第2話 侍女は誓いを新たにする

 シルヴィーが私付きの侍女となってから、一年が経過した。

 彼女の母親の腰はある程度は回復したものの完治には至らず、腰への負担の少ない他の仕事を任せることになり、シルヴィーは私付きの侍女を続けている。


 私は相変わらず彼女との会話を続けられずにいた。

 どうしても会話が一往復で終わってしまうのだ。


 悩んだ末に、私は猛烈に勉強した。

 彼女の回答や提案が優れているから会話が終わってしまうのだから、私がさらに彼女の回答を上回る提案をする、もしくは、彼女の案に匹敵する別の角度からの提案をすることができれば、会話は終わらずに何往復もやり取りができるはずだと考えたのである。



 しかし、結果は撃沈であった。


 いや、仕事の上では非常に成果が出たので私の努力は決して無駄ではない。王宮では内務省大臣補佐の地位を得たし、領地経営は順調で税収も右肩上がりとなっている。


 しかし私の目的はそこではないのだ。

 ただ、シルヴィーと話がしたいだけだったのだ。


 今日こそ彼女と相談をしようと意気込んでも、彼女の提案はいつも私の一枚上をいってしまう。


 また、負けじと私も良案を考えるが、思いついた瞬間に彼女も同じ考えに至り、ふたりで目を合わせて頷き合っただけで会話が終了してしまうという残念な事態も起きるようになった。

 結果として、以前は一往復はできていた会話が、ついにゼロ往復にまで至ったのである。


 ――なぜだ、こんなはずではなかったのに。私は彼女ともっと会話がしたいのに。



 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴


 私がお仕えしている伯爵様は、非常に優秀な方だ。


 幼い頃から利発で、王立学院貴族科の特別クラスを卒業され、二十代の若さでありながら領地経営と王宮勤めをしっかりと両立されている。


 私の両親も祖父母も、長年伯爵家にお仕えしている。

 子どもの頃から「シュヒギムだから」と言って伯爵家の内情などは家族からも一切教えられなかったが、私よりも6歳年上の「ぼっちゃま」がいらっしゃるということは知っていた。


 ちなみに、学院に入学するまでまったく気づいていなかったが、どうやら私の家の教育は厳しかったらしい。私自身は新しいことを知ることが楽しくて、家族に教えられることは喜んで受け入れていたのだが、誉められた記憶はあまり多くない。


 しかし、賢く努力家の「ぼっちゃま」のことは、両親も祖父母もいつも誉めていた。

 普段表情も口数も少ない彼らが、「ぼっちゃま」のことになると少しだけ饒舌になるのが嬉しくて、幼い私は「ぼっちゃま」の話を聞くのがいちばんの楽しみだった。また、物知りで尊敬している両親や祖父母が誇らしげに語る「ぼっちゃま」はなんだかすごい方なのだと感じていた。


 私と年齢の近い、それはそれは可愛らしい「おじょうちゃま」もいらっしゃるとは聞いていたが、当時の私はお人形遊びよりも本や図鑑を読むことが好きで、天使のようだという「おじょうちゃま」よりも、優秀な「ぼっちゃま」への興味の方が強かった。


 「ぼっちゃま」が隣国の公用語の通常会話をマスターされたと聞けば、私も両親に頼み込んで教えてもらい、計算が素晴らしく速いと聞けば、街の算術教室に通わせてもらって計算を頭に叩き込んだ。

 勉強だけではなくスポーツから音楽まで多才であるという「ぼっちゃま」は、私の中でいつしか憧れのヒーローのような存在になっており、少しでも追いつきたくてどんなことでも愚直に学んだ。


 我が家は伯爵家の裏門の少し先にあり、距離だけで言えばご近所であったが、祖父母も両親も使用人としての距離をきっちり線引きしていたので、幼い私が「ぼっちゃま」や「おじょうちゃま」のお姿を目にしたことはなかった。


 周囲を塀と高い木々に覆われ、裏門ですら重厚なつくりのそのお屋敷は、近いはずなのに私にはどこまでも遠く感じられ、ただただ憧れの世界となっていた。


 いつか私もあのお屋敷で働くんだと、幼い頃からずっと決めていた。



 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴


「あなたはなぜ我が家を選んだのだ?」


 腰を痛めた母の代わりに旦那様付きの侍女として働きだしてから一月ほど経ったころ、そう尋ねられた。


「夢でしたので」


 私は迷いなく簡潔に答えた。

 使用人一家に育った私は、無駄なお喋りは厳禁であると心得ているため、常に必要最低限な回答をしている。旦那様の疑問は、おそらく私が爵位の高い他家からも仕事の誘いを受けていたことを耳にされてのものだろうと推測できたので、素直に理由を答えた。


 そう、今私は憧れ続けたお屋敷で侍女として働いている。

 昨年の学院卒業後からお仕えしていたお嬢様が先日めでたくご結婚され、母の怪我のタイミングもあり、私は旦那様付きの侍女に配置換えとなった。


 お嬢様からは婚家でも引き続き仕えてほしいとのお言葉をいただいており、私としても憧れのお屋敷で働くという夢はすでに叶ったので、主人であるお嬢様からの命であれば否やはなかった。


