番外編1:侍女たちのお喋り
夜に出かける予定があったため、疲れのたまっていた私は仮眠を取っていた。しかし、いざ寝ようと思うと頭が冴えてしまい、仕方なくしばし体を休め、予定よりも早く起きることにした。
執事に頼むことを思い出し、誰かを呼ぼうと廊下に出るが、私の睡眠を妨げないようにという配慮なのだろう、珍しく使用人が見当たらない。急ぎでもないので自分で執事を探そうかとも考えるが、大きな屋敷と広大な庭園の管理を統括するこの家の敏腕執事は神出鬼没で、当てもなく探すのは無駄だということは、この屋敷では常識である。
この様子ならばおそらく使用人の誰かしらはダイニングで休憩を取っているだろうから、執事の居場所を尋ねてみようと思い立ち、使用人ダイニングへと向かう。心の中でうっすらと、そこにシルヴィーがいることを期待しながら。
そのころ、使用人ダイニングでは、ふたりの侍女がお茶を飲んでいた。
時折笑い声をこぼしながら、世間話や恋人の話に興じているようだ。
ひとりはあまり聞き馴染みのない声であったが、もうひとりの声は自分の身の回りの世話を担当しているマリーのものだとすぐに分かったので、休憩中に申し訳ないが声をかけようと思ったのだが…
開いていた扉から中に入ろうとした瞬間、伯爵はあることに気付き、思わず扉の陰に身を隠す。
――これは、シルヴィーの笑い声か!
話題を振り、お喋りに夢中な様子なのはマリーであったが、彼女の向かい側、扉に背を向けて座っていたのは、間違いなくシルヴィーであった。
彼女はマリーの話の聞き手になっているが、時折相槌を打つ声や、「ふふふ」と可愛いらしく笑う声が聞こえる。
自分付きの侍女の会話を盗み聞きするような真似は、決して褒められたものでないことはもちろん分かっている。しかし今、伯爵の心は衝撃と後悔と嫉妬の波で荒れていた。
――半年も専属侍女を務めているシルヴィーの声を、「聞き馴染みがない」などと思った間抜けは誰だ。しかし私は彼女の笑い声を聞いた記憶がない。これほど可愛いらしい笑い声ならば絶対に忘れない。つまり私は一度も彼女を笑わせたことがないのか…なんてもったいないことをしていたのだ!
それにシルヴィーは言葉は少ないが、マリーとは会話をしている。私と話すときのような一往復のやり取りではない。なぜマリーとは仲良く話すのだ…?私が上司だからか?男だからか?一体なぜなんだ…?
混乱中の伯爵は知る由もないが、実は先ほどチラッと扉から中をうかがったときに、入口側を向いて座るマリーは、視界の端に伯爵の姿を捉えていた。そして自分の専属侍女たちが中にいると知りながら、声を掛けずにすっと引っ込んでしまったことから、伯爵の状況を正確に推測できていた。彼女もまた優秀な侍女であった。
通常であれば侍女らしくすぐに伯爵の御用聞きに伺うのが正解であるが、敢えて話を止めずに自分の恋人とのやり取りを面白おかしくシルヴィーに聞かせて笑わせているのは、ひとえに彼女との会話を模索している伯爵への叱咤激励であり、彼女の声を聴きたいであろう伯爵への思いやりでもある。彼女は本当に優秀な侍女なのだ。
…もちろん、そのうち三割くらいは自分の方がシルヴィーと仲良しだという自慢と、普段伯爵の前で見せる姿とは違う彼女の様子に、今頃扉の影で悶えているであろう伯爵へのいたずら心である。
せっかくなのでもう少し面白い話を聞かせてあげようと考え、自分と恋人の話から自然に話の流れをシルヴィーに向ける。
「ねえ、シルヴィーは恋人はいないのよね?ちょっと良いなあとか素敵だなあと思う人はいないの?」
「…いません」
――……!いないのか!
