岬日向(3)


「……え、こわ」


 背後から誰かの声が聞こえた気がして振り返ってみたが、目の前に誰か立っているわけでもない。心霊現象はもう容量オーバーですので、と遠慮しておきながら再び双眼鏡をのぞきこんだ。


――そう、俺はもう同棲している幽霊アマネのことで頭も胸もいっぱいいっぱいなのだ。


 岬識訳事務所に新しく配属となった土御門天音と、俺の部屋に住み着いた半透明のアマネ……二人の関係性を調べると決意し、有紗さんの尾行を始めて一時間以上が過ぎていた。

 土御門天音の配属について、その裏にどんな企みが渦巻いているのか、母さんと有紗さんは何か知っているのではないかとぶっちゃけ疑っているわけだ。

 事務所の施錠はだいたい有紗さんの仕事だし、その後にあの人と会う日が多いことも知っていた。

 だから、俺は天音と一緒に定時退社を迎えてその場で別れると、まずは日中につかさ君と秋葉原を歩いていたとき、中古店の軒先で見かけた双眼鏡を購入しに向かった。

 昼間から変わらずに売れ残っていた双眼鏡を買って、すぐに踵を返す。そして、離れた位置で事務所のある雑居ビルを観察していると、果たして有紗さんは姿を見せた。

 時間稼ぎの一手として、お客さん……ぼぞぴさんとニッチさんが事務所に来たことを故意に冗長な文章で書き置きしていたのだが、その必要もなかったようだ。

 得たのは「そんな細かく書く必要あるの?」と天音にジト目で見られたことぐらいである。そんな趣味はないし、そんな必要もなかった。すまん、心の中で謝っておく。でも、次にこういう機会があれば天音に書かせてみようかなと、あいつが四苦八苦する姿を笑ってやろうかなと考えるも、パワハラで訴えられたらたまったもんじゃないなとすぐに思い直した。

 有紗さんがどこまで違和感を抱くか定かではないが、俺が新入社員の前で張り切った結果の空回りとでも思ってくれているといいんだけど……さすがに楽観視しすぎだろう。

 より慎重をきして有紗さんを尾行していくと、彼女はアキバ城の麓で夕食を取り始めた。それからほどなくして俺の思惑通りにあの人がふらりと姿を現した。

 だが、一向に有紗さんの居る屋台へは近付こうとせず微妙な距離をあけたまま立ち尽くしてしまった。圧倒的棒立ちである。なんなんだ? まるで俺達には見えないなにかと相対しているかのような不自然さが滲み出ている。とはいえ注視しているから浮かぶ程度の疑問なのだろう、周囲を歩く人々は意にも介せず通り過ぎていく。

 結局、あの人――母親の岬朝日は有紗さんが気付いて声をかけるまで硬直したままだった。本当に何を考えているのかわからない人だ……俺達、親子の間に有紗さんが居なかったら、きっともっと溝は深いままで、それこそ埋めようがない奈落の谷が家族という概念ごと飲み込んで広がっていたのだろう。間違いなく識訳師の事務所で働くこともなかっただろうなって改めて思ってしまう。


 有紗さんが俺の師匠として、或いはあの人の弟子として岬家と関わり始めたのは、父さんと夜空が消えて間もない頃、途切れそうな絆の糸をかろうじて掴み取ろうとするかのような見計らったタイミングでの話だった。

 それについては素直に感謝していた。言葉にできないのは自分の至らなさだと自覚もしている。

 俺にとって、たぶん、家族よりも大切な人だ。それは恋とかで言い表せるようなものじゃないと思う。

 正義の味方、そんな固有名詞が似合う有紗さんの生き様に憧れているのかもしれない。まぁ、有紗さんはそれこそ超人めいたスーパーアリサモードなんてものもあるし、俺みたいなのが真似しようとしてもまるで手の届かない次元に立っている人だ。

 だけど、もし仮に……とても想像できないが、有紗さんが助けを求めることがあるのならば、俺はきっと、その先が異世界とかだとしても喜んで向かうだろう。

 そんな感じで自分にとっての優先順位を再認識させつつ二人を追跡していたら、俺の脳内を覗きこんだ神様が勇気を試してくるかのように、あの二人は見事なエンカウントをしてみせたのだった。

 咄嗟に近くのビルの屋外階段を上がって、視界の遮られないポイントを見つけると双眼鏡で様子見を決め込んだ。

 勇気とはなんぞや? とほくそ笑む神に対して、違うんですよ、だってあれ勇気じゃなくて勇司、俺の父親ですもん。と我ながら支離滅裂な反論をぶつける。

 正直、その可能性もあるとは思っていた。

 離婚した両親が養育費の受け渡しをする現場を目撃したみたいな気分だった。

 理由までは推測できないが、父さんと夜空は同じ世界で暮らしていて、その事実を俺は隠されている。

 けど……その嫌な妄想もすぐに否定されることとなった。



 幻聴で中断された観察を再開しようと、双眼鏡に顔を近付ける。

 無造作に伸びた前髪がバンドマンみたいな域へ片足突っ込んでる父親に若干引きつつも、その前髪が揺れた際に見えた両目をもう一度確かめておきたくて、父親の額あたりをロックオンする。

 マイファーザーこと岬勇司は隻眼だった。幼い頃の記憶とはいえ、見間違えるようなレベルじゃない。

 けど、さっき垣間見えた……あそこに立っている岬勇司は両方とも眼球が無事だった。

 何が起きてるんだ? というか今日一日で本当に色々起きすぎでは?

