土御門天音(ニ)
倉橋帳と出会った日より先、七歳になって陰陽寮へ通うまでの間は、ただただ屋敷内で孤独に過ごす日々だけが続いた。
新たな刺激が――世界が、陰陽寮という環境が増えて、それから、夏を仰ぎ、秋にまどろみ、冬で震え、そして、再び春が芽吹いた頃、私はアマテラスの存在を自覚した。
土御門家の屋敷と陰陽寮を車で行き来する際は必ずと言っていいほど、
とはいえ彼が運転しているわけではなく、運転席と明確に区切られた後部座席へ一緒になって乗り込む。
運転している人については……いつも私達より先に乗り込んでいて、どんな人が運転しているのか、挨拶すら交わした記憶がない。
車内は向き合う形に黒革の座席が敷き詰められていて、黒く塗りつぶされた窓では外の景色を楽しむこともできず、ただでさえ口数の少ない閂も、私との会話を拒むようにいつも分厚い本へ視線を落としていた。
「この風鈴どうやって浮いてるんですか?」
「俺の趣味だからだ」
ただ彼は私が話しかければ無視することはなく、何かしらの応答を見せてくれた……言い回しが独特で、私はほとんどよく理解できていなかったけど。
そんな無愛想な変人でも、毎日顔を合わせ、何度か会話を交えていると次第にそれが楽しみになってくる。
子供は苦手だ、いつもスーツだ、雨が降ると髪の毛がはねる、本や風鈴を浮かせたり、手品が上手い、笑顔を見たことがない、でも本当は優しい、私には無愛想、でもやっぱり、たぶん、優しい。
少しずつ彼のことを知っていく、少しずつ彼との距離が縮まっていく、嬉しかった。
陰陽寮での教育は小学校で習うようなものと大差なく(後々、中学校のクラスメイトから聞いた)、だけど、時折、陰陽道や式神とか、土御門家にとって大切なこと、それから、世の中がどんなことになっているのか、違う世界から迷い込むもの、そして、それに対して世間はどう思っていて、私達はどうすべきか、色々なことをモニター越しに学んだ。
教えてくれる相手は機械的な音声が流れる学習ソフト……どうやら陰陽寮は土御門の
とはいえ屋敷に半監禁状態だった幼少期と比べれば、好きな昼食を選べたり、閂を待つ間にアニメを見れたり、お手洗いのついでに寮内をうろうろしても怒られない、とにかく多くの選択肢が私に与えられていた。
だから、陰陽寮から脱走するのはそう難しい話じゃなかった。
もっと外を見てみたいという気持ちがあって、それから、閂を困らせたかった、ううん、もっと私にも興味を持って欲しかったのだと思う。
自身の成長につれて声を聞く頻度は確実に増えていて、その日も壁の向こうから誰かの声が聞こえていた。
『■■、■■■』
閂は決まった時間に迎えにくるまで、どこでなにをしているのか分からないし、陰陽寮の上の階では人の気配が薄い。
誰もが私の素性を知っている訳でもなさそうで、特に一階へ降りると、そこでは一般人の往来が多く、私ぐらいの背格好をした子供の姿も珍しくなかった。
知らない大人の背を追って、寮の外へ出ると、小粒の雨が真っ直ぐに空から落ちてきていた。
敷地内で静かに止まるタクシー、ゆっくりと降りてきたおばあさんは傘を広げることなく小雨に打たれながら、こっちへ……陰陽寮の入り口に向かって歩いてくる。
「こんにちは」
答えることなく皺を寄せて微笑みを返すおばあさんとすれ違い、陰陽寮の敷地を囲うフェンスを横目に堂々と正面から出ると、そこから先は未知の世界だった。
点滅する赤色の信号、その下に幾つもの影、傘、肌の色が違う人、あの人は角が生えてる、あっちは尻尾、四足歩行する初めて見る誰か、雑多に塗れた大きな交差点は陰陽寮よりもずっとずっと情報量が多くて、学んだ通り京都にはたくさんの式神……遠いどこかの世界からやってきた人達が居るんだと目の当たりにした。
