わたしのつばさ
藤光
わたしのつばさ
五年ぶりに会った彼女はすっかり変わっていた。
まだわたしたちが学生だった頃から、彼女の伸びやかな手足と整った顔立ちには憧れていた。彼女が身につける流行のファッションや最新のメイクは何度も真似をさせてもらった。デートのための靴を一緒に選んでもらい、しつこい男の子のあしらい方も教えてもらった。
香澄はわたしの青春だった。
でも、待ち合わせに指定したカフェに現れた友人の顔は化粧気がなく、肩まで伸びた髪も行き届いた手入れがされてなくて、実際の年齢は三十五歳なのに、目尻に目立つ小じわもあいまって五十歳のように見えた。
「仕事、忙しいの?」
「ん? どうして」
わたしが言外に訊きたかったのは「どうしたのよ、いったい。その古ぼけたマネキンのような格好は?」ということだったのだけど、香澄はまるでピンときていないらしい。
「なんだか……。疲れてそうだけど」
「そう? 元気よ。それに……」
ぐいっとエスプレッソ・マキアートをあおるように飲み干した。
――熱そう。
「仕事は辞めたもの」
「えっ」
不意を突かれてびっくりしたわたしは、もう少しで持っていたカップの中身(キャラメル・フラペチーノだった)を、膝に抱いた六ヶ月になる息子、
なにごとかとふしぎそうにわたしの顔を見上げる空。――大丈夫、落とさなかったよ。
「仕事は辞めた。あんなものにわたしの大切な時間を取られるなんて、人生の浪費よ。ロ・ウ・ヒ」
香澄の勤め先は一流企業だ。さほど大きな規模ではないものの、その分野では世界のトップシェアを握る日本を代表する会社。彼女はその会社で一般事務をしていた。
たしか以前は、仕事が楽な上にお給料はよいと喜んでいなかったっけ。会社勤めを人生の浪費といってしまうのは簡単だけど、そんなに条件の良い勤め先を袖にするなんて惜しいと思わないのだろうか。
零細企業の経理を担当している旦那、いまは子育てのために専業主婦をしている自分、香澄とわたしの身の上を引き比べると考えざるをえなかった。
「会社やその株主のために、毎日わたしの人生をすり減らしていくなんて、まっぴらよ。十年勤めてやっと気づいたの、バカだったのね、わたしって」
ふうん。香澄は『無職』になったんだ――そう考えた自分に驚いた。わたしまだ彼女に引け目を感じてる。堕ちた天使として卑屈に歓迎しようとしてる。でも……。
「いまは自分のため、わたしのために生きてるって感じられるの」
わたしをとおり抜けて少し遠くに視線を据える香澄の瞳はきらきらしている。でも、化粧もせず、ぼさぼさ頭で失業中の独身女ってどうなんだ。一歩ひいて彼女を眺めているわたしを感じる。
「じゃあ、香澄はいま何を?」
「翼を探してる」
――翼?
チーズケーキをぽいっとひときれ口に放り込んだ香澄は「おいしい」と幸せそうに微笑んだ。
「翼を探してあちこち旅してる。北は北海道から、南は沖縄まで。おかげでホラ、すっかり日焼けしちゃって」
確かに香澄の顔や両手はよく日に焼けているけど……、翼っていったい。
「翼を探してるって、鳥の?」
わたしの顔に大きくクエスチョンマークが張り付いて見えたのだろう。香澄はくすくす笑い出した。
「違うわよ。わたしの翼」
「ワタシノツバサ?」
いったい何を言い出すんだ、このコは。わたしの顔のクエスチョンマークがさらに大きくなったに違いない。
「そう。人はだれも大空へ羽ばたいていくための翼を持って生まれてくるんだって。でも、空のどこかから両親の元へ生まれ出てくるとき、地上のどこかにその翼を落っことしてしまうの。
ほとんどの人は、そのことに気づかないまま人生を終えてしまうけれど、運良く自分の翼を見つけ出した人には、ほかの人とはまったく別の人生が開けるんだって。まるで大空に舞い上がるような、ね」
香澄は初めて出会った高校生の頃から時折不思議なことを言い出すくせがあった。偽りの生活から抜け出したいとか、本当の自分を見つけるのだとか。
当時は、わたしも漠然とそんなふうに感じることがあったけれど、もう二十年近く前のことだ。わたしはもう分別ざかりの大人だ。夢見がちな十七歳じゃいられない。
「翼はどこでわたしを待っているのかわからない。翼はわたしを探してくれないのだから、わたしから翼を探しに行かなくちゃね」
「それであちこち旅して回ってるの?」
「そう。きっと見つけるわ、わたしの翼」