 岬日向は考えることをやめた。岬日向は明日の飲み会で奇跡的にも初対面の女性がいた場合に備えてどんな格好で挑むか考えることにした。

 うん、むりむり、ナレーションで自分の頭を洗脳しようと試みるも、視界では父親が勇者の剣を構え、有紗さんが全身に火の色を纏って――即ちスーパーアリサモードになってるんだよ。衝撃が強すぎるわ……とはいえ長居すべきでもないだろう。

 目の前の人物に剣を向けられている最中だろうと、有紗さんならそろそろ勘付いてもおかしくない。


(……今日は退散時かな……大変なのはこれからだしな)


 俺のアパートまではけっこう離れている。タクシー使ってまで時短したくないし、と離脱するか迷っていたら、とうとうニッチとぼぞぴさんまで加わってしまっていた。

 どことなく不穏な感じも薄れている。これ以上得られる情報は……今日の流れだと、まだなにかありそうな気もするけど、粘っていたらキリがなさそうだ。

 寝坊して明日まで遅刻未遂になるのも避けたい。

 結局のところ、帰宅してアマネに直接確かめるのが本番だ。

 今まで保留にしてきた地縛霊と向き合うのだから、夜はまだ長い――。







「たでーま」

「――おかえりー」


 玄関で靴を脱いでいると、部屋に続く扉をすり抜けてアマネが出迎えてくれる。

 昨日までと変わらない半透明の笑顔、普段なら一緒にアニメでも見始めるところだが、今日の俺は欲に負けない。


「遅かったね、もうすぐハンバーガーガールズ始まるよ?」

「よし待機しよう今すぐ待機しよう全裸で待機しよう」

「脱ぐなら言って」


――日常系四コマ漫画のアニメには勝てなかったよ。


「癒されるなぁ、もうなんかどうでもよくなるよね」

「レジでにこにこしてる裏で、いかに早くハンバーガー作ってるのかって描写がさ、ちょっとリアルだよね」

「チーズの上に玉ねぎとピクルス載せて待機してるの草生える」

「ね、そういえばご飯食べたの?」

「まだだった……すげぇハンバーガー食べたくなったな」

「買ってくれば?」

「うーん、面倒だからいいや」


 なんかさ、なんか……アニメの感想じゃないんだけど、この日常は……これはこれで気に入ってるんだろうなぁ。

 人間だろうと動物だろうと幽霊だろうと、一緒に暮らしてて一緒に笑ってて……そんな関係が崩れる日なんてものを自ら作りたくはない。

 だから先送りしてしまってたのだろう。だから誰にも話せずにいたのだろう。


「なぁ、アマネ」

「どうしたの?」

「あの、さ」


 声が震えているのが自分でもわかる。


「いや、そういえば……本名とかさ、なにも知らないんだよなって思って」

「岬アマネでどうでしょう?」

「うーん! なんか複雑!!」

「ではウィスパーちゃんとか」

「ストレートにアウトですね」


 テレビの電源を落とすと、透明度の異なる二人が仲良く並んでソファに座っているのが真っ暗な液晶画面に映り込む。


「今日、新入社員がくるんだって話してただろ?」

「そうそう、どんな子だった? 可愛かった?」

「女性だって言ったっけ?」

「あれ、言ってなかった? いやーつい気になっちゃって」

「……知ってたのか?」

「……ん」


 隣へ視線を移すと、彼女はまつ毛を伏せていて、儚げな横顔が俺の心に微かな痛みを残す。


「土御門天音って言ってた」

「うん、知ってる」

「あっちはお前のこと知らないみたいだった」

「だろうね」

「……秋葉原の識訳師は黄泉化生って怪奇現象を追ってるんだけど」

「そうなんだ」

「よみがえりというか、ドッペルゲンガーというか。まぁ詳しいことは分かってないんだ」

「うん」

「……教えてほしいんだ。アマネ」

「元々ね、今日という日がくるのは知ってたんだ。日向にさ、実際に体験してもらってから話した方が信じてもらえると思ったの」


 アマネの続きを待った。本棚の空いたスペースに置いている目覚まし時計の針が何度も何度も静寂に音を刻む。


「私は……これは奇跡なんだって思ってる。日向と出会ったのは奇跡なんだよ」


 やがて彼女は訥々と、今日に至るまでを語り始めた。

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