『■■■■、■■■』
言葉を聞き取れなくても、なんとなく呼ばれているような気がして、声の方を目指して歩いた。
狭い路地に入り込むと古めかしい民家が多くなり、忽然と人の姿が消えてしまう。
やがて、髪から雨粒を滴らせながら辿り着いたのは、雑草が茂る空き地の隅……セメント造りの階段の先に錆びついた赤茶色の扉だけが残る、所謂――超芸術トマソンだった。
開けても向こうには何も無いのに、どうしてかぽつりと形を残す扉。
『■■』
扉の取っ手を掴む。誰かの声が、足音が、雨音が聞こえている。
『■■■』
力を込めようとした。
「やめとけ」
そんな私の小さい手を包み込むように誰かの手が重なった。
振り返ると、買い物袋片手に立つ男性がこちらへ優しそうな眼差しを向けていた。
「嬢ちゃん、遊ぶなら他の所にしとけ」
「でも、この先から声が……」
「そうか、珍しいことじゃないのか……子供がこういうのに敏感ってのは本当っぽいな」
「開けちゃ駄目ですか?」
「そうだな、戻ってこれなくなるかもしれないぞ、親御さんも心配するだろうし、嫌だろ?」
忠告の内容は私にあまり効果がなかったと思うけど、彼の穏やかな声音から、この人に迷惑をかけちゃいけないと思って、大人しく手を引こうとした。
『■■■、■■■■■』
――でも、私の意思に反して、離れかけていた手は再び取ってを握ると、そのまま扉を勢いよく開け放ってしまう。
そして、その先に夜の広がりを見た。
私達が立つ曇天の空よりも更に暗い向こう側、砂混じりの冷たい風が飛び込んでくる。
「今の開ける流れじゃなかったよな!? ったく、離れるぞ!」
「わっ」
彼が屈んで私の膝の裏に腕を回したかと思うと、瞬きの間に私を持ち上げてひとっ飛びし、私が歩けば十歩以上はあるだろう距離を扉から――空き地と路地の境い目ぐらいまで離れていた。
彼は私を地面へ立たせるようにゆっくりおろすと、一緒に置いた買い物袋からはみ出ているネギを引っ張り出した。
凄く立派な青ネギだった。
凍てつくような夜を吐き出そうとしている扉を睨みながら、掴んだ青ネギの感触を確かめるように何度か振り回している。
「久しぶりだな、岬勇司」
そんな彼に声をかけたのは、いつから居たのか……私達の背後に立っていた閂だった。
「閂、これ、てめぇの厄介事かよ!」
「悪いことだ、俺が何かしたか?」
「てめぇがここにいる時点でアウト! おい、ぶったぎるから止めとけよ!」
「お前との関係も短くない、安心しろ、敷地の外には剣閃も風圧も……音さえも届かない」
「へぇへぇ、お前これ朝日の手柄ってことで特別手当出しとけよ」
岬勇司さんがため息混じりに青ネギで宙を切る。
ただその場でネギを横に振っただけなのに、次瞬、扉の奥に広がっていた夜が真っ二つに引き裂かれていて、裂かれた夜は私が息を吐くよりも早く、突風へのまれたみたいになって消し飛んでしまった。
扉の奥に残ったのは、扉の外にも見ることができる変わり映えのない隣家の塀だけだった。学んだ通りの超芸術トマソン……無意味な扉だけが何事もなかったかのように佇んでいる。
『識訳庁の……いや、土御門か? てめぇら何を企んでるんだよ』
声の調子は岬勇司さんのものだった。でも、その一言は頭の中へ直接届くような響きをしていて、それは私がここへたどり着くまでに聞いた声と似た響きに思えた。
『俺は可能性を見ているのだろう……土御門天音、そして、お前達の子供も、俺達とは違う、勇者でも抑止力でも理想少女でも妖精王でもない、だが、人は人として後天的に願いとなる場合がある、トマソンの主人公と同じだ、そして、俺の代わりにあいつの抑止力となる可能性があるとしたら、それは同じように人でありながら願いの拠り所となるもの、この世界でいうところの現人神のような可能性なのかもしれないと考えている』