わたしから香澄が遠ざかってゆく。結局は一流企業に勤めてて、時間とお金に余裕ができた人の道楽じゃない。
一度そう考えてしまうと、いままで刺激的だった彼女の言葉が、この胸をするりするりとすり抜けていくよう感じはじめた。
古い友人に会った懐かしさや思い出、共通の知り合いの近況など、話したいことが色々あったはずなのに、そうしたこともみるみる色あせていくようだった。
香澄は旅先で出会った美しい景色や美味しかった郷土料理、時折しでかしてしまう微笑ましい失敗などを面白おかしく話してくれてる。
でも、わたしは興味深そうに相づちをついたり、話しの続きを促したりしながらも、心の中では胸に抱いた小さな息子のミルクの時間や、今夜は早く帰ってくると言っていた旦那に食べてもらう夕食のことばかりを考えていた。早くこの時間が終わらないかな。
「ねえ、
香澄がのぞき込むように体を乗り出して話しかけてくる様子に我にかえった。彼女の話はあらかた耳を素通りし、わたしはぼんやりとしていた。
「あ、ごめん。なに?」
「環の翼ってなんだろうね」
すっぴんの香澄は、十七歳の女子高生のようだった。まったく邪気が感じられない。まるで二十年前のあの頃そうだったように。
「さあ……」
「環は考えないの? ホントの自分――というか、そのために存在する自分かな。そんな自分になりたいって」
若いなあ。子供みたい。そういえば子供は化粧なんてしないよね。そうか、そういうことなんだ。
そのために存在する自分か。そういうのは、どこかにあるものではなくって、すぐそばにあるものじゃないだろうか。すやすやと眠っている小さな息子を胸に抱いて歩くとか、一日仕事を頑張って帰ってくる旦那に夕食を喜んでもらうとか。
一時間あまり話をして香澄とは別れた。これから東北の海辺の町を回るらしい。どんな景色や料理に出会えるか楽しみだと笑顔で話しながら手を振って別れた。
五年後――。
空に妹ができた。
二人目は授からないだろうと半ば諦めていたが、寒い雪の日――小さな娘が我が家の新しい家族に加わった。
五歳になる空は、妹が可愛くてたまらない。いたずらが激しさを増す息子に加えて、小さな娘を世話しなければならないわたしは、目が回るほど忙しくなった。
「また、カスミがでてる」
子守の代わりにテレビを見せていた空の言葉に、洗濯物をたたんでいた手を止めて画面を振り返ると、テレビのトーク番組に香澄が出ていた。
まだ赤ん坊の頃に一度会ったきりの母親の友人を空が覚えているわけがないので、それはわたしの口真似なのだろう。そんなこと言ってたっけ。
いまの香澄は、新進のエッセイストとしてさまざまなメディアに取り上げられる人気者だ。もうすぐ四十歳のはずだが、華やかな美人はテレビ映えするのか、いろいろな番組に引っ張りだこだ。いまも自ら撮影した旅先でのスナップ写真を示しながら、新作エッセイの着想を得たきっかけなどを司会者に話している。
テレビ画面でみる香澄は、完璧にメイクがほどこされていて、カメラが彼女の顔をズームアップしてもシミひとつ、小ジワ一本見当たらない。芸能人でもないのに、どういうカラクリだろうと思う。ま、わたしには関係ないか。
カメラが切り替わって、画面は香澄と司会者がテーブルを挟んでトークしているツーショットを映し出した。
――やっぱり。
あでやかに笑う香澄の背には、いつものように白くて大きな翼が見える。呼吸するようにゆらゆらと閉じたり開いたり、女性司会者の前髪に触れそうなくらい。でも、司会者は一向に気にしない。気づいていない、翼が見えていないのだ。
――私の翼、か。
彼女は五年前にカフェで語ったとおり、自分の翼を見つけたんだ。香澄の大空へ舞い上がるための翼を。
「空――。こっちにおいで」
ぼおっとテレビを見ている息子を呼び、おやつに食べたケーキのクリームが頬についたままなのをタオルで拭ってあげる。小さな娘があくびするのも聞こえた、お昼寝から覚めたのだろう。早く片付けてしまわなくっちゃ。
子供は可愛い、旦那は優しい、家族は仲が良くてわたしは幸せだ。でも……。
――彼女はわたしの背に翼を見るのだろうか。
テレビを消し、再び洗濯物をたたみはじめた。
わたしのつばさ 藤光 @gigan_280614
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