穂波鈴里(ニ)


 題名はりんごの木。

 二本の線で描かれた樹幹は筆圧が弱く細い、一方でA4用紙を縦にして上半分程を占める樹冠、その広がりの中には笑顔や泣き顔、様々な表情をした丸い果物が実っている。

 樹木画バウムテストは心理検査の一種で、描かれた樹木から心理状態を分析、パターン化する際などに使われるものだ。

 未成熟な子供達と接触するスクールカウンセラーは、幾つかの検査結果から声にならない相手の心境を読み取って、慎重に距離を縮めていくと聞いたことがある。

 私は別にカウンセラーではないのだが……もう長いこと陰陽寮の陽棟で土御門天音の経過観察を担当していた。

 式神もとい異世界絡みの事件などで物理的、精神的に後遺症を患った子供達はトマソン現象の発生頻度に沿って増え続けている。

 一般的に疾患とは呼べない、当てはまらない、前例がない、と当然に思える流れで病院が白旗をあげて、陰陽寮はそこに在るだけで常に識訳師の補充を強いられるような忙しさに追われていた。


「なにかわかるんですか?」

「あー、どうだろ……報告書を作るのは楽になるね」

「そうなんですか」

「いまの突っ込むところね」


 大きな樹木は逞しさ、育ちや生い立ちの違いによる周囲からの差別に屈しないという意志の強さにも見て取れるが、線の細さが不安定さも覗かせている。

 散らばった表情のある果物は身近にあるようで傍観者……必要な時に手を差し伸ばしてくれる親しい者がいないと感じているのだろうか。

 土御門天音の両親は他界していると聞いているし、土御門家の姓を名乗るだけでも周囲から何らかの特別な扱いを受けているのだろうと容易に想像できる。


「天音ちゃん、今日は日向君に会った?」


 正午が迫り高くなる室温を外へ逃がすため、診察室の窓を開けながら尋ねた。


「いえ、来てるんですか?」


 合わせた両膝の上に拳をおいて礼儀正しく椅子に座っている少女は長く愛らしいまつ毛をぱちくりさせつつ、微かに表情をやわらげて答えた。

 窓の傍に立ったまま、彼女から視線を外すようにして中庭を眺める。

 しだれ桜の枝が近くのベンチを包みそうな程に伸びている。


「日向君のお母さんが言ってたから、たぶんね」


 正直、土御門天音を陰陽寮へ通わせるのは土御門家の過保護という印象が強かった。正常としか思えないのだ、なんらかの障害を負っているようにはとても見えなかった……今朝までは。

 途中までしか聞けなかったが、朝日と倉橋帳の会話で私は私の判断を見つめ直さないといけないと考えていた。


「今日も閂が迎えにくるわけ?」

「はい、お昼前には陰陽寮に来ると言ってました」

「あいつも暇なんだかそうじゃないんだかよくわかんねー奴だな」

「よく本を読んでますね」

「はは、影響受けすぎるんだよな、あいつの小難しい喋り方に付き合ってると私は疲れるよ……まだ時間ありそうだし、散歩がてら一緒に日向君と夜空ちゃんを探してみるかい?」


 ふと奇妙な静けさに包まれる。すぐに返事があると思っていたから、どうしたものかと不安になって振り返る。


「あっつ……」


 と、ほぼ同時に――樹木画テストの紙を持っている指が熱を感じた。

 反射的に手放した紙がひらりと控えめな風に流されて土御門天音の足元へ落ちていく。

 それはちりちりと端から黒く焦げていき、微かな焦げ臭さだけを残して瞬く間に消えてしまった。

 世の中で怪奇現象が起き始めて、心構えだけはできているつもりだったが、やはり動揺するものは動揺するのだと自覚しつつ、一方でまるで動じる気配のない少女を見やる。


「天音ちゃん、君がやったの?」

『穂波鈴里、あなたは京都を離れた方がいい――ううん、識訳庁から、陰陽寮から、土御門から離れるべきだ』


 小さな唇は閉じられたままで、頭の中へ直接響く少女の声は聞き慣れた声色だが、初めて向けられる……いや、突き放されるような冷たさを孕んでいた。

 日輪のように眩い光を灯した瞳孔が私を見つめている。


『あなたが土御門天音と関わるのはもう終わっていたはずだから、逸れたのなら逸れたまま……もう関与すべきじゃない』

「どういう意味?」

『変えられないってこと』

「……へぇ」


 会話に応じながら脳内で巡らす思考は人格交代の可能性 しかし、心理検査の結果含めて今までそのような兆候は見受けられなかった。

 だが実際問題、目の前にいる少女は私がこれまで接してきた土御門天音とは明らかに違う……違うのだが、今ここで追及するのは悪手だろう。

 まずは相手の主張、伝えたいことに耳を傾ける。

 方針を決めて、思考をクリアにし、冷静に分析できる心理状態へ移行したのを自覚するように姿勢を変えて彼女と真っ直ぐ向き合う。


「私がこの生活を続けるとなにかまずいことになるってことかな?」

『ほつれた糸は長く続かない、ならいっそ切り離してしまったほうが別の使い道が生まれるかもしれない』

「なーんか悲しくなる言い方」

『上代旺磨を悲しませたいのなら止めない』

「私の弱点をよく把握しているようで、けどさ、私も約束とかあるんだよ」

『安心するといい、岬家もすぐに京都を離れるから』


 岬朝日が識訳庁から疎まれているのは事実、そして、夜空ちゃんの身柄について揉めているのも知っている。

 当人の口から引っ越しを検討しているような話は聞いたこともないが、ありえないと笑い飛ばせない部分があるのも確かだ。


『とにかく、このままあなたが陰陽寮に残るのは、天音にとってもあなたにとっても望まない結末の火種となる可能性が高いよ。さっきの紙みたいに跡形もなく焦げ散ってしまうのは嫌でしょ?』

「まぁそれはそうだ……わかったよ、考えとく」

『うんうん』


 私の返答に満足したのか、少女の瞳の日輪が薄れていく。


「先生……ごめんなさい」

「……」


 返すべき言葉が見つからなかった。

 私がよく知っている土御門天音の声だ。

 だが、どうして彼女が謝るのか。

 おそらく初めての経験ではないのだ……そして、自覚している。

 多重人格の印象を受けたが、解離せずに記憶を共有しているのだとすれば現代で聞く解離性同一性障害とは似て非なる症状が彼女に起きていると見るべきかもしれない。

 瞳孔の発光も含めて、朝日が彼女の生い立ちを調べていたことも考慮すれば――なるほど、病院ではなく陰陽寮に通わせるわけだ。

 一度、土御門晴先を問い詰めるべきかと考えるも、つい今しがた警告を受けたばかりだった……私個人に災いが降り注ぐだけなら構わないのだが、周囲の人を巻き込むなんて言われ方をすると、その場の勢いで判断できるものでもなかった。

 変えられない、先程の少女の言葉が粘膜性の毒へ性質を変えて鼓膜にこびりついてしまったのか、残響となって中々消えない。


「とりあえず……散歩しよっか」


 土御門天音へ手を伸ばす。

 触れた少女の手は年相応に小さく、それを包んでくれるはずの温もり……両親はもう居ないのだと改めて思い、だとしたら、この先、誰がこの子の温もりに成れるのか、その問いかけに答える自信が私にはなかった。

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