厭離穢土

リペア(純文学)

厭離穢土

小柄ながら化粧を乗せて大人らしい、高いブーツにアコースティックギターを担いでいる花鳴(かな)という人物。


彼女は毎週月曜と金曜に夜八時から一時間、駅前で弾き語りをしている。その駅は私の職場の最寄り駅で、多くの路線が通る駅が故に多くの人が出入りする、集客には絶好のスポットだ。


駅前広場にスピーカーを置き、マイクの設置、ギターのチューニング、そして時間になると前に小さい缶を置いて歌い始める。缶にはいつも小銭が入る。


歌う時、彼女はいつも微笑んでいた。俗にいう「アルカイックスマイル」というやつに近い。そして彼女の歌声は、例えるとしたら「霧」だ。聴く人の身体に浸透し、背筋を震わす。その歌声は行き交う人の流れを止めた。


私は彼女の弾き語りにいつも足を止めている、彼女を応援している一人間だ。彼女は歌う時には真剣なくせに、歌い終わって会話を挟む時は小声でおとなしく、フフッと小さく笑う仕草を見せてくれるのだ。そんな姿に惹かれる人も多い。



九月二十五日(金)

今日は『翼』を歌っている。「ねぇ、私を見て…」というフレーズが有名だ。彼女の歌声はマイクから線を辿って、スピーカーから霧となって発され、辺りを包んだ。彼女の作るその領域に入る者は皆足を止め、また誰かが足を止め、私の後ろには人だかりが出来ていた。


「…ありがとう。」


拍手が上がる。


「来週も八時からここでやるので来てください。」


次の月曜が待ち遠しい。彼女は帰る支度をし、私含め観客は帰ろうと駅に入っていった。



九月二十八日(月)

私は八時少し過ぎにいつもの駅前に来たが、彼女は遅刻したらしく、今から一曲目だ。


「聴いてください、『run』。」


有名な応援歌だ。今日の彼女の歌唱には少しばかり揺らぎがみられたものの、月末で疲れた私を癒した。彼女のおかげで毎月頑張れている。彼女の歌唱は天賦の才能だ。歌唱に全く詳しくない私が彼女の才をそう認定した。


今日も九時に終わった。観客が去って行く。おっと、仕事の電話だ。比較的早く片付けを済ませていた彼女が諸々を持って駅に入るのを横目に、私は電話に出た。どうやら明日の会議について確認したいことがあるようだ。長い電話となるに違いない…




━━ここで私の話をしよう。彼女に出会う前、まさに「世間に揉まれる社会人」の鑑であった。就職した矢先、社会の裏と理不尽、弱肉強食を経験した。

かくしてふらつきながら帰路についていたある日、駅前で弾き語りをする彼女を目にした。私のほとんど閉じた眼には彼女のガーベラの花の様に美しい容貌を見、何も聞かぬと閉じた耳には彼女の歌声が浸透した。その日は『launch』という曲を歌っていた。「あきらめないで、ここからだから」という歌詞が、果てたはずの私のエンジンをかけた。同時に、持てる鬱憤が蒸発し、涙となって流れ出た。彼女の存在が私を救い、これからも彼女を聴こうと決めたのだった。───




…仕事の電話を勢いよく切った。連日の疲労につき、褒美がてら今日は旨いものを食べたい。どこかで食べて帰ろう。ただ、この辺りの飲食店は全く知らない。とりあえず駅の通路をさまよってみた。すると、中華系の香ばしい匂いが私の腹を鳴らせた。匂いを辿って、その発生源である中華料理屋に入った。


年老いた店長がバイトを雇って経営しているようだ。席に着き、お冷が置かれる。メニューのチャーハンを指さし、これお願いします、と店員の顔を見る。唖然とした。目の前には確かに彼女がいた。顔と言い、「わかりました」と言うその声と言い、いつの日も聴いた彼女であった。


「あの、もしかして花鳴さんですか?」


いつもは距離的に気づかなかったが、彼女は目に隈を患い、指にはいくつか絆創膏をしていた。私の問いに彼女は下を向いて、間を作った。


「違います」


彼女はそう答えた。一瞬うつむいた様子に、私はそれ以上追及することはしなかった。ただ、彼女のせかせか働く様子を見ていた。


「客が待ってるよォ、はやくしろォ、いつもいつも…」


店長が彼女に怒る。「いつも」あのような当たり方をされているのか。気の毒だ。


「すみません」


彼女は小声でそう言って、そそくさと他の客の対応を始めた。店内を忙しく歩き回っている彼女は無表情であった。

すると店長は彼女に対して咎めを重ねた。


「だいたい、やる気あんのかァ?」


そう言われた当の彼女は口をすぼめ、下唇を噛んでいた。


察するに、店長のそしりがむちとなって彼女を痛めつけているようだ。彼女はその痛みに耐え、さぞ鬱憤を山積させているはずだ。

ただ慰めようにも、店長の監視といい、彼女の忙しさといい、声をかけられるような暇は無く、私はいつの間にか出されていたチャーハンを頬張り、別の店員に会計してもらった。


店の去り際のことだった。また彼女が怒鳴りつけられた。店長に「ちょっとこい」と言われ、これから彼女は外で説教をされるようだ。そんなに彼女を痛めつけたいのか。なんという店だ。私は心の中で店長をぶん殴った。



十月二日(金)

先日の光景を見て、私は彼女への応援の意を込めて八時より早めに来た。しかし八時になっても彼女は来ず、また遅れてきた。彼女はそそくさとギターを用意する。


一つ咳を置いてから挨拶をして、『As you know…』を歌い始めた。「いなくならないでよ、だって君は唯一無二なのだから」というフレーズが有名な悲しい曲だ。そんな歌であるからか、今日はその歌声を聴く人に涙を流す人が多く見られた。


歌声に涙を流す人というのは、何かに疲れ果て、何かに蔑まれ、何かに敗れた人に違いない。今日はそれほど多くの人々が傷心を抱いているということなのだろうか。


いや、疲弊しているのは彼女も同様である。彼女の毎日は、苦労と勤労の仕打ち、その繰り返し。連日懸命に働き、懸命に訴え、懸命に生きている、あの若さでだ。そんな彼女への同情に私の涙が頬を伝う。


九時になり、今日も彼女のステージは終わる。彼女は帰る支度をし始めた。慰めに声をかけようとしたが、先日の邂逅で気まずく、一万円札を缶に入れて帰った。

果たして彼女はこの後例のお勤めへ行くのだろうか、帰路に就き家に眠るのだろうか。昨日、彼女の日々の苦労と勤労の仕打ちを見た私は、後者を願った。



十月三日(土)

━━「本日のニュースです。今日未明、東京都国分寺市某所にて恐らく十代後半とみられる女性が遺体で発見されました。遺体は原型を留めておらず、警察は背後の高層ビルの最上階に近い高さからの飛び降り自殺とみて身元の確認を進めています。」

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