『そうかよ、じゃあなんだ? てめぇは俺達にはもうトマソンは止められないって、諦めてるってそう言いてぇのか? んで、子供達に都合よく覚醒してもらいてぇと?』
『或いはそうなのかもしれないな、悪いことか?』
『胸糞は悪いな』
「閂は悪くないんです……私が勝手に陰陽寮を抜け出したから」
会話の内容を理解できていたとは言えないけど、ただ……責められるべきは私だと伝えたくて口を挟んだら、岬勇司さんは驚いた様子でまじまじとこちらを見つめてきた。
「天の声が……嬢ちゃんは俺達の会話が聞こえてたのか?」
『もちろん』
私が頷くのとほぼ同時に、私じゃない誰かが岬勇司さんの問いに答えた。
『初めまして、勇者さん、そして、初めまして、土御門天音』
辺りを見回しても声の主の姿は見つからない。
この場に立っているのは私と閂と岬勇司さんだけだった。
『私は土御門家が式神とするために幾年集めてきた願いにより地に縛られたもの……彼らがアマテラスと呼ぶ天の一人、さっきツクヨミの気配に触れたお陰で天音の中で沈んでいた私の力もちょっとは
『悪くない、この子の勇気が可能性に繋がったわけだ』
言って私の頭を撫でようとする閂の手を、私の腕が勝手に振り払う。
『抑止力、貴方が職務放棄したからこうなってるんだけど』
『天の一人ってなんだ?』
『勇者さん、私が貴方のお母さんってこと、よちよち』
『あ?』
今度は岬勇司さんの頭を撫でようとして私の腕が彼の方へ伸び(とても届きそうになかったけど)、対して岬勇司さんは届かないだろうことを見越していながら、それでも数歩後ずさって距離を取った。
『むぅ』
『いや絵面がやべーから』
『素直に甘えればいいだろう』
『うるせぇ、てめぇがおぎゃってろ』
『おぎゃるとはどうすればいい? 教えてくれないか?』
『どうすれば幼女の子供になれるか、交番で聞いてこい』
『あ、もうそろそろ限界かも、ごめんね天音、疲れさせちゃったよね』
アマテラスが言い終えると同時に、動きの一つ一つで感じていた鈍さが薄れていく。
先程までの不自由さの代わりにと全身を襲う倦怠感、急な調子の変化に感覚が追いつかず、私はふらふらと倒れそうになった。
その背中を優しく支えてくれた閂の顔を真下から見上げて確認すると、私は安心して目を閉じた。
「ところで岬勇司」
今度は私と話すときのように声を出して、閂が岬勇司さんを呼んだ。
「……まだなんかあんのか?」
岬勇司さんも素直に声を上げて、閂と会話を続けている。
「そのネギは立派だな」
「今夜はすき焼きなんだよ、へっ、羨ましいか?」
「悪いことだ、俺は招待されてないが?」
「なんでてめぇを呼ばなきゃいけねぇんだよ! ふつーに家族の晩飯だわ!」
「俺達は仲間だろう?」
「だとしても! ばかなの!? なに? てめぇは仲間だったら一家団欒に図々しく混ざってすき焼きをご馳走されて然るべきだとでも言いてーわけ!?」
「好物だ」
「知るかよ!! いや、知ってるけども!!」
閂の腕に抱かれながら眠ったふりをしていたけど、この時の私はきっと自分でも珍しいと思うぐらいの自然な笑顔をしていたことだろう。
それは無愛想な閂にも冗談(たぶん)を言い合えるような関係の人がいることが知れて、ただただ単純に二人の関係が羨ましくて、面白かったからだ。
そして、この日をきっかけにして私は私の中にアマテラスがいることを自覚した。
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