13.《言葉師》という仕事
「さて……」
新しく作成した人形を手でそっと抱えながら越後屋さんは私の方へ微笑む。
「越後屋さん、ハメてくれましたね」
「何のことですかぁ?」
「越後屋さん、大体その男に当たりつけてたんじゃないですか? それで好き勝手やりたくて私たちに口裂け女を追わせた」
「人聞きが悪いですよぉ。それに、その男じゃないですよぉ。チルミイちゃんですよこの子の名前は」
そう言って手に乗せた人形を撫で回す。人形は動かない。声もあげない。まるでただただ、その場に存在することしか出来ないように。
「それに私、久遠さんにお願いしたことはこの事件についてじゃないですもの」
微笑みを絶やさないまま、越後屋さんは言う。
「言いましたよ私は。口裂け女について頼みます、って」
越後屋さんが女性の血の跡に指を指し示す。
彼女がそこに立っている。
そこにあるのは坂本によって襲われた、私が名前も知らない人の痕跡。ただ、きっと幸せになろうとしただけの犠牲者の血の跡。
そしてその誰かの血の跡に寄り添うようにマスクをつけた長身の女性が立っている。
その《怪異》となった彼女もまた、いつかの未だ忘れられない痛みであることが今の私にはわかる。
「久遠さん、あの人はきっと悲しい人です」
榎音未さんが口裂け女の方を見て、言う。私が《瞳》で《視た》ように、榎音未さんもまた彼女の過去を感じている。
「違うよ。榎音未さん」
あの人は、悲しい存在なんかじゃない。
私がこれからするのは後処理だ。
私は、この事件そのもののために私は呼ばれたのではない。
越後屋さんが私に望んだことは坂本を捕まえることではない。
——口裂け女について頼みます。
私が出来ること、私がしなくてはいけないこと。
私にとっての今回の仕事はここで始まり、ここで全てを終わらせる。
私は五葉塾の《言葉師》ただ言葉を《視て》、使う、ただそれだけの存在。
帯刀していた概念刀を鎮める。
私が《視る》のは戦うためでも、殺すためでも、駆除するためでも、越後屋さんのような正義のためでもない。
「ずっと一人でここにいたんですね。貴女は」
力が巡る。私の《瞳》が駆動する。
——久遠さんの《視え》る言葉っていうのは、間違えるし、騙すし、それなのに真実を形作ったりもする。本当に怖くて、不安定、不思議なものですよ。
言葉は間違える。騙る。真実を歪める。真実を形作る。言葉は形を持っていない。
それでも、言葉をそれを私は《視る》。
「私、綺麗?」
その言葉に、私は何度だって同じ答えを返そうと決めている。
「ええ、綺麗ですよ。とびっきりね」
私は《視る》目の前の《誰か》を、彼女を、ただそこにいる存在を。
貴女はただ、守りたかっただけ。自分にとって綺麗だと思ったものを、ただこの世界に存在し続けてほしいと思っていた人たちとその在り方を。
貴女がただ、見届けたかっただけ。自分の求める美しい姿に手を伸ばす人たちの、祈りの姿を。
貴女が綺麗、美しいと思ったものは、ただの容姿の話じゃない。
目の前の貴女は泣いている。
「これでも、綺麗?」
そう言って貴女はマスクを取る。もうずっと過去のことなのに、貴女の頬は血が滴っていてさっき切り裂かれたように痛々しい。でもそれはその痛みを悲しみを、貴女が忘れなかったから。同じことの繰り返しを防ぎたいと思い続けた想いの時間に他ならない。
それでも、もうたくさんの事件が繰り返されてしまった。
貴女の目の前で多くの人が殺されてしまった。被害者の人たちがした尊い選択を軽はずみに奪い去っていった。誰も、あの人たちを、貴女を見ていない。
人は見ていないものを簡単にイメージで作り上げる。知りもしないくせに。見てもいないくせに。どこまでも簡単に歪めていく。
