孤独星をぶっ壊せ!

橙野 唄兎

壊す

放課後の春の日差しが眩しく感じる、三月の初め。「放課後」という時間が感じられるのはもう片手で数えられるほどの回数となった。

 頭の中で暦をめくって学生としての青春を味わうことができる機会を、彩子あやこは自分の細い指を一つ一つ折り曲げて数えてみる。何度数えてみても両手は曲がりきらずに、小さな片手の中に収まってしまうのだ。

 時間は自分が人生を歩んでいくことで踏み潰されてしまう、弱いものだとまた実感する。片手で収まるほど小さくて弱くて、儚すぎる。そういうことに気づいた頃には、もう少しで大人の端くれ、というところまで来ていた。

「彩子、話聞いていたの?」

 窓の向こう側の、どこか遠くを見ていた彩子に沙耶が声をかける。彩子は沙耶の完成された端麗な顔、喉に蜂の巣を飼いならしているような艷やかな声色を幼い頃からずっと隣で見守ってきた。

 何度見ても彼女の容姿は完成されている。人形のようにというまで無機質な美しさはない。だが逆に、人間の肌でしか体温や顔色でしか表せない柔らかさがある。その柔らかさは男性はもちろんのこと、女性をも惹きつける魅力があった。

 口に食らいつき絡め取るような接吻でもすれば蜂蜜のような味がしそうな唇と声は、彩子が幼馴染として独占してしまっているのが申し訳ないぐらいだ。

 平々凡々な彩子と並んで円舞曲ワルツでも踊れば、男たちは夢中になって沙耶の方を見るだろう。それぐらい彼女は完成されている。

 それでも恋人も作らずに沙耶はずっと彩子と一緒にいてくれたのだ。この芸術品のような美人を独り占めできるというのは、何と幸福なことなのだろう。

「えっと、なんだっけ」

「天文部で私達を送ってくれるって話。やっぱり聞いてなかった」

 そうだっけ、と曖昧な返事をした。そんな話をしていたのか、と彩子は思った。話をしている間、彩子は完全に自分の世界に入り込んでしまっていたからだ。

 宇宙のような煌めきと紺碧の色を持つ巨大な砂時計が、どんどん砂を落としていくような世界だ。その世界にいると、彩子は時間に追いかけられている気分になる。その世界はいつもテスト前だったり、夏休み終了間近だったり、こういった卒業や入学前に現れたりするのだ。この世界が現れても、嬉しいという気持ちにはならない。でも何故か、利便でもなんでもない田舎の故郷の空気を吸っているような、そんな気持ちになる(実際、彩子自体は田舎には住んだことはなかった。彩子と沙耶が住むこの地域は都会に分類されるには過疎し過ぎているし、田舎と呼ぶには施設が妙に発達していた)。

 自分の世界から離れて、周りを見渡してみると後輩たちが自分たちを送り出すための計画を練っていた。自分たちがいた時の、がらんとした部室とはまるで世界が違うようだ。

「天文部もおっきくなったなぁ、まるで小惑星が一個の星になったみたいに」

 彩子はかつての部室と今の部室を比べてみた。

 そう、もともとこの学校には天文部はなかったのだ。彩子と沙耶が学校に生み出したのだ。

 彩子はこの生誕を、天文部の誕生を「ビッグバン」と名付けた。否、名付けと言うより部活成立へのあだ名みたいなものだ。

 天文部という、部活の枠組みに入った一つの小宇宙。それが生まれた。ビッグバンという名をつけるには相応しいのかもしれない。

 前は小さな部活だったけれど、今は先生にも認識される程大きな部活になっていった。時間が流れるにつれて、後輩も入ってきた。最近になると一年生も入ってきた。この小さな宇宙の成長の賜物だ。

「それで、後輩たち何やるの? ていうか私達いて平気?」

「変に失敗されても困るじゃない。サプライズパーティーで苦手な食べ物が出てきてさ、変に愛想笑いしなくちゃならないなんて嫌でしょ? だったら事前に好きなことや食べ物ややりたいことを伝えて、ワクワクしながら待つのが私は良いと思うけど彩子、どう? あぁ、もちろん後輩に対して期待してないってわけじゃないのよ」

「うん、わかってるよ」

 彩子が沙耶のことを肯定すれば、そのことが嬉しくて沙耶は柔らかな笑みを見せた。この笑顔を見れたことが嬉しくなって、彩子も笑う。沙耶の完成された笑顔の前でだと、彩子は自分の笑う時に出てくるえくぼがうっとおしいと思えるほどだ。

 しばし笑いあった後に訪れるのは弾む会話ではなく、静寂だった。彩子と沙耶の空間だけだ。少し遠くにいる後輩たちは賑やかに話し合いを進めている。あっちに行って「何をしてるの?」「どこいくの?」「自分はこれが好きなの」と声をかけられたら、どれくらい素晴らしいのだろう。

