5.遭遇
先導するのは越後屋さん。続いて私。
《怪異》に対しての戦闘に長けていない東光院さんと榎音未さんが私たちを数歩遅れてついてくる。
一歩一歩と足を進めるたびに感じるもの。それは気温、湿度、そんな自然に私たちが五感をもって感じている感覚に訴えてくる異変。
夏であるというのに地面を駆ける私たちの体が冷えていく心地。冷たさに向けて突き進むかのような不快感。
それが「この先に行くな」という本能からの警告である可能性を押し殺し、あるいは覚悟して足を進めていく。
師匠は榎音未さんに私とこの事件へ行くように言った。こんな妙な気配のする現場だとわかって言ったのか? 本当に?
逡巡を無視する。目の前の世界に精神を集中させる。
全ての《言葉》には意味がある。今は意味を見出せなくてもただ足を進めていくしかない。
帯刀した概念刀に触れる。脈打つかのような熱を感じる。
《怪異》への共振。概念刀が切ることを望んでいる。
それでも、私はこの刀を飼い慣らさないといけない。
概念そのものを切断する刀。《怪異》を、《異能》をも切断できるこの刀を。
「なんだよ、なんなんだよぉ!」
やがて声が聞こえる。もはや悲鳴に近い、半狂乱な男性の声。
地面に倒れ込んで這い蹲って逃げようとする男性が見える。
そして私は《視る》男性の向かい側に立つ異形の存在。
長身、ロングコート、地面に着くかのような長い黒髪。長くだらり、と垂らした手に光る鋏。
自らのアイコンである顔を覆い尽くすかのような白いマスク。
誰もが知っている。
誰もが作り物だと笑ってる。
だけど、誰もが心の奥底から拭えない都市伝説。
私たちの目の前に、口裂け女がいる。
そして私に流れ込む。
どうしてそんなに欠損がないのどうしてそんなに欠けていないのどうしてあなたたちはそのままでいられるのどうして持っているのどうして失っていないのどうしてズレていないのどうしてその幸福を知らないのどうしてその幸福を自覚しないのどうして私は持っていないのどうして何もかも私がもてないのどうしてあなたたちはそんなに整っているのどうしてあなたたちは綺麗な瞳をしているのどうしてあなたたちはシュッとした鼻筋なのどうしてあなたたちの頬は腫れていないのどうしてあなたたちは生きていられるのどうしてあなたたちは死んでいないのどうしてあなたたちは終わっていないのどうして私は終わってしまったのどうしてあなたたちは弱いのどうしてあなたたちは弱いのに生きていられるのどうして私は恋に恵まれなかったのどうして私は愛に恵まれなかったのどうしてあなたたちは友に恋に愛に恵まれているのどうして私は孤独なのどうしてあなたたちは一人じゃないのどうして私はそうじゃなかったのどうしてあなたたちはそうでいられるのどうして朝を迎えるのがいやじゃないのどうして夜の孤独を苦に思わないのどうして孤独であることを簡単になくせるのどうして一人じゃないのどうして寂しくないのどうして寄り添ってもらえるのどうして支えてもらえるのどうして理解してもらえるのどうして助けてもらえるのどうして、どうして、どうして、どうして。
どうしてわかってくれないの。違う。違う違う違う違う違う! 私はそうじゃない。私はそうでない。私はそうしたいんじゃない。私、私、私、私、私。私は。
「————ッ!」
彼女の中に渦巻くありとあらゆる言葉のフラッシュバック。視界を通じた目の前の《怪異》の奔流。流れ込んでくる彼女の感覚。それまで存在しなかった存在の、存在しないはずの足跡。そしてそれにより生まれた意思、記憶、感情。全てが《言葉》となる。目の前の彼女の世界として私の視界から心へと流れ込んでくる。
私は誰にも理解されない。私は誰にも褒めてもらえない。私は誰にも綺麗と言ってもらえない。私は誰にも価値がない。私は誰にも認められない。私は誰にも存在して良いと言ってもらえない。私が見る世界、私の見る人々、私を見る人々、誰もが歪んでいる。私が歪んでいるのだから、私の世界は歪んでいる。
だから、だから、だから、だから、だから。
——みんな、とても綺麗。
だから、私も。
「久遠さん」
肩に手が触れる。柔く、でも強く私の肩に触れる感覚に私は正気を取り戻す。
飲まれそうになっていた。蓄積された鬱屈。口裂け女という存在の持つ歪さ。それが全て私に流れ込んできた。
「落ち着いてください」
私の肩に置かれた手を見る。越後屋さんだ。
「口裂け女さんですねぇ」
「……ええ」
越後屋さんの声が聞こえる。《怪異》を目の前にしても動じないところはありがたい。自分の中に迫るプレッシャーを越後屋さんの振る舞いを見て押さえ込む。
「あ、あなたたち助けてくだ、ください! こ、この女が、急に、急に」
半狂乱の男が震える腕で何処かを指で指し示す。地面に流れる赤い色が線を描いていて、その線の先に起点が見える。