『今ニュースでやってた事件口裂け女じゃね?』『口裂け女なわけないんだよなぁ』『でもそういう映画あったら面白そうじゃない? 口裂け女が復活!』『口裂け女事件、頭おかしいやつがなんかやってるだけでしょ』『今時口裂け女とかいるわけないでしょ。見た人間がいたとしても絶対話盛ってるって』『口裂け女見たとか言うやつのツイ見たわ。そういう承認欲求恥ずかしくないのか』『狂言だわ』『口裂け女ってあれだろ、美人への嫉妬』
人々の軽はずみな言葉が私の脳裏を過っていく。
そんな言葉は加速して、加熱して、あっという間に尾鰭がついていく。多分、現在進行形で口裂け女の話題は拡散されている。
だからそれが恐怖に結びつく。それはとても興味を惹いて、楽しめることだから。「そうであったら面白い」「そうであったら興味深い」「きっとそうに違いない」あっという間の伝言ゲーム。空虚な娯楽の恐怖は見えないものを簡単に膨れ上がらせて、どこまでも増幅していく。
どんなに面白半分の空虚な言葉でも、それが何かを歪めてしまうことがある。
私の目の前の彼女すら、変質させていく。
「ええ、綺麗ですよ」
私は言う。
その言葉に反応して、私の目の前の《彼女》が《口裂け女》として身を捩らせる。
「き、き、綺麗、綺麗って」
息を荒くしている。泣いていたはずの目に血走らせている。何かへの殺意を充満させている。坂本を捕らえて、それ故に《核》を失ったが故に人々の言葉によって「そうあれかし」と願われた存在に変えられていく。
きっとこのまま放置していれば、それこそ貴女は本当に《口裂け女》という《怪異》として確立し、この一帯の人々を襲い、殺すだろう。かつての願いとは裏腹に。
「久遠さん!」
後ろで榎音未さんが声をあげる。私の目の前の貴女の動きに怯えている。
「大丈夫ですよ。榎音未さん」
私は榎音未さんにそう伝える。
貴女は鋏をジャキジャキと音を立てていて、私はその不安定な音のリズムを聞きながらきっとこの人がこうして鋏を振おうとしいるのは初めてなんだろうと直感的に理解する。
《口裂け女》としての呪いが私の目の前の貴女にはある。その存在に刻まれた行動原理。
それでも、貴女も口裂け女も呪いだけの存在ではない。
《怪異》とは道理では説明できない不思議で異様なこと。
恐怖だけが《怪異》ではない。
危害を与えるだけが《怪異》ではない。
この世は言葉で出来ている。そして言葉は間違え、騙り、真実を歪め、それでも真実を形作る。人々の言葉が重なりあって交わって一つの象徴として現れるだけ。
そして歪んでしまった言葉を掬い出すことこそが——
「貴女が守りたいと思ったこと。それと一つの終わりが結びついただけ」
鋏の音が迫ってくるけれど私は視線を逸らさない。私が見つめているのはただ一人だけ。《瞳》が熱を帯びていく。
「綺麗ですよ。何度だって言ってあげますよ。それで私が貴女にズタズタに殺されたって、私はその言葉を紡いで貴女へ渡し続けますよ。たとえ血に濡れても、踏み躙られても、忘れられてしまっても貴女のその人生は——絶対に綺麗です」
私が思い出すのは、ねえさんのこと。私がどうしようもなく、自分が大切で最後の最後まで助けることが出来なかったあの人のこと。
私は弱くて、臆病で、卑怯で、何も出来ないくせにねえさんのために死んであげることも出来なかった。ねえさんのために何かを貫くことも出来なかった。与えられるだけ与えられて、もらったものを返すことも出来なかった。
私を取り巻く世界に私は救われたはずなのに、私に返せるものは何もない。
世界は悲しみで満ちているから。どうしようもないことで溢れているから。
私みたいな人間では、何も出来やしない。出来なかった。
私には、足掻きもせずに何も変えられなかった過去だけがある。
でも——貴女は違う。
「私は《視て》いました。急に倒れて苦しむお母さんを最後の最後まで救おうと奔走していた貴女を」
私が貴女を見つめて、入り込んできた貴女の過去。そこで見たもの。
浴びるように飲んだお酒の急性アルコール中毒で倒れたままで嘔吐し、意識を失う母の姿。
——死なないで!
