12.そしてまた一体

 私の目の前に広がる光景は凄惨極まりなくて、現実はいつだって醜くて、辛いものを私に見せつけてくる。

「越後屋さん……」

 目の前で、越後屋さんに無数に突き刺さった刃物の群れ。

「あぁ、気づいて戻ってきたんですねぇ。久遠さん」

 全身に血が滲む越後屋さんがそう言う。全身を包んでいた漆黒の服に血が滲んでいるけど、その黒に吸われてまるでただ水に濡れたかのようだった。

 私の目の前の越後屋さんの声を弱々しくて、もう掠れている。

「はい……」

「大丈夫ですよぉ。知っていますよねぇ。やっぱり威力について確認しておかないとですから。あとで報告書も書かないといけないんですぉ」

 越後屋さんが潰れた瞳でウィンクを私に向ける。

「それでも、目の前で見知った人が傷つくのは慣れないですよ」

「お優しいんですねぇ」

 その言葉と共に越後屋さんは地面へと倒れ込む。

 周囲に展開された刃物は執拗に越後屋さんを追撃していく。執拗に、執拗に。越後屋さんの全身を突き刺し、抉り、解体していく。今の私にはもうその攻撃の主が《視えて》いる。

「貴方が事件の犯人なんですね。坂本さん」

 もう目の前の男は正気を保っていない。

 衝動的に殺害を行なったこと、越後屋さんの《異能》に対しての動揺、口裂け女を目撃してからの緊張と弛緩の連続、全てが彼から平静さを失わせていることは明らかだった。

「だからどうした! もうお前たちも囲っているんだ……いつもと同じさ。全部、全部消えて終わりだよ!」

 やけっぱちになっているかのような声。そして、私の視界に再び刃物の群れが現れることがわかる。

 私たちは刃物の群れに取り囲まれている。

 でも、そんなものはもう問題ではない。

「坂本さん。あなたは何も知らないんですね。《怪異》も《異能》のことも、何も」

 今の私には目の前の男に怒りよりも憎しみよりも、憐れみが先に出てしまう。

「命乞いか? そんな会話で時間稼ぎされようと知ったことじゃないね」

「いいえ。もう終わっています」

 私がそう言った刹那、坂本の動きが止まる。

「はっ……?」

 彼が異変に気づく。

 彼の体はもう、動かない。動くことが出来ない。

 私の《瞳》を介している世界では何が起きているかわかる。坂本の全身に、見えない糸が絡みついている。

「越後屋さん——公安対怪異二課は対 《怪異》《異能》のエキスパートですよ。同様に《異能》に精通した者同士での戦いでならいざ知らず、ただ一般人を一方的に隠れて殺していただけの貴方に容易に殺せるとでも?」

「な、何言ってるんだ! もうこの女は殺した、殺しただろうが!」

 そう坂本が越後屋さんの死体を見ようとして、絶句する。

 死体がそこにあった場所には穴だらけのぬいぐるみが置いてあるだけだった。

「越後屋さん——後、お願いします」

 そして声がする。

「はぁい」

 坂本の首筋を登る人形が、そう声をあげた。ゴシックな装いの、人形。

「な、な、なんだ、なんだ、なんだ、なんだよ。どうなってる、どうなってるんだぉ!」

 坂本は完全にパニックで狂乱に陥っている。それでも、彼の体は動かない。

「私の《異能》はですねぇ、魂の篭ったぬいぐるみや人形を作れること、そしてそれを操作出来ること。ただそれだけです」

「おかしい、おかしいだろ!」

「いいえ、おかしくありませんよ。私が人形を作る時に籠めるものは魂ですから」

 この世界は《信じること》で如何様にも変わっていく。

 越後屋さんは何も疑わない。迷わない。信じ切っている。自分が作る人形に自分の魂が宿ることも。

 何かを作る時、人はそこに自分を宿す。些細なこと、ほんの気まぐれにさえ人の魂は宿っている。たとえそれが人体を構成する成分などと異なる存在であっても、そこに宿るのは真実だ。作り手が、心の底から《信じて》いるはずの何か。

 だから、越後屋さんはそこから自分の意味を拡張する。

 ——私はですねぇ、わかっちゃったんですよぉ。

 かつて、私に越後屋さんが語った言葉が蘇る。

 自分が《信じていること》、魂が込められた存在であるのなら——それはもう自分自身ではないか?

