最期の桜

春嵐

最期の桜

桜に恋をした。

他のものは目に入らなくなった。


物腰柔らかな佇まい。やさしげな細腕。今でも鮮明に思い出せる。綺麗だった。


最初は、遠くでただ見ているだけだった。それが、いつのまにか、近くで、笑ってくれるようになっていた。


春には多くの人が桜のところへ集う。それでも、私は冬の桜がいちばん好きだった。飾らない。何もない。ただ、そこにある。それだけなのに、なぜこうも、美しいのだろう。


ずっと、冬の間ずっと、桜を見ていたような気がする。


寄り添うようにして、日々を過ごした。しあわせだった。


そしてある日、桜は私に、話しかけてくれた。


「ありがとう。あなたのおかげで、私はしあわせでした。私を見つけてくれて、私のそばにいてくれて、ありがとう」


そういって、桜は、その命を終えた。


物腰柔らかな佇まいは消え。細腕は私の手をすべり落ち。ただ横たわるだけになった。


せつなかった。


私は、これから、何を見て、何を感じて生きていけばいいのだろうか。わからなくなった。




「おじいちゃん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


ヘルパーさん。車椅子を押そうとする仕草。


「まって」


その仕草を、止める。


「もう少し。もうすこしだけ、ここにいさせてください。桜を」


ここにあった桜を。


「桜を、もうすこしだけ、感じていたいのです。どうか」


「どうぞ」


桜がなくなって、私の頭も、動きを止めた。


今ではもう、桜が人だったのか、それとも樹だったのか、それさえも思い出せない。


それでも、鮮明に思い出せる。桜を。


思い出せなくても、思い出せる。感じる。


桜。


私も、あと少しだけあなたを思い出してから、逝きます。

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最期の桜 春嵐 @aiot3110

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