遊ぶ

「彩子、彩子」

 彩子の体は、やじろべえのように。もしくは振り子のように揺らされていた。しかし、彩子は前日の準備の疲れが残っているせいか、ゆらゆらと揺らされただけでは人間には戻らなかった。

 天体観測の準備は思ったより手間取ってしまった。半年ほど受験勉強していたこともあり、なかなか天体観測の感覚が取戻せずにいたからだ。どの荷物を持つか、どの時間に出ればいいか、そもそもこの時間に天体観測を行うためにはどういった睡眠方法、睡眠時間を取れればいいのか。何もかもが頭から抜けてしまっていたので、彩子は結局徹夜する羽目になってしまった。今、微睡みの中に意識を落としていたのもそれが原因だろう。

「起きてったら彩子、着いたよ」

 少し大きめの声で沙耶が呼びかけてやっと彩子の意識は覚醒した。重い瞼を精一杯の力で持ち上げれば、目の前には彩子の想像とは少し違った景色が映っていた。

 世間一般的な目から見たその景色は十分田舎、と呼べるだろう。木で作られた無人の駅、駅を通り抜けて一面に広がる畑の緑と健康的に焼けた老人の黒い顔、茶色い木が立ち並ぶ住居。都会とはまた違った美しさと包容的な穏やかさがあり、自然と生命がしっかりと整列されて厳かなその光景は彩子の瞳孔に火傷しそうなほどに灼きついた。

「ここ、最初に行ったきりだったのに。よく覚えていたね彩子」

「沙耶と一緒に行ったところならどこでも覚えているよ」

 どれだけ私のこと好きなの、と冗談まじりに沙耶ははにかむ笑顔を見せた。沙耶につられて彩子も笑う。緑の中で二人が笑い合うその姿は、原っぱに咲く二輪のガーベラを彷彿とさせた。

 彩子はふと小洒落た腕時計を見た。現在の時刻は十三時を少し過ぎたぐらいだった。近くの民泊には十五時に荷物をまとめ、二十二時には観測場所に行く。夜明け前には撤退。何回も予定を脳内で確認した。

「ねぇ彩子、十五時まで少し時間有るよね」

 彩子が念入りに予定を確認している中、沙耶は少し先の曲がり角のあるあたりにいた。彩子も沙耶の方に歩みを進めながら沙耶に話しかけた。

「えっ、あぁ。そうだね。どうしたの沙耶、そんなキラキラした目で」

「見て見て、あそこ。駄菓子屋さんがあるの。田舎って感じ」

 学校の近くによくある黄色い「子供が通るぞ」という標識と少しの坂道がある曲がり角の道には、田舎の子どもたちがたくさんいた。駄菓子屋の店長であろう老婆が、子どもたちからお金を受け取り陽だまりのような笑顔で対応していた。

 その光景を駄菓子はスーパーで売っているものを買うことが大半で、大抵は知育菓子の隣に小さく売り場を広げているものだという認識の沙耶と彩子にとっては、現代の発展に閉じ込められた幻想的な光景として映った。

 彩子と沙耶が駄菓子屋をそっと覗いてみたら、さっき子供たちに笑顔を見せていた老婆が「いらっしゃい」と陽だまりのような声で二人に声をかけた。こんにちは、と軽く会釈をした沙耶は彩子の方を向いてこう言った。

「ねぇ、喉乾かない?」

 菓子の山の手前には、氷に埋もれてよく冷えたラムネの瓶があった。付属の凸凹の凸のようなもので飲み口を開け、ビー玉が中の瓶で景色達を反射する。そんなよく夏の祭りの屋台で売っているような(三月というこの季節に売っているのはいささか疑問を持ったが)、大半が予想するような典型的なラムネだ。一瓶百円前後で、彩子の財布にはその金額ぴったりの硬貨が入っていたので、沙耶に「後で返してね」と釘を刺して二百円を老婆に渡しラムネ瓶を氷水の中から取り出した。老婆の生涯渡って使いこまれたであろう手は、作家たちが自身のイマジネーションを描き出す用に使われる没案の紙束のようにしわくちゃだった。

 買ったラムネのビー玉を下に追いやって、十分に冷えたその液体を喉に流し込む。電車で数十分寝ていたせいもあって、予想以上に喉が乾いていたのだ。彩子はそのことに、ラムネの清涼な液体を喉に流し込んでから気づいたのだ。知らぬうちにこんな生理的な欲求にも気がつけないくらい気が張っていたのかと、彩子は自分で自分に驚愕しそうになった。夏ではなくても喉は渇くものだ。気づけばラムネの瓶も半分くらいまで減っていた。

 彩子は沙耶の瓶の様子を見ようと思ったが、その目線は喉元に向けられた。水が通るたびに小さく上下する喉元はどこか艶かしく見えた。昔から見ているはずなのに、悪戯な夏の妖精の魔力にかけられるだけでこうも変わるのかと思うと、世界は恐ろしいものばかりだと彩子は思ってしまうのだ。

「彩子、飲まないの?」

 そう沙耶に示唆されて、夢から覚めたようにハッとしもう半分も一気に飲み干した。


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