 静寂が訪れる理由に、彩子は思い当たる節があった。進路の話だ。

 彩子は近隣にある某大学に、沙耶は都会の有名大学に進学、上京するのだ。彩子はその話を志望校最終決定の時に聞いたのは夏休み前だった。その時は彩子は仕方がないな、と思った。だっていつまでも一緒、だなんてそんな王子様と結ばれるお姫様のような話現実にありゃしないからだ。そんなお伽噺に寄り縋るよりは、自分で自分を「まだ先の話だから」と慰め、励まし、現実逃避の道に走ったほうが何倍も良かった。

 でも合格となり、もうすぐ通うとなったこの時期になってからは急に心が締め付けられるよな気持ちになっていった。絵空事のような出来事が、日が立つにつれて現実味を帯びてきたからだ。期末試験や模擬試験、受験だって近づいてこないとその恐ろしさがわからない。今まではその話題を避けてきたが、そうとも言えない時期なってしまった。

 予定という近未来の空想が、現実という形になって可視化されなければどれだけの恐怖が襲ってくるかだなんて、結局人間にはわかるものではないのだ。一番身近な例で言うのであれば死のようなものだ。それはどのような形でもやってくる。

 それからは彩子が沙耶のことが大好きでたまらない気持ちが日に日に重くなっていく足枷となってしまった。それこそ、まるで明日死ぬのをわかっている人に会いに行く気分だった。

 この沈黙に耐えきれなくなって、とうとう彩子は自ら話題を切り出した。普段は内向的なくせに、と心の中で自虐をするのはもはや彩子の癖になっていた。

「ねぇ沙耶、結局孤独星ってさ。何だったんだろうね」

 そうだ、孤独星。あれはどうなったのだろう。

 彩子と沙耶が、幼い時に見つけた一人ぼっちの星。

 どの星座の星かはわからない。もしかしたら惑星なのかもしれない、彗星が急ブレーキをかけて止まっただけなのかもしれない。星と星がぶつかって、小さくなっていったものかもしれない。はたまたネヴァー・ランドのように信じているからこそ見れる、子供特有のスピリチュアルなのかもしれない。名付け親である彩子と沙耶にとっても、未だに正体不明なのだ。

 もちろん天文学を生業にしている学者からみたらこの孤独星が何の星か? だなんて周知の事実であり、馬鹿馬鹿しいと思うだろう。当たり前だ。一足す一は本当に二、であるのか? という議論を永遠に繰り返すようなものである(この議論を繰り返す特定の人々を蔑ろにする意図は特にない)。

 この星はなんだろう? 一体どこから来たんだろう? 未発見の星かも? 宇宙人がいるのかも? もしかしたらこっちを望遠鏡のような何かでじっくりと覗いているのかも?

 そんな子供みたいな夢や空想を膨らませることができる。その当てずっぽうで全く現実的じゃない話を笑わずに聞いてくれる。そんな時間が、隣の沙耶が愛おしくて愛おしくてたまらなかった。ずっとこのまま時間が止まってしまえば、あの時間に急かされているような世界には閉じ込められずに済むのだ。閉じ込められるのであれば、楽しい時間を延々と繰り返される方が、少なくとも彩子にとっては甘美で幸福なのだ。

「孤独星、かぁ」

 沙耶は彩子の隣に来て、窓から少し身を乗り出して空を見上げた。今の空には真っ白な雲と青い空。そして美しい桜が舞っていた。彩子の目と思考を通して見るそれはアニメや漫画、または俗に言うライトノベルにありそうな風景だと感じた。

 風景を見つめて少し考えいた、沙耶はこう言った。

「うん。きっと彩子と思っていること一緒だと思う」

 彩子の目を真っ直ぐと見つめた。

「沙耶、言ってみてよ」

「ふふ、嫌だ。恥ずかしいじゃない。この歳になって」

「そんな、私は言う気だったのに」

 あぁ、これだ。この会話の空気だ。嫌な話題なんて一触りもせず、考えず、楽しいことだけを。ケーキの苺と、苺の底にちょっとだけ付いているクリームだけを食べても誰も彩子を咎めない、咎められないこの空気は、何回でも食べたくなるのだ。

「でもさ」

 そうやって、沙耶は口を挟んだ。そしてこう続けた。

「孤独星、このまま一人ぼっちなのかな」

 一人ぼっち。この言葉に彩子は胸を一突きされるような気分になった。未来の自分を見透かされてしまっているようだったからだ。

 彩子は内向的であるので、沙耶以外には友人と呼べるような人がいなかった。少し言葉を交えるだけの関係のクラスメイト達を友人と呼ぶには相手に対して烏滸がましく、結局自分の中で沙耶以外には友人は存在しないまま、十八年間を過ごしてきた。

