探す

時刻は夜の二十二時。

 日の入りが遅くなりつつある春の日とあっても、流石にこの時間ともなれば夜の帳が落ちて空気も空間も暗黒に包まれる。彩子の手に握られた懐中電灯だけが唯一の道標となっていた。

 この感覚もまた、天体観測でしか感じられない独特の緊張感だ。先程まで光に照らされ、視界を自分のものとしていた肉体が急に暗闇と自然の脅威の中に身を落とすのだ。蝶よ花よと育てられた異国の姫も、俗物と蛮族の住む外界の地に身を投げ出されては宮廷で通用した知識や技術は持ち腐れとなってしまう。最終的に何も出来やしない。それと同じように、明るい場所では出来たことが視界と少しの自由を奪われただけで思っていた以上に何もできなくなってしまうのだ。しかし、この精神の内側の小さな犠牲も星々の煌めきの前では尊い犠牲となる。はるか遠い先にいる星達を、沙耶と大きくなった天文部の部員たちと見れる時間を支払ったのだと考えたら、彩子に苦はないと行っても過言ではなかった。彩子にとってはコンビニエンスストアで、昼食を少ない所持金で購入するのと同じ様なものだったのだ。

 道を先導していた彩子は自分の手に持っている光源を次々と消していく。もうすぐ目的地である証だ。面倒なことに、人間は光に見慣れてしまうと星々の煌めきを感知しづらくなってしまう。なので目的地にもうすぐ着くぞ、という時は早めに明かりを消してしまわなければならない。

 その時の彩子と沙耶の様子といえば、酷いまでに静寂だった。友情以上の何かから芽生えた熱い言葉と抱擁を交わした後とは思えない―――否。むしろなにかの情熱を交わし合って、既に心の中の熱が放熱しきった後なのかもしれない、と思わせるほどだった。

 それでも彩子の中では内なる炎が―――それこそ、永遠に心の中に貯まるだけ溜まっていって消える気配を見せない火種が―――燃えているような感情を覚えた。恐らくこの炎は目的達成への情熱であるのと同時に、緊張の類のものでもあるのだろう。

「もうすぐ着くね」

 沙耶がそう言葉を発したのが、民泊を出た後の最初の会話になった。そうだね、と彩子が返せばまた会話は暗闇へと姿を消していった。水にゆっくりと溶けていく、真っ白な砂糖のような。もしくは、真夏のコップの中で涼し気な水の中に入っているのにも関わらず、酷暑に耐えきれずに溶けていゆく氷たちのように、固形の「話題」は暗闇という水の中へ溶けていった。

 彩子は様々の事項を脳みその中で確認して、最後の道標である懐中電灯を消した。本当にこの後は黒、黒、黒の中だ。木も草も、土も自分の手のひらでさえ黒であるような、その中で元の色がある気があるような色だ。彩子は幼い頃にやっていた、様々な色のクレヨンや色鉛筆などで下地を塗り、それを一気に上から黒で塗りつぶし層を作って、鉛筆やシャープペンシルなどの鋭利な文房具で層を削ることによって虹色の線が描ける遊びをふと思い出した。順番や使用道具は合っていただろうか? そもそもこんな遊びは思い出の図鑑にあっただけで、自分自身は実際にペンを手に取り行っただろうか? その事すらも忘れてしまった。沙耶と関連性がない幼い頃の記憶など、とっくのとうに彩子の今まで歩んできた苦労と苦悩の人生の中の前で生贄になっていた。

 大きな広場のような場所に着くと、二人は黙々と準備を始めた。ホームセンターで買ってきた折りたたみ様式の椅子、彩子と沙耶の宝物である望遠鏡。レジャーシートに、少し大きめのビニール袋(中身はコンビニエンスストアで事前に買っておいた夜食や先程の駄菓子屋で買った菓子などが入っていた)と各個人の水筒を重し代わりに置いた。袋では少し心もとない気もするが、ないよりかは幾分マシだろう。

 実のことを言えば、天体観測というのはもちろんのこと、ここまで気合を入れた天体観測というのも、二人にとってはかなり久しいものだった。学校での活動は主に、学校の屋上を使用許可を特別に得て、星座盤を見ながらライトに楽しむものだったからだ。ここまで緻密な観測は、研究発表会的な高校生対象のコンクールでしかやらないからだった。

 そうして一通り準備が終わったあとで、彩子はレジャーシートの上で大の字となった。ああ、今日は星空がよく見える。あの星は乙女座で、あの星は蟹座。「蟹座。蟹座は自分の誕生月の星座だ」という思考回路が一瞬頭をよぎったが、すぐに別の方向に回路を戻した。豆電球を光らせる時、二つの回路を試すように。孤独星、孤独星はどこだろうか? 孤独星を探そう、探そう、探さなければ―――。視線をぐるぐるとさせているうちに、彩子はこう思った。沙耶との別れ、孤独星の概念の破壊、自分の精神のけじめ。それらに終止符を打つのが怖いから自分の頭はわざと、自分の中の何かが意図的にフィルターをかけてしまったのではないか? そう思えば思うほど、気持ちを落ち着かせなければいけない義務と、それに追われる焦燥感の鬼ごっことなっていった。