——母さん! 母さん!
貴女は疲れ切っていて、終わりを待つだけだったはずなのに。それでも終わりに抗おうとした。見捨てるだけで全てが終わる時に願ったのはそれでも終わりではなかった。
——ダメ、ダメだよ。こんなの絶対ダメだよ。起きて、起きて母さん。
家へ駆け込む救急隊員の人たちに貴女が叫ぶように頼るのを私は見ていた。
——お願いします! 私はまだ母さんに何にも返せてない! お願いします!
貴女が顔を変えようと思ったのは母親に嫌いと言われたからじゃない。
貴女が顔を変えようと願ったのは母親が憎かったからじゃない。
ただ、悔しかったからだ。貴女がひたすらに自分が許せなかったからだ。大切な人を守ることが出来なかったことが耐え難いほどに貴女を苛んだからだ。鏡を見るたびに映る自分とそっくりな母を救えなかった現実に苦しみ、それでも生きていこうとしていたからだ。
「久遠さん、ダメです! 危険すぎる!」
榎音未さんの声。迫り来る鋏を見つめながら、私はそれでも見つめ続ける。
私は、構わない。
《言葉師》というやらなくてはいけないことと、内から湧いてくるもの。
私の中の一つの湧き上がってくる衝動。
この人のために死んでもいい。その代わり、私が必ず貴女の《言葉》を解いて死ぬ。
「私が貴女の代わりに死んであげればよかったんですよ」
だって——私は貴女のように出来なかったから。
でも、貴女はそんな私のふと湧いた心を見てもいないのに鋏を止める。
鋏の音が、止まる。
「どうして?」
貴女が言う。
貴女はもう、狂気に囚われても、顔を歪めて何かを襲う必要もない穏やかな様子。
「どうして、母さんは誰にも助けてもらえなかったのかな。どうして、たくさんの人があの男の病院に行っただけで殺されてしまったのかな。どうして、こんなにも溢れ落ちてしまうものが多いのかな」
どこまでも貴女には他人のことへの祈りだけがある。そして、この世に届く祈りがある以上に、どうしようもなく消えていく願いがこの世にはありすぎる。
鋏が地面に落ちた音がする。私の頬に手が触れる。
「ああ、貴女もまだこんな若い少女だというのに。こんな私と関わることになっている。どうして、そんなことばかりなのかな」
貴女が悼むのは、この世のどうしようもない悲しみの横溢。街を行く人々の一人一人にそれはあって、それを誰にも分かち合えない人もいて、誰にも救われない人がいる。
「私は、母さんを救いたかった。傲慢かもしれないけど、私だけの願いだったかもしれないけど、誰も救いたいと思っていなかったのかもしれないけど。私は、あの人に生きていて欲しかった。私の生きていた意味も、あの人の生きてきた意味も全部無駄だったのかな」
それはもう届かない願い。きっと貴女には煌めく「もしも」があって、それは貴女の道にならなかった。
「それでも、貴女が現れなければきっとここで同じ事件は繰り返されました」
私は言う。
「坂本は
私は言葉を紡ぎ続ける。
「この世には悲しみが満ちていて、誰もが絶望と共に生きている。貴女も、貴女のお母さんも、ねえさんも、私も、みんな。大抵の人は自分のことで精一杯で、自力で越えられない不運を自分が引いてしまわないことだけを祈っている。越えられない悲しみや絶望が自分の身にさえ降り掛からなければ良い。何も知らないままで生きていけばいい。どこかで誰かが泣いて、叫んで、悲しんで、苦しんでいても、死んでいてもどうでもいい。そんな人がたくさんいて、それは悪いことじゃない。誰もが全てを抱えて救うことは出来ないから」
でも、でも、だけど。
「それでも、貴女はここに残り続けた。誰かを、それは貴女のお母さんを救えなかった償いかもしれないし、罰かもしれないけれど貴女はここで立ち続けた」
電話が鳴る。タップしてスピーカーを音にする。
『久遠か?被害者はなんとか一命を取り留めた。そっちはどうなってる?』