 孤独星も私と同じような存在なのか、貴方も私と同じような、一人ぼっちなのか。そう考えて彩子は、手を伸ばしても何も手に入らないような虚空を何回も掴んで、まだまだ夢見てしまうような気持ちになった。

 彩子には沙耶がいる。彩子の母には父がいる。隣のクラスのヒエラルキーが高い女子には都会の小洒落た、日の焼けた肌が似合う二十代前半の男がいるというのに。孤独星には誰一人、何一つないのか。宇宙という空間しか、寄り添ってくれないのか。

 友人が多くてもそれはそれで困りものだと(彩子が個人的に)思っているが、でも生涯一人というのも彩子は悲しみとも言えない、しかし同情という言葉を使うには彩子と孤独星の距離は近すぎる。本当は孤独星は、彩子たちにもわからないほどの遠い距離にいるというのに。

 ふと孤独星を呼ぶように空を見上げた。空は真っ白なキャンパスに、適当に水色をぶちまけたような、空と雲が丁度いい割合で分けられている空だ。これは当たり前のことなのだが、今はお天道様が高い高い空から子どもたちを見つめている時間なので星も見えなければ夜空も見えなかった。もちろん孤独星も見えやしなかった。

「なんだか、可哀想」

 沙耶は感受性が豊かだ。それこそ真っ白なキャンバスのように。

「このまま一人ぼっちにさせるのは何か嫌だ。なんとかしてあげたい、かも」

 寂しそうだが、悲しい表情ですら絵になっていく。まるでカルロ・ドルチ画伯の「悲しみの聖母」のように。しかし、美しいものと見れるものは彩子にとっては全くもって違うものなのだ。沙耶の悲しむ顔を見るのは心外だった。

 モヤモヤを抱えたまま沙耶が夢を目指すのは彩子にとてもじゃないが不快なことだった。でも彩子は反面こう思うのだ、このまま一生孤独星が何者かわからずに孤独でいたら沙耶はまた日本に戻ってくるだろう。「また来ようよ」と美しい笑顔を見せる沙耶が、目に浮かぶ。咲き誇る花のように笑う、彼女の顔を。

「沙耶、その気持ちは凄くよく分かる。私達の子供みたいなものだもんね、孤独星ってさ」

 嘘の間に、ほんの僅かの本当を交えながら彩子も笑う。

 これは彩子自身のためであり、何よりも沙耶のためになれるのだ。孤独星が何の星座、何の惑星かわからずにずっと一人ぼっちならば、彩子は沙耶に「また次も見てみよう」という約束ができる。沙耶はきっと、孤独星のことを遠いこの地を通して側に居続けるのだろう。孤独星を挟んで、彩子の側にもいてくれるだろう。もし孤独星が孤独星でなくなったら、沙耶は心置きなく夢に向かって飛べる。

「ねぇ、彩子。私、孤独星見に行きたいの。一人にしたくない」

「私も同じ気持ちだよ」

 あぁなんて意地汚く、文学的な趣もなければ己の欲望がにじみ出ている、気色の悪い嘘なのだろう。

 孤独星は沙耶と彩子をつなぐものである。その点でも思い出深さでも、確かに孤独星は大切だ。でも沙耶がいなければつなぐものの役目はなんにもならなければ、そこらに散らかる塵屑でしかなくなってしまう。せいぜい使えるとしたら、己を首を締めることのみだろう。例の自分の世界に足元一面思い出が未練として残り、その思い出に身を馳せながら埋もれて死ぬだけだ。

 でも意地汚くなれるくらい、死にそうになるくらいに彩子は沙耶が好きなのだ。彩子は沙耶が宝石になるためだったら、ゴミや汚れを取る布切れになってだって良い。沙耶はだって、自慢の唯一の友人なのだから。

 だからこれは、彩子にとっては小さい世界での、大きな博打打ちだ。

「点と点をつなげるみたいに、星と星を星座の毛糸で編んで、孤独星の家族や恋人を作ろう。星座に、惑星に、恒星にしてあげよう。私達の、はるか遠い先にいる子供に友達を送ってあげるの。孤独星っていう名前を犠牲にして、地球から宇宙に愛を込めて。壊しに行くの。何も本当に壊すわけじゃなくて、「孤独星」っていう概念を壊しに行くの。そしたら、壊れる前の孤独星だったあの星を知っているのは私達だけ。二人だけになる。世界で二人だけ。孤独星を壊せても、二人だけの宝物は壊れないはずだから。だから。壊しに行こう沙耶。壊してしまうの。一番大好きな宝物をを壊すのは、私の理解者で、私の親友で、私が世界で一番愛している人と一緒がいいの。一歩を勇気がほしいの」

 肯定するかのように沙耶は、彩子を抱きしめた。

 沙耶が純粋な気持ちで彩子の体を抱きしめる感触を彩子は嬉しくも、どこか鉄の鎖のように感じていた。


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