侍女の個人情報を陰で聞くなど、上司として以前に人間としてダメだと思いながらも、伯爵はその場を離れることができない。
「旦那様は素敵じゃない?」
突然マリーの口から飛び出した自分の話に、伯爵は固まる。まさか自分の背後の扉の陰に伯爵本人がいることなど知る由もないシルヴィーは、少し考えてから困ったような声で答える。
「…素敵です。でも、マリーの言うような意味での『素敵だと思う』というのとは、違います」
素敵と言ってもらえた嬉しさと、異性として見られていないという事実に、伯爵は喜んで良いのか悲しんで良いのか分からない。
「じゃあ、旦那様のどういうところが素敵だと思う?」
シルヴィーはまたもしばらく考えてから答える。
「…使用人にも、きちんと挨拶やお礼を言ってくださるところです」
「へえ?例えば?」
マリーは内心面白がって先を促す。シルヴィーは言葉を考えながら、ゆっくりと話す。
「…旦那様は、私が何かをお渡ししたり、お答えしたりすると、必ず『ありがとう』とおっしゃってくださいます。…朝や晩にお会いすると、必ず声を掛けて挨拶してくださいます。伯爵様でありながら、使用人にこれほど気を遣ってくださるところが、素敵だと思います」
シルヴィーが素直に自身を褒めてくれたことに、伯爵は顔を赤らめ、思わず片手で口を押さえた。
この半年、何とか少しでも話のきっかけを作ろうと、毎日のようにシルヴィーに挨拶をしており、その度に「おはよう」「おはようございます」だけのやり取りから一向に会話が広がらないことを嘆いていたのだが、まさかそんなことを素敵だと言ってもらえるなんて夢にも思わず、胸の中に喜びが溢れてくる。
余談であるが、シルヴィーにだけ積極的に挨拶をするのもおかしいので、伯爵はこの挨拶を身の回りの使用人すべてに対して日々行っていた。
伯爵家の使用人は元々礼儀正しいが、伯爵自ら率先して挨拶しているとなれば、使用人もその流れに従うことが当然であり、使用人間の挨拶も自然と増え、徐々に徹底されるようになっていた。もちろん、シルヴィー以外の使用人は挨拶が増えた理由を理解しており、旦那様が少しでもシルヴィーに声を掛けやすくなれば良いという気遣いでもあった。ちなみに、使用人の間ではこの現象のことは「挨拶運動」と呼ばれている。
そして伯爵家の挨拶運動は、もちろん彼にも広がっていた。
「おはようございます、旦那様。ご機嫌いかがでしょうか。仮眠はもうよろしいのですね?」
シルヴィーの父親でもある執事が、いつの間にか気配もなく伯爵の背後に立っていた。いつもの不動の微笑みを湛え、慇懃な挨拶をする。なぜか両手には山のような書類を抱えて。
「…あ、ああ、おはよう。もう夕方だがな…。思ったより寝付けなくてな」
「左様でございますか。では、ご起床されたばかりのところ恐縮ですが、早速執務室へお願いします。見ての通りご確認いただきたいことが多くございますので」
自分が侍女の会話に聞き耳を立てていたことに後ろめたさがあるため、執事にいつから後ろにいたのかと尋ねることもできず、仕方なくしどろもどろな挨拶を返す。
いつもと同じ微笑みなのに有無を言わさぬ空気を出す執事と、気の重くなる書類の束に、こっそりとため息をつきながら、伯爵は渋々仕事に向かうのであった。そしてこの後、容赦ないペースで書類仕事をさせられたことは言うまでもない。
――明日もまたシルヴィーにたくさん挨拶をしよう。そしていつか、彼女の笑い声を、私との会話で聞いてみせよう。
心の中で静かに伯爵は決意を燃やす。そして隣で微笑む執事を見てふと気付く。
――待て、私はこの執事の笑い声も聞いたことがないぞ…?
父親によく似た完璧な微笑みを持つ侍女の姿を思い浮かべ、伯爵はこれからの自分の長い道のりを悟ったのであった。
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