「沙耶、なにか食べようよ。何食べたい? お菓子とか、食べ物とか」

「じゃあそうだなぁ………そこの飴食べたいな。古くて、昭和の、カンカンに入ったやつ。なんていうんだっけ」

「サクマドロップスかな」

「それだ。ねぇ頂戴」

 この現実から逃げるように、別の話題に話を逸らす。けれど、軽い夕食を食べたにせよ、彩子も心労か体力の限界なのかかなりの空腹感を覚えていた。そう思えば話題も

 流石に目が暗闇に慣れてきたのか、沙耶の顔がよく見えた。ありがとう、と微笑み口角を上げる。大人になったようで、幼子の頃から変わらないその微笑みは、やはり彩子の心に平穏をもたらした。

 沙耶もまた、空を見上げようとはしなかった。孤独星を見える時間はわかっていたし、民泊に戻るまでは少し時間があったからだ。でももしかしたら、沙耶と自分は同じ気持ちなのかもしれない、と彩子は漠然と思った。さっきの沙耶の言葉は本心だろうと確信していたからだ。きっと沙耶も彩子と同じ様に、恐怖心の儘に孤独星を探さずにいるのではないか? 自分と同じ様にフィルターのようなものが脳に引っかかっているのでは? しかし、そんなのは彩子の傲慢だった。沙耶は口の中に少し不本意な表情を浮かべながらハッカの飴を口の中に放り投げて空を見上げ、望遠鏡で夜空を覗いた。そして目をこれでもかと見開いて、こう言ったのだ。

「見て! 彩子、彩子! 孤独星!」

  孤独星。その言葉に彩子は反射的に空を見上げた。短い間の杞憂と、謎のフィルターはあっという間にボロボロと剥がれ落ちていった。その勢いのまま、彩子は望遠鏡を覗いた。

 ああ、孤独星。孤独星。孤独星。あんなにも大きいものだっけ? いいや、小さい気もする。姪っ子を一年ぶり見た、叔父や叔母は恐らくこんな気持ちなのだろう。いや、幼き従兄弟を見たときだろうか? それとも―――。兎にも角にも、頭をスッキリさせるため彩子もハッカの飴を(彩子もまた不本意そうな気持ちになりながらも)口に含んだ。いいや、そんなことをやっている場合ではない。彩子はわかっていた。早く孤独星の概念を、孤独星と自分たちだけの関係を壊す決心を、孤独星との決着を着けねばならない。それでも口の中に広がる美味しい薬草の味は口に広がっていく。急がなければならないのに。

 しかし彩子の視界はぐるぐる回るだけだった。動悸が激しくなっていくのがわかった。少女二人の、ちっぽけな天体観測でこんなに苦しくなるのも彩子と沙耶の関係性だけなのだろう、というくらいには彩子の心は締め付られていた。今の彩子は北斗七星も、処女の初恋のような輝きを見せるおとめ座のスピカすら眼中に入れることができないだろう。

「沙耶、あの星。周りの星は、どの星だっけ? どうしよう、わからなくなっちゃった」

「落ち着いて彩子。その、上は空だけど、周りは自然がいっぱいだからさ。いっぱい息を吸って、吐いて」

 彩子は言われた通りに呼吸をした。先に口の中に入ってきたのはやはり山の空気ではなくハッカの飴の後味だった。

「彩子、これ―――」

 沙耶の手には、星座早見盤(子供向けのものではなく、きめ細やかに星が記載された観測用に用意されたものだった)が握られていた。きっとこれを見て、望遠鏡から銃のスコープみたいに孤独星を除けば、決着自体はその時点で着く。一回引き金を引くだけで、一つの星の存在を壊せてしまうのだ。戦争の時は兵隊たちはこうやって命を奪っていったのかと思うと―――もちろん現代社会と戦争当時では思考が大いに違うが―――それこそ、心臓が射抜かれた気分になってしまった。

「彩子」

 今日沙耶は何回彩子の名を呼んだだろうか。

「沙耶」

  そして、彩子は今日、昨日、一昨日、一週間前、一ヶ月前、一年前、初めて沙耶と出会ったあの日から何回「沙耶」という名前を呼んだのだろう? 銀河に散りばめられた星々と、唯一の友人の名前を呼ぶ回数。この二つは果てしないという観点からはとても似ている。しかし、星と星をつなぐ距離と二人の心の距離は違う。何光年と、ゼロの距離。織姫と彦星に願い事を託しながら、彼女たちは毎日のように友愛を交わしあっていたのだ。

 しかしその友愛も、じきに織姫と彦星のようになっていく。大学とバイトの生活に身を投げる生活の彩子と、夢に向かって飛び立つ沙耶。その二人がまたこうして天体観測、という機会はほとんど無いに等しくなる。

 でもその燃えるような友愛は消えゆくことはないだろう。星の寿命が長いように。きっとどこまでも燃えつづけ、心の奥底の火種に火をつけ、永遠にポジティブもネガティブも沸騰させ続けるだろう。そしてきっと、大人になってゆく彼女たちに星のような輝きになっていくのだ。

「うん、見よう。私たちの《けじめ》をつけるんだ」

 二人の後ろ姿には、流れ星の背景が映った。流れ星は二人の願いを叶えたいとばかりに輝いている。しかし二人は一瞬の流れ星より、幼い頃から見つめてきた一つの星に精神を吸い寄せられていた。

 彩子は、深呼吸をして、望遠鏡に右の目をのぞかせた。スコープにしか映らない数センチの星空。その星空と、星座早見盤には決定的な違いがあった。

「ねぇ、ないよ、ない」

 そう、孤独星は、先人の探し求めてきた星座盤には。

「孤独星って、まさか」

 そもそも、今までの科学と星の神話の中では、存在しなかったのだ。

 

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