 母だけでなくすでに隠居生活を送っている高齢の祖父母も心配なので、家からもほど近い今のお屋敷で働き続けたいという気持ちはもちろんあったが、使用人一家である我が家からすれば、そんなことは二の次で、お嬢様に着いていくことにまったく異論はなかった。


 しかしそれをあっさり覆したのが旦那様であった。


「家族のことも心配だろう」


 配置換えを言い渡されたときに、静かにそう付け加えられた言葉は、短いのにとても温かく感じられた。

 働き始めてからずっとお嬢様付きであったので、旦那様と挨拶以外で言葉を交わしたのはこのときが初めてであったが、子どもの頃から素晴らしい方だと聞いていた「ぼっちゃま」が、ただ優秀なだけでなく、新米侍女とその家庭にまで気を遣ってくださる方だと分かり、私の心は歓喜に震えた。


――幼い頃から憧れたお屋敷で、尊敬し、目標としていた「ぼっちゃま」のそばにお仕えすることができる。私はなんて幸運なのだろう。


 これまではお嬢様付きであったこともあり、旦那様はもちろん自分の主ではあるのだが、どちらかというと自分の家族がお仕えしている「旦那様」として色濃く認識していた。この瞬間に初めて、この方は自分自身が誠心誠意お仕えするべき「旦那様」なのだと、私の中で気持ちが変化したことが感じられた。


 自分の心境の変化と共に、旦那様付きとなることが決まったあの日の感謝と、幼い頃の憧れがふっと胸によみがえり、伯爵家に仕える理由が「夢」であったことを答えた瞬間、無意識に、少しだけ唇の端が緩んでしまった。


――いけないいけない、侍女たるもの常に表情を崩してはならないのに。


 幼い頃、両親と祖父母から口を酸っぱくして刻まれた教育を思い出し、気を引き締める。


 常に冷静であり、自分の感情を出してはいけない。お仕えする方に気を遣わせてしまったり、他者に主の大切な秘密を悟られたりしてはいけないから。


 また、ポーカーフェイスとして無表情であってもいけない。主やお客様に対し失礼のないよう、常に微笑みをたたえること。その微笑みは冷たいものであってはならず、温かみを感じらえる微笑みであること。ただし親しみやすすぎる笑顔でもいけない。相手との適切な距離を保つために。


 学院のクラスメイトにはあまりにも変わらない私の表情をよくからかわれたが、子どもの頃から鍛えられたこの表情は、普段は完全に無意識でコントロールされている。

 今のように一瞬でも崩れるのはとても珍しいことであったが、それがよりにもよって旦那様の前だなんて、あってはならないことだ。


――今夜一晩、いや、三日三晩反省しよう。


 瞬きを一度する間に自分の中で結論を出し、緩んだ表情を旦那様に気づかれたかしら?と顔を上げた。

 旦那様はなぜか一瞬だけ優し気な表情を浮かべて、すぐに私から目を反らした。どうやら話は終わったらしい。


 「夢でしたので」という一言でご納得いただけるのかと少しだけ不安にも思ったが、杞憂だったようだ。何事も簡潔に答える習慣が染みついた私の発言は、人によってはうまく理解してもらえないことがあり、そういうときは少し説明を加えたり、伝え方を変えたりするようにしている。


 「夢」という言葉の前に、「こちらのお屋敷で働くことが」とか、「伯爵家にお仕えするのが」とか、もう少しだけ説明を加えた方が良かったかとも思ったのだが、旦那様は理解してくださるタイプの方のようで、それ以上は聞かれなかった。


 普段の旦那様のご指示も、短い言葉でありながら明瞭で、とても分かりやすい。旦那様のお父様、つまり先代の伯爵様も寡黙な方であったそうだ。


 お嬢様は若い女性らしくお喋りもお好きな方だが、仕事に関する指示は的確であったし、公私をきちんと線引きされ、公の場では慎重に言葉を選んでお話しされていた。

 余談だが、お嬢様は公私の「私」の方に振り切ったときには滝のように言葉が溢れ、普段から表情の動かない私を質問攻めにしたり、街で人気の語り部の鉄板ネタで笑わせようと画策されたり、掘られても何も出てこない恋愛話を根ほり葉ほり聞き出そうとされたり…まあ少々、いや、かなり、困ったこともあったのだが、そのおかげで私の侍女としてのポーカーフェイスと冷静さは鍛えられたという自覚がある。

 お嬢様はバランス感覚に優れた方で、そのように時には私や他の侍女たちをお茶目に困らせることはあっても、人が嫌がる部分には決して踏み込まず、使用人にまで気さくに接してくださる素敵な主であった。


 やや思考が飛んだが、こちらの伯爵家はやはり端的な言葉を好まれるご一家なのだと思う。

 そもそも両親や祖父母が私に教育した内容も伯爵家のご意向に沿っていたであろうと考えると、おそらくこの理解は間違っていないはずだ。


――旦那様付きの侍女として、私も失礼のない程度に簡潔な言葉遣いを心掛けよう。そして旦那様の少ないお言葉から、お考えを汲み取れるようにならなくては。一度で理解せずに質問を返すようでは侍女失格だわ。