そこには何かが置かれているように見える。いや、私の《瞳》はそんな風に写していない。私はただ見ている事実をそう認識しないようにしているだけだ。
「……ひどい」
男の指し示す線の先。そこにはかろうじて生命を保つ女性の無惨な姿がある。全身を刃物で突き刺され、口を裂かれて顔が紅く染まっている。
私は見えるのは、もう命が失われつつあるものであるという、残酷な事実だけ。
「たす……け……」
女性が、声にならないヒューヒューという音を鳴らしながら紡いだ言葉で私は意識を研ぎ澄ます。
揺らいでいた心が定まる。私の中に平静が生まれる。腰に添えた概念刀に触れる。
概念刀の鞘から伝わる冷たさ、その奥に秘められた混沌とした熱。相克する二つの感覚を飼いならそうと私は意識する。
「言葉が通じますか。口裂け女さん」
『通じない。通じない。誰も私の言葉なんて聞いてない。誰も私を見ていないから。誰も私を見ていない。誰も私のことに価値を見出さないから。誰も私のことを気にしない。誰も私に何かされると思っていないから。通じない。通じない。誰も私を見ていない。私の言葉は届かない』
「東光院さん! 概念刀の使用して良い状況と判断します!」
「既に申請済みだ。事後承認でOKな状況と俺も判断したので抜刀許可が出たものと思ってくれて構わない」
既に背後で榎音未さんと退避しようとしている東光院さんの声が聞こえる。
現場の状況から危害を与える、与えている《怪異》という判断——《言葉師》としての討伐開始。
いける。万全な状態、私と越後屋さんという戦力ならば十分に対応可能。被害者もいる以上、時間をかけずに速攻で決める。
そして概念刀を抜刀——しようとしたその時だった。
「えっ————」
榎音未さんの声、動揺と恐怖の混ざった漏れ出た声。
眼前の《怪異》は動いていない、動く気配もない。ただそこに立っているだけの状態でそれは起きた。
《異能》を持たない東光院さんはまだ知覚しない変化。超常の現象の発生の予感。
反射的に振り返る。
それは円だった。東光院さんと榎音未さんを中心として取り囲む刃物の群れ。
それはすなわち檻だった。
捉えた獲物を、確実に始末するための檻。
現場から去ろうとしてた東光院さんと榎音未さんを円状に取り囲む凶器——メス、鋏、包丁、ナイフ、ピンセット、注射器——《怪異》により構成された物質ではない概念凶器の群れ。
それはまるで獲物へ向けて射出を待つかのような様。
「そんな……」
目の前で敵対行動を取っている存在は私、コンタクトを試みた存在も私、どうして私に何も起きていない?
《怪異》とは人々の《信じること》から出来る。人の思い、人の感情、人の信仰、そんな《信じること》の集積。そんな概念が形を伴って現れること。
目の前の《口裂け女》を構成する《信じること》はなんだ?
おかしい。
「縺昴?逕キ縺九i髮繧後!!」
口裂け女から、聞いたこともない絶叫が発せられる。
いけない——そう思って私は言葉を紡ぐ。
「《干渉》《拒絶》——ッ!」
時間が足りない。私だけでなく、東光院さんと榎音未さんも包まないといけないのに、言葉が追いつかない
「——《実行》ッ!」
《言葉》の行使。私の半径10メートルが全てを拒絶する。音も、攻撃も、何もかも。
それでも、東光院さんたちのところには届いていない。
「あっ……」
榎音未さんの顔が急速に青くなる。貧血のような様子で、榎音未さんが崩れ落ちる。
「榎音未さん!」
《怪異》による急速かつ膨大な情報の奔流。榎音未さんが何かを感知することに長けているのなら、今の口裂け女の叫びは相当なダメージだったはずだ。
いや、おかしい。
思考を切り替える。榎音未さんは鮫神の一件での村に滞在してなお正気を保っていた。それは単純な一体分の《怪異》の発生だけで気を失うほど脆弱ではないはずだ。
ただ単純に《怪異》との遭遇だけで気を失うか?
例えばそう————榎音未さんがその《異能》によって何かを感じとりすぎてしまったか。
並行して続く思考。私が対峙しているこの《怪異》による現象はなんだ?
目の前の口裂け女は未だに「ワタシ、キレイ?」と誰にも聞いていない。どの都市伝説でも共通する凶行のトリガーたるフレーズが発せられていない。
都市伝説の口裂け女は不意に空中に凶器を展開したりしない。
「榎音未さん!」
東光院さん達を包む刃物が加速する。標的をめがけ、その命を奪おうと始動する。
こんな口裂け女の話は聞いたことがない。
「東光院さんっ!」
私がその場へたどり着く間もなく、東光院さんと榎音未さんへ無数の凶器が飛んでいく。
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