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食器を流しの桶に入れ、水に浸ける。ミドーは昼食後にいつもまとめて洗っていた。台所横の洗面台に行って歯をみがく。口の中をゆすいで顔を洗い、体を起こしたところで鏡の中の顔と目があった。黒い髪に黒い目、幼さの残る十四歳の少年の顔がそこにある。眉をひそめてみたり、頬を引っ張ったりしてもその顔は変わらない。
「はあ」
ミドーは自身の顔に溜め息をぶつけた。
朝食後は灯台の中を掃除する。とは言え、あるのは箒と雑巾のみで、ミドーもいつも見える範囲しか掃除しない。物の置いてある所の周りはささやかに埃が積もっていた。指の腹でなぞってその跡を見つめ、また別の場所を掃除する。
昼食前に昼の観察記をつけるべく、ミドーはバインダーを持って外へ出た。海側へ回ると、朝は彼方にあった雲が味方をつけてこちらへ挑まんとしている。薄暗く見えた部分は更に色を濃く、そして範囲を広くしてその下の海をも暗く染めていた。ミドーは顔をしかめて用紙にペンを走らせる。
「午後以降、雨の恐れ」
その他、朝と同じ所を回って用紙に記入していった。風は湿っぽく太陽の当たるところは蒸し暑い。しかし、海から寄せる風の中には若干の冷たさが混じり、半袖から出た腕をうっすらと撫でていく。ミドーは腕をさすり、灯台へ戻った。
簡単な昼食を済ませて観察記をまとめ、昨日の夜の分と一緒に封筒に入れる。そうしている間に再び鉱石ラジオが鳴り始める。ミドーが身構えていると、今度は若い女の声が流れ出した。
『こんにちは……いるの?』
ミドーは警戒を解き、ひし形のアンテナを開いて応じた。
「こんにちは。いるよ」
『あら良かった。朝はなかなか出なかったって聞いたものだから』
「だって、出たくなかったし」
声はくすくすと笑う。
『そういえば、用紙はあった? ないのなら明朝には届くようにするけれど』
ミドーは口を尖らせて答えた。
「ありました。あったよ、もう」
『寝ぼけるなんて、ミドーったら子供ねえ』
「あの時は本当にないと思ったんだって!」
『はいはい』
「ちぇっ」
『それじゃあ、お仕事しましょうか。定時連絡』
ミドーは不作法に椅子を揺らしながら「本日も良好」と答えかけて、あ、と自ら遮った。『どうしたの』と問われ、ミドーは椅子を揺らすのを止める。
「……雲が出てきた。雨雲になると思う」
『それはどの方角?』
「東南東。海のずっと向こうに朝はあったけど、昼にはだいぶ雲が大きくなって近づいてきた。まあ、詳しくは観察記見てよ」
了解、と答えた声の響きは硬く、その後しばらくの沈黙が続いた。黙り込んだ鉱石ラジオをミドーが窺っていると、音が戻ってくる時の砂をこするような合図が入る。そして舞い戻った声は、何事もなかったかのように尋ねた。
『……そういえば、足りない物はある?』
「びっくりした、いきなり黙るから」
『ごめんなさい、手元をちょっと片づけていたの。それで、どう?』
「あー……」
ミドーは椅子を揺らしながら周囲を見渡した。そして冷蔵庫で視線を止める。
「あ、そうだ。林檎飴」
『林檎飴?』
「知らない?」
『知っているけど、足りない物でそれが出てくると思わなかったから』
「足りないっていうか、単に食べたいだけなんだけどさ。無理ならいいよ、特にない」
うーん、と声はしばらく考えた後に『大丈夫かも』と言って続けた。
『一個でいいの?』
「うん」
ミドーの声が弾む。
『ちょっと時間はかかるけど、わかった、林檎飴ね』
「よっしゃ、待ってる。そしたらまた明日な」
『ええ。またね。早いけどおやすみなさい』
「うん、おやすみ」
ぷつん、と途切れて鉱石ラジオは静かになった。ミドーはラジオを片づけ、観察記の入った封筒を手に外へ出る。風は先刻よりも湿っぽく、生温い。海側から来る雲はいよいよ暗さを増していた。
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