 そのためには旦那様の執務に関わる王宮や領地のお仕事のことだけでなく、旦那様の思考や嗜好、交友関係や利害関係、その他旦那様と伯爵家に関わる情報はすべて収集し、瞬時に状況の把握と侍女として最善の行動が取れるよう判断できるようにならなければいけない。


――早速どこから手を付けるべきか検討しましょう。


 私は三日三晩の反省会での議題を心の中でひとつ追加した。



 ∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴


 私が旦那様付きの侍女となってから、一年が経過した。


 この一年間は私のこれまでの人生の中で、間違いなく最も濃密な時間だった。幼い頃から優秀だと聞いていた旦那様は、私が想像していたよりもさらに優秀な方で、様々な分野に精通し、文化や芸術にも造詣が深く、交友関係も多岐に渡った。また、それらすべての知識や能力、人脈を惜しみなく使い、領地の発展と王宮勤めを見事に両立されていた。


 私は旦那様に着いていくため、また、次に旦那様がおっしゃることを見越して準備をするため、死に物狂いで勉強した。

 同時に、屋敷の執事や侍女・メイド・料理人・庭師・厩番などの使用人たちはもちろん、郵便配達人、靴磨きの少年、街の商店の奉公人、飲食店のオーナー、王宮の侍女やメイド、他家の下働きの少女たち、騎士団の門番、領地の管理人、農民グループのリーダーなど、少しずつ人脈を広げ信頼関係を築き、多種多様な情報が常に耳に入ってくるよう網を張り巡らせた。


 それでもやはり私など及びもつかないほど優秀な旦那様なので、毎日思いもよらない方向から新しい提案や仕事について投げかけられ、その度に内心では冷や汗をかきながら必死で考えを巡らせた。

 私の返答がなんとか及第点であったのか、旦那様はいつもそれ以上は何もおっしゃらない。しかし、いつからか私の答えに対して旦那様が少しだけ難しい顔をされることが増え、私の努力はまだ至らないのではないか、不十分な点があったのに私の能力ではそれが限界であると呆れられているのではないかと、不安に思うこともあった。



「新しい橋を架けるにはどこが良いだろうか」


 今日の議題は、先日起きた川の増水で流れてしまった領地の橋の再建についてだ。

 領民の利便性の高い場所に架けられたその橋は、彼らの生活において欠かせない存在であるが、この場所の橋が流れてしまうのはこれが三度目で、数年前にも架け替えられていた。


 建設方法や増強方法ではなく、旦那様は「どこが」とおっしゃった。つまり同じ場所では同じ結果になることを見越し、利便性の高い別の場所への移設を考えられているのだろう。私もその点については賛成であった。おそらく同時に治水対策についても考えられていると見て間違いない。


 執務机の上に領地の地図を広げ、しばしふたりとも黙り込む。地図上の川の上をお互いに人差し指でなぞりながら考える。


 ある一か所で旦那様の手が止まる。しかしその場所は利便性は高いが前の橋の場所と地形が似ており再発の危険性がある。旦那様も瞬時に同じ判断をされたようで、また指が動き出す。


 私も気になる場所を見つけ指を止めるが、こちらは橋の安全性は高まるものの領民の生活の導線を考慮すると不便になりすぎてしまうと気づき、また他の場所を探し出す。


 ふと、以前の橋から距離もそう遠くない場所で見落としていた個所に気づき指を止める。

 同時に旦那様の指も同じ場所で止まった。


 ふたりで顔を見合わせる。


――ここはどうだろうか。

――場所は良いですし利便性も間違いないですね。しかし再度崩れる危険性も…

――いや、この川岸の部分の治水工事を同時に進めてこの向きで橋を架けたら…

――この支流の川も併せて補強を進めたら…


 このやり取りを脳内で終わらせ、同時に頷き合う。決定であった。


 最近はこのように旦那様の思考に少しだけ追いつくことができたと感じられる瞬間が増え、自分も多少は成長できたのかと嬉しく思うと同時に、旦那様の問いの時点でこれが即答できなかったことに悔しくも感じる。

 私はまだまだ勉強が必要なようだ。


 ふと旦那様へ視線を向けると、決定にはご満足されているように見受けられるが、どことなく微妙な表情をされていた。やはり私が至らないのがご不満なのかもしれない。

 旦那様は時折このような表情をされる。何かもう一言おっしゃりたいようでいて、言い出しにくそうにされているご様子を見ると、お優しい旦那様が私への指摘を躊躇われているようにも感じられるし、もしくは今の私に言っても仕方がないことだと不甲斐ない私に対して諦められているのかもしれないと思う。


――申し訳ございません、旦那様。いつか本当にご満足いただける侍女に、私はなります。


 直接指摘されたわけではないので、私は心の中で旦那様にそっと頭を下げ、今日も誓いを新たにするのだった。


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