 創造物と自己の狂気的な同一視。

 自分の魂が籠った人形、ぬいぐるみであるのならばそれはもう自分であるという歪みきった思想。

 誰も《信じること》の出来ない考えを越後屋さんは心の底から《信じて》いる。

「だから、私は私の作ったぬいぐるみ、人形の全てなんです。私は偏在している。だって人間の姿の私はただその姿でしかないんですから。私の本質は、ここに在るんですよ」

 ギチギチギチギチ、と音を立てて坂本の首筋にいた人形が変質していく。さっきまでは手乗りサイズだったはずなのに、徐々に姿を変えて、大人の姿へと変わっていく。

 木で出来ていたはずの表面が、艶やかな人肌へと変わっていく。作り物であった人形の瞳が、人間のものへと変わっていく。

 人形が人へ、越後屋さんへと変わる。

「私はここにいます」

 それが越後屋さんの《信じる》こと。

「私はですねぇ、公安対怪異二課もね、正義に近い仕事だと思ったから始めたんですぅ」

 あっという間に越後屋さんは無傷のままでそこに立っている。

「でもね、本当に正しいことってなんだと思います?」

 越後屋さんは手に、ぬいぐるみを一つ持っている。

「なんなんだよ、なんなんだよお!」

「人からね、かわいいは正義って言葉を聞いた時、ほんっとうに感動したんですよぉ。聞いたことありますかぁ? 私も昔の知人に聞いたんですけどねぇ。ねぇ、すごくないですかぁ? だって、私の好きなことはそれがそのまま正義なんですよ。かわいいって絶大なんですよぉ。大切だと思いませんか?」

 ぬいぐるみが坂本の口に押し込まれる。吐き出そうとする音を意に介さず、越後屋さんはぬいぐるみを押し込んでいく。ぐいぐいぐいぐい、ぐいぐいぐい。

 周囲に展開されたぬいぐるみと人形たちから声がする。一つ一つが越後屋さんの声で、それらから発せられる全ての音は越後屋さんの言葉だ。

「かわいさ以上の正義なんて存在しないんですよ。だから、かわいいを作るということは正義以外のなんでもないんですよ。この世にはあまりにもかわいくないものが溢れすぎている」「憎しみも」「悲しみも」「怒りも」「絶望も」「困窮も」「格差も」「恨みも」「妬みも」「路上で果てる人々の悲しみも」「社会から隔絶されてしまう虚しさも」「誰も救われない虚しさも」「全部」「全部」「全部」「全部!」

「かわいければきっと救済できる」

 無数の声が重なる。彼女の《異能》の本質。そして、狂気とも言える信仰の具現と同一化。

 同時にあたりに響く声に、越後屋さんの声ではないものがいくつも混ざっていることを私は知っている。

「あの人……怖いです」

 榎音未さんがそう呟く。本当に怖いのだ。あの人は。越後屋京子さんは。

 どこまでも独善的な正義。誰にも理解の出来ない、ただ己だけで確立された正義観。それでも、それが社会の利益と重なる一点においてあの人は生きている。

「私はね、みんなを救いたいと思っているんですよ。本当に。どこまでも、どこまでも。あなたのような人も見捨てたくないんです。坂本さん」

「だったらこいつらを外せえ! 俺に飲ませたものを出せよお!」

 坂本の全身はぬいぐるみにまとわりつかれて、もう口しか見ることしかできない。

「私ねえ、考えたんですよ。この世の悪いことがどうやったら無くなるのか」

 越後屋さんはもう坂本の言葉を聞いていない。自分の信じることだけを着々と行なっている。私にだけ、その過程が《視えて》いる。

「みんなかわいくなればいいんですよ。全ての存在がかわいくなれば、みんな優しくなります。みんな。みんな。必ず。ほら——この人たちみたいに」

 坂本の魂といえるものが歪んでいるのが私には《視える》。内側から坂本が変質していく。

 周囲の越後屋さんの展開したぬいぐるみや人形たちが悲鳴のような、あるいは柔らかな歌のような、そんな共鳴を起こしている。

 それは、もしかしたら叫びなのかもしれなかった。

「あ、ああ、ああ……」

 ずるり、と坂本に纏わりついていたぬいぐるみたちが落ちていく。ぼとぼとぼと、と地面にそれらが落下した時に、その場に坂本はもういなかった。

「ほらぁ。とても——かわいくなりましたよ」

 越後屋さんは地面に落ちた人形を拾う。医者の装いをした、越後屋さんの人形だ。

 越後屋さんと共に過ごし、寄り添い、時にかばい、時に戦い、いついかなる時も越後屋さんから離れることのない従順で愛される人形。

「大丈夫ですからね。これからは、正しい道を一緒に歩んでいきましょう」

 ぬいぐるみと人形の共鳴に、声が一つ重なった気がした。

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