ありますよ。私ならカーテンつけないかも」

「でもうちは夜は必ずカーテン閉めるんです」

 めずらしく小泉さんがため息をついた。

「どうして?」

「子供達が外に出たがるんです。お兄ちゃん達と遊びたいって」

「お兄ちゃん達?」

「私には見えないんですけど、子供達には見えるらしいです。チャイルドなんとかっていって幼少期、想像上の友達をつくることがあるそうです。一過性なもので特に問題はないと聞いてそれほど心配していないんですけど・・・」

 窓を閉め切るような寒い季節、風の強い夜など特に小泉さんの子供達は、外で遊ぶ子供達の声が聞こえ、姿が見えるという。外に出たがり誰もいない庭の高い木などに向かって、二人嬉しそうに手を振ったり、話しかけたりするらしい。


 私も随分とうの立った、そのチャイルドなんとかなのか?


        *

 春が来て、社宅から自転車で20分程のあたりにブルーベリー農園があると小泉さんから聞きいて、一人出かけて行った。

 越してきて初めての晩秋の午後、近くの大きな街道を車で走っていた時、フロントガラスから仰ぎ見た、真っ直ぐ伸びた冬枯れの大きなイチョウ並木とその向こうに広がる抜けるような深く高い空の色。関西では見ることの出来ない空の蒼さだった。ふと目が潤んだのは容赦なく照りつける夕陽が眩しかっただけではない。私が今まで感じたことのない、曖昧さのない明瞭で雄大な世界。

 そのもとで喩えようもないほど寂しさを感じずにはいられなかったからだ。


 ただ、今小さな街道を自転車で走っていると、高い屋敷林や、黒々とした杉林の中にひっそり佇む小さな神社、自転車を止めてふと入り込みたくなる、なんとも気持ちを惹かれる雑木林・・・細胞の一つ一つが膨らんでいく気がする。

 なぜこんなにも懐かしい気持ちがするのだろう。


        *


 年配の夫婦が摘み取り作業をしていた。

「こんにちはー」

 お婆さんが腰を伸ばしてこちらを見た。

「こちらは直売されていますか?」

「自分で摘み取ったものを持ち帰って頂くんですがの。そこに置いてある笊一杯で千円」

目の前の畑の入り口に小さなビニール笊が木の台の上に重ねてあった。



「慣れたもんじゃの」

お婆さんはにこにこわらっている。

何度か経験があるので、手間取ることなく収穫出来た。

「大好きなのでまた参ります」

自転車に乗りかけると

「近くかの?」

と聞いてきた。

泉田だと答えると、

「・・・泉田に今はどこか大きい会社の寮か社宅になっとるところがあるじゃろ。あの辺りに昔は国民学校があっての。空襲で多くの子供が無うなった。

うちの息子は助かったが一緒に走り回っていた子らはみーんな無うなって。

暑い暑い夏じゃった。空襲の後なんもなかったように、ツクツクボウシが鳴いておった。この歳になってもツクツクボウシの声を聞くと・・・」

お婆さんの声が遠のいていった。




 帰り道、ぼんやり自転車のペダルを踏みながら、あの夜K棟の窓辺で見た子供達を思い出していた。

 月の光に照らされた弾けるような明るい笑顔。

 なぜ冬の真夜中なのか?

 暑い夏の日盛りに突然絶たれた未来。

 冬の寒さが恋しかったのか?

 なんだか切なくなったその時だ。

 「ふふっ」「あはは」

 私の耳元でかわいい子供の笑い声がした。

 えっ?と周りを見たが誰もいない。


 ただ、私の横をさわさわさわさわ春風と戯れる柔らかな若葉をたたえた雑木林が私に伴走するかのように小さな街道沿いにつづいているのだった。

































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