私はそれで通話を切る。東光院さんには悪いが後で説明しておこう。
「助かったみたいですよ。あの人」
「……」
「今の貴女が救ったんです。彼女は、確かに」
貴女の強張りが解けるのを感じる。
「私は……怖かったの」
貴女は私の頬に手を添える。
「私が生きていたから母さんを苦しめていたんじゃないかって。鏡を見るたびにそれを思い出した。私は母さんに似ていたから。だから私に近づいてくる人たちに思うのは逆恨みで、本当は私がいなければ母さんが救われていたんじゃないかと思ってた。ずっと、それが怖かった」
そう、だから貴女は一度自分を変えようとした。
「でも、私が本当に見つめる必要があったのは私の顔ではなくて、もっと内側。ただ母さんと生きた道筋を見つめるべきだった」
だから最後に貴女は想ったのだ。間違った、と。
「それでも、私が生きていたら顔を変えて、もっとその道筋を見つめる機会があったのかもしれない。私にとって何が好きで、嫌いで、辛くて、幸せで、悲しくて、嬉しいのかもっと見つめられたのかもしれない。それは多くの、たくさんの願いを持つ人たちはみんなそうだった。誰もが成りたい自分、捨てたい自分、生まれ変わりたい自分を考えてあの病院には行っていたはずだった」
万人にその道が正しいのかは私にはわからない。でも、間違っても正しくても、歩くべき道がその先に有ったはずだったのだ。顔を変えようという決意か、それとも顔を変えることで得る救いか後悔か、それは当人にしかわからないけれど。
それでも、続く道があったはずだった。
だから貴女はそれを見過ごせなかったのだ。五里霧中な道を歩もうと、不器用でも、それでも人生を歩こうとする人々が殺されていくことを。
「このまま貴女が口裂け女としてここにいると、やがて完全に《怪異》として確立してしまうでしょう」
私は、自分の《言葉師》としての職務を全うしなくてはいけない。
世界を形作り、紡いでいく言葉。私はそれを正しく紐解いていく。
言葉は欺き、騙し、真実を歪めてしまうけれどそれでも貴女を形作るのもまた言葉なのだ。
東光院さんから既に情報は受け取っている。
かつての事件——新王町通り魔殺人事件の被害者の名前を。
目の前の貴女を指し示す、本当の言葉を。
「《小峰琴音》さん、貴女のおかげでこの事件は終わりました」
私の告げた《言葉》を聞いて貴女は、《口裂け女》だった貴女はかつての被害者であった《小峰琴音》として形を取り戻す。
「そう、終わりなのね」
琴音さんはもう長身でも、マスクをつけても、鋏をもっているわけでもない。ただ、私よりも年上の大学生ぐらい年頃の人がそこにいる。
「ごめんなさいね。貴方を何か手伝えたら良かったのだけど。事件を解決してもらって、助けてもらって終わっちゃうみたい」
「琴音さんがそれだけやってくれたってことですよ」
「そうかしら。そうだと嬉しいけれど」
そうして彼女の体が霞んでいく。まるで最初からそこには何もなかったかのように。でも、私の《瞳》では、彼女がただそこにある《言葉》へ解けていくところがわかる。
世界の《怪異》を殺すことが《言葉師》ではない。《異能》を振る舞うことが《言葉師》ではない。
ただそこにある世界を、無数に存在する《言葉》を読み解くことだけが私を《言葉師》たらしめる。
それならば、この後に続ける言葉は一つだろう。
「ありがとうございました。貴女がいたから、この悲しみを終わらせることが出来ました」
「————」
彼女からの言葉はもう、続かない。
ただそこにはいつも通りに戻った世界だけがある。不条理と、悲しみに満ちていて、理不尽で、やりきれなくて、どうしようもない。
でも、確かに一つの悲しみを終えた世界が。
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