夢をなぞるように

 本を読むのが好きな人だった。

 臙脂色のカバーを掛けた本に愛おしげな眼差しを向け、細く柔らかな指先でぺらりと頁を捲る。

 何を読んでいるのか、と私が訊けば、彼女は途端に花の咲いたような笑顔で本のタイトルを見せた。

「『夢十夜』の第一夜、このお話がわたし、いっとう好きなのです」

 ふむ、と私はその言葉に首を傾げる。文学に明るくない私であったが、その小説は読んだことがあった。

「夏目漱石か」

「ええ、漱石先生ですよ。素敵じゃありませんか、花になって愛する人の元に逢いにくるなんて」

「そうか」私は曖昧に頷いた。私は花でなく、君のままがいい、などとは言えなかった。


「あの時の言葉、覚えていますか」

 あれから何十年経った春、床に臥した妻が囁く。

 はて、どの言葉か、と記憶を探る私を他所に、彼女はこう言った。

「わたし、死ぬときには貴方に渡したいと思っていたものがあるのです。引き出しの三段目の奥の方に、小袋がありますから、受け取ってくださいね」

 私は、死ぬんじゃなかろうね、と言った。流れるような黒髪に縁取られた白い顔は、さながら夢十夜の女性のようであった。

 でも、死ぬんですもの、と彼女は困ったように微笑んだ。

「百年とは言いません。待てますか」

 私は静かに頷いた。ふっと安心したような顔をして、彼女は息を引き取った。


 それから通夜と葬式を終え、身辺が落ち着いた頃、私は縋るように引き出しの三段目を開けた。がさごそと探し回ると、確かに奥に小袋を見つけた。これだ、と思い、逸る心のままに開けると、中からは黒い粒が何粒か出てきた。

「これは、種か」

 そしてそれとともに、丁寧に折られた便箋が同封されていた。開いてみれば、几帳面な文字で育て方が細かに書かれている。だが、何の種なのかは、なぜか書かれていなかった。


 秋になり、私は鉢にその粒を埋め、育て始めた。

 しばらくすると芽が出てきた。可愛らしいその小さな命に、私の心は癒された。まるで子供を育てているような気持ちで、私は欠かさず世話をした。

 大きくなってきたら鉢から庭に植え替えた。『日当たりの良い場所に置いてやってください』との言葉通り、日当たり良好で風通しも良い場所だ。どんな風に花を付けるのか、私には想像も付かなかったが、それもまた楽しみとなっていた。

 妻が生きていた頃には園芸になど微塵も興味が無かったというのに、自分でも驚くほど、私はこの緑ある生活を楽しんでいた。


 そうやって世話をしているうちに、新しい春が来た。

 小さな種は立派に育ち、米粒ほどの小さな蕾を付け、やがて庭には水色の可憐な花が咲き誇っていた。

「ハルさん」私は小さく妻の名を呟いた。

 彼女の名の季節。彼女を喪った季節。そして、新しい花に出会えた季節を、彼女は私に遺したのだ。


 後日、自宅に招いた友人に、この花が勿忘草であることを聞いた。

「奥さんが種を遺したのかい。そりゃあ、奥さんも嬉しかろう、こんなに立派に育ててもらえたんだから」

 友人が花言葉を調べてご覧、と言うので、私は長らくそのままにしていた妻の蔵書のひとつ、花の図鑑を手に取った。

 ぺらぺらと捲れば、勿忘草の頁が見つかった。

「真実の、愛。私を忘れないで」

 呆然と立ち尽くす私に、友人は微笑んだ。

「この男が奥さんを忘れるわけもないのに、余程心配性と見えるな」

 忘れるわけもない。見合いで結婚した夫婦ではあったが、私は妻を心の底から愛していた。妻もそうであったと言うのなら、こんなに幸せなことはないだろう。


 それから、私はこの本の側にあった夢十夜を手に取って、昔のやり取りを思い出し、合点がいった。ふはは、と唐突に笑い始めた私に、友人がどうした、と訝しげに訊く。

「夢十夜か、それじゃあこの花は君なのだな」

 首を捻る友人を気にも留めず、私は腹を抱えて笑う。ああ、花でも良かったのだ。逢いにきてくれるのなら。

 咲き誇る花の中に、彼女の微笑みが見えた気がした。

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がらくた箱に詰めこんで 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda

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